東さんのツイートがはてブにあがっていた
だからいまは本当の意味で批判的なのはどういう態度なのか、原理から考えねばならない。リベラルが「意識の高い」主張をしても人々に届かないのは、それこそが体制順応的だとみな見抜いているから。一言でいえば、反アベといえばちやほやされる世界で、それが批判になるわけがないということです。
— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) 2021年7月4日
右左という枠組みが変質しており、リベラルや保守が語義そのままの意味ではもはや捉えられなくなっているのだと思う。リベラルという言葉が賞味期限切れなんだろうなという印象を強く持つ。東さんが言うところの「リベラルが富裕層で、ナショナリストが庶民」というのは枠組みとしてはどこか間違っているような感じも受ける。
アメリカ西海岸などを念頭に置けばバラモン左翼と呼ばれる人々が富裕層で、ラストベルトのナショナリスト労働者が貧困層という枠組みは適用できても日本ではその限りではなかったりする。富の偏在という観点から言えば日本ではストックの格差のほうが大きく、土地や戸建てを持っている高齢保守層が富裕層としては分厚く、世代間格差を生んでいる。アメリカではリベラルが富裕層であり、日本では保守が富裕層である。経済的な状況で右左の枠組みをとらえるのは少々無理があるように思う。経済的状況はそれぞれの国の歴史に根差した結果に過ぎない。
「リベラルの運動が金になる」「リベラルが支配的な価値基準である」ことはその通りではある一方、経済的な格差と比例するかと言えば、現状はその限りではない。もちろん東さんの言うことは「これからはリベラルしか経済的には勝てない社会になる」という意味であり、アメリカのような先進国のありかたを日本もなぞるようになるだろうと言っているのだとは思う。
未来予想図としてはリベラルしか社会の中で認められなくなり、強権的な保守思想やマチズモは淘汰されていくだろうことは想像に難くない。どころかそれはすでに日本でも起きていることで、そのような社会である限りそのような経済になることもおよそ間違いないのだろう。その点で東さんのツイートは未来予測としてとても的を射ているように思う。
それよりも一連のツイートで気になったのが「本当の意味で批判的な態度」の部分だった。本当の意味で批判的な態度というと抽象的に過ぎるのであるが、リベラルと資本主義が結託し、世界を塗り替えていく限りにおいて、本当の意味で批判的な態度はものすごく難しい話のように感じてしまう。僕達はこれまで、資本主義にたいしてはリベラル的な公共性によって反論してきた。政府による再分配は公共性のうえにたつ概念であったけれど、リベラルと資本が結託すると公共性すらも資本のものになってしまったのが21世紀の条件なのだ。
どういうことか。たとえばアメリカのリベラル富裕層は恣意的な再分配をはじめており、資本家が再分配する人々を選んでいる。国に税金を払い国民に再分配するよりもアフリカの貧困層に分配するほうが功利的に正しいという考えで分配が行われており、公共性はグローバリズムに上書きされている。これは労働に関しても顕著に表れている。日本国内の実質賃金が下がり続けていることは有名であるが、多国籍企業は後進国に労働力を求めており、日本の非正規労働者の賃金が省みられることはない。なぜなら現地の労働者の賃金は日本の非正規労働者よりも安く、生活も苦しいため、現地に雇用を生み出して発展させるほうが自国民の困窮よりもプライオリティーが高いからだ。それは功利的に正しい判断であり、同時に資本家にとっても都合が良い。
資本を持つ者が同時に正しさを振るい、それにたいして国民が反論できなくなっている。かわいそうランキングみたいな話ではあるが、資本主義がリベラルと結託した瞬間にそれは公共性を超え、独善的な振る舞いをグローバルな正しさのもとに許してしまうのだ。事実、貧困国を支援する富裕層は称賛を浴び、正しさと資本を同時に得ることができる。そのような構造になっている。
