メロンダウト

メロンについて考えるよ

差別を裏返すということ

まだ本調子ではないので短め。1200文字程度です。

この増田なんだけど

anond.hatelabo.jp


社会的な話としては同意する一方で実際の人間関係を考えてみると「粗末」はそこまで悪い概念ではないように思うんですよね。

なんというか男性同士のコミュニケーションていかにお互いがお互いの粗末さを認め合うかが肝な気がしていて、警戒を解いて粗末に振る舞える関係がむしろ財産だったりするのではと。だから男性のことを粗末に扱うなと言うのはどこか現実の人間関係を置き去りにしているような気がしている。

差別の話だけで言えば粗末に扱われたり警戒されたりするのは社会的な問題として取り上げるべきことではある。しかし差別にも裏表があり、差別されているからこそむしろより強固な人間関係を構築できるという側面が少なからずあるのではないだろうか。
たとえば学校内でいじめられている子が孤立して粗末に扱われ、その被害感情に苦しんでいた時に味方になってくれた人が一生の友達になったりするようなエピソードは現実でもフィクションでも見られるものである。それはその子がクラスの中で孤立し、あるいは警戒されていたというバックグラウンドがあることで、ただ寄り添ってくれただけの人が輝いて見えるというようなことが、子供だけでなく大人の社会でも数多くあったりする。
当然ながらそのバックグラウンド、つまりいじめや疎外は批判されるべきだし解消すべきではある。しかし他方では疎外され警戒されてこそ生まれうる人間関係があったりするのではないだろうか。


女性同士のようにお互いを肯定しあい悩みを打ち明けられる互助関係は確かに魅力的ではあるし、一見すると理想的な人間関係のように見える。しかし男性にしばしば見られるようなお互いを粗末に扱う関係はそこまで悪いものではないように思えるのだ。お互いを粗末に扱い意味のない会話をてきとうに話すけれどしかし困った時には助け合うことができるというような関係は悪くない、どころかかなり心地良いものだと思える。私も友人が多いほうではないし、上記増田の言うような社会の男性にたいする警戒心は日ごろ感じることでもあるけれど、しかし社会が警戒心を向けているからこそ逆説的にその警戒を解いて粗末に振る舞えるような人間関係が愛おしく思えることがある。

社会は外部要因でしかない。それをそのまま受け取るか、あるいは裏返してポジティブに受け取るかを選択することはできるように思う。もちろんそれ(裏返せるぐらいの人間関係の構築)には運の要素が大きいのだけれど。

おそらくこの手の差別論の何が問題かと言えば、僕達は差別を差別として真正面から受け取るしかなくなっている論理一貫性にあるように思う。何が差別かを議論し、差別が社会に溢れていることを言語化し論理として構築することは大変重要な作業だと思う一方、その論理を裏返してしまうことのほうが現実には肝要だったりするのではないだろうか?

と言うこともあるいはマチズモなのかもしれないのだけれど・・・