最近、なにをどのように考えていたのかわからなくなってきたところがあり、昔見た漫画・映画・本を読み返しています。
ドラゴンボールやドラえもんの映画を見たり、ドカベンや銀河英雄伝説を読んで、アイアムサムやファイトクラブを見て、銃・病原菌・鉄を読んだりしています。
ひとつ思ったのは昔読んだ本や映画を見るのは「捗る」ということだった。新しい本やアニメは刺激的ではあるのだけど、いろいろ考えさせられて疲れてしまうところがある。それに比べ一度見たものは物語の導線を知っているのですんなり頭に入ってくる。
すんなり入ってくるのだけど歳を取ってから見ると新しい発見もあったりして大変おすすめです。
そうして読み返した本の中で「正統とは何か」を読んだのでちょっとなにか書いてみたいと思いひさしぶりにブログでも。
『正統とはなにか』は「狂人とは理性を失った人ではない。理性以外のすべてを失った人だ」で有名なので知っている人も多いのではないかと思う。その一節にタイトルにした文章「詩人は天空の中に頭を入れようとする。論理化は頭の中に天空を入れようとする」が書かれていた。
本の内容は論理的・理性的であろうとすることがいかに人間にとって不自然であるかについて書かれている。論理家は人の一挙手一投足、一言二言、ためいきにすら意味を見出しすべてを論理的に接続しようとするが、だいたい人間のやっていることにたいした意味はないし目的も魂胆もないことがほとんどだったりする。そうした無意味な振る舞いに逐一、作為を見出し、分析し、名前をつける。
そうせずにはいられない人のことを論理家と呼び、そのような人々はざっくり言うと不幸であるという風に書かれている。
『正統とは何か』は著者であるチェスタントンと同時代を生きてきた論理家への応答という形になっていて、彼らの関係性がわからないため、一部要領を得ないところがある。とはいえ書かれていることは明快で、ようするに進歩的文化人にたいする批判が主な内容になっている。その批判がそのまま論理的であることの過謬をついているのが今日でも読まれている理由ではないかと思う。
進歩的文化人とは当時流行っていた唯物論や宿命論を語っていた人々を指しているのだが、当時よりも今のほうが唯物的になっている気がしないでもないし、宿命論に関してもすこし前に話題になった親ガチャの議論に置きかえて本書を読むと大変面白く読める一冊になっていると思う。
唯物論、宿命論、進歩史観はチェスタントンが言うところの論理家(論理ですべてを片付けようとする人々)が信仰している思想であるのだが、この論理という思想こそが思想を殺す思想として現代を覆っているのだという。
読んでいて思ったのはこうした趨勢は現代のほうが濃くなっているのではないかということだった。
一般に論理的であることは賞賛されるべき態度として扱われる。おそらくチェスタントンが生きていた時代よりも現代のほうがその趨勢は強くなっている。
論理的ではない強弁や妄執はその内容如何に関わらずみな聞こうとは思わなくなった。
努めて論理的に、かつ柔らかい感情を乗せて言葉を発することが求められる。
怒りはマネージメントされ、悲しみはケアされ、いかに感情を統制するかが重要になっている。他者の怒りや愚かしさを発見したら客観性(論理)を付与することが現代人の癖であると言っても過言ではないだろう。
それは社会的機能としても実装されており、論理が届かない混沌とした感情が発生するとこちら側に引き戻されるようになった。異様さを発見したら、ケアし、引き戻し、はめもどす。ためいきをつく人がいたらなにか悩みがあるのかと意味を見出し、心配し、元気になるよう努める。けれど本当はためいきに意味なんかなかったりする。
眠いから、疲れたから、仕事が残ってることを思い出したから、なんとなく、単なる癖。人は様々な理由でためいきをつくが、本来、ためいきはためいき以上のものではない。
しかしながら論理家はためいきの意味を見つけ、行為と意味を接続しようとする。妥当性の高い論理を付与し、ためいきはこうこうこういうものであると規定する。
そうしてためいきは論理が生み出した意味に閉じ込められ、意味のないためいきの居場所は失われていくことになる。現に僕達は人がためいきをついた時、一緒にいたくないのか、疲れているのか、不機嫌なのかと思索し、ネガティブな感情を抱く。
ためいきぐらいであれば特段たいした話ではない。気分が落ち込むとためいきをしてしまうのは生理現象でもあるため、ためいきが失礼だというのも一理あるはずだ。