そして僕達はそれに反論する術を持たない。自国民よりもアフリカの貧困層を支援するほうがより多くの人を救えるのだから。反論するにしてもせいぜい「ちゃんと税金を納めよ」と言うぐらいのものである。以上のような状況なので、保守の側はリベラル及び資本主義へのカウンターとして国の権力を強化するように投票することで、トランプのような強権的な指導者を迎え入れることになる。正しさと資本をリベラルが独占した状況において自分達の生活を守るためにはナショナルな保守思想に投票するしかないのである。
日本ではリベラルのほうが金を持っているとは言えないのでアメリカのような状態にはまだなっていないけれど、これからアメリカの二の舞を踏むことになるのは充分に考えられることだろう。
政治的な批判はある程度パターンが決まっていた。資本主義にはマルクス主義で反論したり、保守にはリベラル、リベラルには保守、グローバリズムにはナショナリズム、軍国主義には憲法9条云々
しかし今はこのパターンがだんだん壊れてきている。上述したように資本主義を正しさの文脈で批判することは不可能になった。社会を取り巻く条件が変わったので思想地図そのものが前提として成り立たず、どこに何があるのかよくわからなくなっている。コロナ禍においても保守勢力のほうが自由主義になっていたり、リベラルがナショナリストのように振る舞っていたりと思想的な枠組みで捉えることがほとんど不可能な時代になってきている。自分自身も自分が保守なのかリベラルなのかよくわからない時がある。
こうした状況において「本当の意味で批判的な態度」とはなんなのだろうか。すごく大事な問いであると思う。コロナで明らかになったように、リベラルを批判する時に使う保守の言葉はもうリベラルを批判していることにはならないだろう。リベラルのほうが自由を手放しているのだからむしろ保守のほうが自由主義たりえたりする。保守を批判する時にも同様にリベラルの言葉は無力になっている。
それぞれが自称する思想と旧来の思想にはズレがあり、批判しているように見えても批判になっていないことがほとんどで、そういう状況の中ではそれぞれが独自概念をツギハギした思想を形成することになる。反安倍と言わないやつはリベラルではないみたいな、ほとんどなんでもありの、思想とも呼べない「勢力」に政治が吸収されてしまっている。リベラルが時に自由を放棄したり、保守が自由を標榜したりと、カオスな状況だ。唯一明らかであるのはお互いがお互いを敵として見なしていることぐらいであろう。
そのような状態で言葉を投げかけても意味を持たず、どのような言葉を持ってしても彼らが敵だと見なせばネトウヨやパヨク扱いされることになる。リベラルをリベラル的に批判したところで右翼扱いされるのだ。本当はかなり近い思想を持っているにも関わらずである。
このような思想的カオスが何にとって都合が良いのかといえば資本主義にとって都合が良いだけなのだ。保守の倫理観を解体し、リベラルの公共性も解体した結果として資本が自由に振る舞うことができるようになり、資本の論理が正しさの論理と合致した世界ではまさに「動物化するポストモダン」とも言える状況が現れることになった。
頑健的な保守による貞操観念という倫理を崩壊させ、女性の流動性をあげることは資本にとって都合が良いことであり、正しさを解体すれば資本を持っている男性に女性が集まってくる事態となった。公共性を解体すれば資本が恣意的に再分配を選択することで貨幣の動きを事実上コントロールできるようになった。
思想が意味をなくした瞬間にありとあらゆる側面で資本主義が支配的となり、その結果として人々はより動物的になっていく。
そうした状況の中で「本当の意味で批判的な態度」は果たしてあるのだろうか。
僕達はなんでも批判できる。自分のような素人でも政治評論できるほどにカオスな状況である。なにをも批判できてしまう。そして、それと同じかそれ以上に、なにを批判しても批判として成立しない。そういう虚無さのようなものがずっと政治には張り付いているのだ。こうしてブログを書いてても誰にたいしてなにを言っているのだろうと、思うことがある。本当の意味で批判的な態度というのを考えるに、態度だけならばいくらでも批判的になれてしまうが、「本当の意味の批判」というと甚だ難しい時代を生きている。そんな気がしている。