しかしながらもっと一般にみながなんでもないことに意味を見出するようになると、「行動することと意味や目的が繋がり過ぎる」ということが起きてくる。
本来、行動することはなにかをする以上のものではない。なんとなく見る、なんとなく聞く、なんとなく喋る、なんとなく一緒にいる。そこに意味は付与されていない。意味は後天的についてくる、というか与えられる。原理的には行動することに動機はあっても意味はない。
それは赤ん坊を見れば一目瞭然である。しかし大人は成長し、物事を知り、なにがどのような行動であるかを意味づけし、なにをして良いか悪いかを判断するようになる。
一般にそれは成熟という風に解釈されるが、今の時代、「意味を見出されない行動」がはたしてどこまで残されているのだろうか、なんてことを思ってしまった。
電車内でスマホに飽きて前を向く。すると対面に座っている人を見る。その人が女性であれば性的な視線で見ているのかという意味が想起される。単に前を向くことですら添加物としての意味が邪魔をする。
深夜に散歩していれば認知症で徘徊する人と間違われないか、昼間に散歩していれば不審者として通報されないかという意味が想起される。
・・・・運転中にロービームとハイビームを切り替えればパッシングと勘違いされないか、テーブルマナーは、ラインの既読や返信は、アウティング、ハラスメントなどなど。
現実の行動だけではない。インターネットになにか物議を醸すことを書く。するとその人の潜在真理を言い当てようとする論理家がぞろぞろとわいてきてその言葉の意味を抽出しようとする。
勿論、なにもかもに意味を引っ張り出したり引っ張り出されたりすることを気にするのは単に神経質だと言えばそれまでである。
しかしながらこれだけありとあらゆることに論理や意味が付与される時代で、はたしてどこまで無神経でいられるのか(詩人でいられるのか)は現代において避けては通れない課題であるように思うのだ。そうした現代の趨勢を振り返ると『正統とは何か』は現代人にこそ痛烈に響く一冊ではないかという気になってくる。
チェスタントンが言うように僕達は頭の中に天空を入れようとする。
この言葉には続きがあり、「張り裂けるのが頭のほうであることは言うまでもない」と続く。意味や論理をどこまでも入れ込もうと、考え、気を使うと頭のほうがパンクする。それは経験的にもよくわかる。TODOリストが膨大になるともうなにもかもどうでもよくなってしまう。キャパシティーを超えると人は動けなくなる。
頭の中に天空を入れようとすることは確かに問題だ。
しかしながら逆に無神経でいると時に非社会的だというそしりを受けるため、程度問題として意味や論理には付き合うしかない。でなければ狂人そのものになってしまう。
論理や意味に付き合いすぎて動けなくなるのも問題であるし、完全に無視するのも問題であるとすると、大事なのは「外付けの意味を吟味する」ということなのだろう。
経験からくる避けようがない意味づけというのが人生にはある。パニック障害になり電車に乗れなくなった、会食恐怖症になりみんなとご飯が食べられない、PTSDになってフラッシュバックがある、恋人に浮気され異性を避けるようになる、いじめにあって自信をなくしてしまう、ハラスメントにあって適応障害になってしまうなどなど。
そうした経験的に意味づけされたものは避けようがなく襲ってくるものであるが、外付けされた意味は選択的に回避することが可能で、場合によってはその意味を顛倒させることだってできなくはない。ためいきもポジティブなものだと思えばポジティブなものに変わる。テーブルマナーに反し手で食事をするのだって、僕もやったことがあるが、特別美味しく感じたりするものだ。
外付けの意味というのは外付けというだけあってどうとでも解釈可能であることがほとんどである。おおむね誰かが言いだして広まった独自解釈が社会性を帯びた、という程度のものでしかない。
そうしたものに従わなければいけないこともあるけれど、それが外付けの意味だとわかっていれば「意味に乗るフリ」ができるようになる。
今の時代、意味が付与された物事が多すぎてそれらに真面目に向き合うと頭が張り裂けてしまう。ただ、フリをする限りにおいては頭の中に天空を入れる必要はない。場面場面で擬態し、事が終われば捨て置けば良い。不真面目ではあるが、戦略的にはそのような一時的適応が求められる時代になっているのではないかと思う。
長々と書いてしまったけれど論理的・理性的であろうとすることは「怖いこと」だということ。ただこの一点を確認するためだけでも『正統とはなにか』は読む価値があるし、折を見て読み返したい一冊だと思いました。