メロンダウト

メロンについて考えるよ

挨拶の不在と消極的肯定とセキュリティー

マンションのエレベーターに女性と同乗した際、その女性が住んでいる階を知られたくないためすべての階のボタンを押したという話

「自宅マンションエレベーターに乗ったら、乗り合わせた女性が傘で全階のボタンを押して自分の降りる階を分からなくしていた」

というXのツイートが一部で話題になっていた。

論調としては「女性が警戒をするのは仕方ないだろう」「どうせ男が怖い顔してたんだろ」「何故女性の警戒を男が嫌がるのか分からない」

といったもの

 
すごく共感できる話なのだけど、他方でこういう「セキュリティーに侵食された世界」みたいなのは男女の問題に限った話ではないように思う。
 
思い出すのが、昔、相互監視社会が話題となっていたことだ。当時、監視カメラやインターネットの普及により社会が情報化していくなかで、そうした「セキュリティーシステム」からいかにして自由を守るのかということが議論になっていた。しかし技術の発展に伴い、監視カメラのみならずSNSで人が人を監視するようになった今では相互監視社会が自明のものとなり誰も問題にしなくなった。
皆がスマホをかまえ奇異な物や人を見つけたらX(旧ツイッター)に投稿し、みなでシェアし、いいねを押し、時に炎上させたりするのが日常になっているし近年では私人逮捕Youtuberなるものまで出てきているけど、こうした相互監視的セキュリティーシステムがどれだけ人を変容させるのかに関してはほとんど完璧に忘れられており、果てにはSNSの相互監視的空気をリアルに逆輸入しているのが現状なのではないかと思う。
 

・挨拶の魔法が切れる時

他人にたいしセキュリティーを張るようになった原因のひとつに「挨拶をしなくなったこと」があげられると思う。
前提として、他人を警戒するのは自然なことで本能に近いものがある。見ず知らずの人にたいしまったく警戒しない人はいないのではないだろうか。しかしながら思い返すに、そのような考えが前景化したのはここ最近のことで、他人に警戒心を向けるのは不作法であるというのがすこし前までの共通感覚だったように記憶している。増田のケースで言えば同じマンションの住人と挨拶するぐらいには人との距離を縮めよう(警戒する相手かどうか見極めよう)という一応のコンセンサスが社会にあったのではないだろうか。
挨拶すれば必然的に顔を見ることになるためその人の表情を見ることができるうえ、声からもその人の状態を感じ取ることができる。単純に挨拶を返さない人は危ないという判断も可能だ。
その過程を経てその人がやばそうな人であれば警戒するのが本来(と言っていいのかわからないが)の順序だと思う。しかし挨拶なしにいきなり他人を警戒するとその人の属性(性別や身なり)で判断するしかなくなってしまう。そして属性で判断できることは限られているため、結果としてほぼすべての人を警戒しなければならなくなる。
ようするに挨拶しなくなったとは言い換えれば他人を判断するための手順自体が消滅しているとも言えるわけであるが、このような「アクセス不可の世界」はなにも他人に限ったことではなく、知人であっても恋愛や政治の話は以前よりかは気を使わざるを得ない(セキュリティーを働かせる必要がある)場面が増えている印象があり、けっこう普遍的な問題ではあるのだろう。昔よりフランクに他人と話す場面が減ったことはまず間違いない。そしてそれをなんとなく正しい振る舞いだと思っている。なにせ他人と関わるのは気を使うし煩わしい行為であるためだ。僕自身そう思うし、他人との距離が遠い世界は心地よくすらある。
「他人は他人」「お互い干渉しないで生きていければそれで良い」
こうした言葉はかなり通りが良い言説であり、心地よいのも事実であるが、それにより何を失ったのか議論されることはなくなった。端的に言えばインターネットのサービス等により人間一般に関する情報にアクセスするためのインターフェースは増えたけれど挨拶がなくなったことによって特定個人の情報へアクセスすることはだんだん難しくなっていったのではないだろうか。インスタやフェイスブックは特定個人の情報にあたるのかもしれないが、対外的で表面的なことを載せている人がほとんどで「どのような人物」であるかを判別するには心もとないところがある。
つまり、技術の発展と共にSNSが普及し相互監視が広がる情報化社会になったという時代認識はある種の嘘を含んでいて、日常(の一部)がセキュリティーに侵食された結果、他人を知る機会が失われたことで非情報化していっており、その非情報化によって「警戒」や「威嚇」といった本能的及び動物的判断へ里帰りしているのではないだろうか。
 
そして厄介なのが、「じゃあ挨拶すれば良いじゃん」と単純には言えないところにこの問題の根深さがある。近年では他人にたいして挨拶しないことが作法として定着しているため、初手でセキュリティーを働かせる現状から脱することができないでいる。挨拶しなければ他人がどういう人物かわからない、けれど挨拶をすること自体がやばい行為だとすれば結局のところ属性で判断しセキュリティーを働かせるしかない。
さらに言えば、人を属性で判断するとは一般的かつ妥当性が高い視線を人に向けることになるため、黒人は犯罪率が高いみたいな「妥当性は高いが人に向けてはならない視線」をもセキュリティーとして採用する人が出てくるということでもある。当然ながらそのような視線は差別にあたる。似たようなケースは男女でも起こりうる。女性であれば性被害を避けるためセキュリティーとして男性を警戒せざるを得ないが、その時に採用される妥当性が高い判断はその視線を向けられた男性にたいし差別となりうる。逆もまた然り。それが挨拶の魔法が切れた時に起こることであり、増田のケースはその一例と言えそうである。
実際、属性的(ステレオタイプ)な判断はけっこう当たることが多いのも困りものであるが、それでもなおそのステレオタイプを他人に向けることは差別であるという点で属性的判断は危険な判断材料でもある。つまりステレオタイプにより判断するセキュリティー意識と差別は表裏一体の関係にあり、その緩衝材として挨拶が機能していた(いる)のだろう。
ものすごく普通の、小学校で教えられることではあるが、挨拶には想像よりも重要な役割があった。それを思い返すべきなのかもしれない。
 
 

・コロナ禍とジャニーズとセキュリティーの共通項

セキュリティーと言えば思い出すのがコロナ禍だ。当時は自警団が街の衛生セキュリティーの一役を担っており、インターネット上及び政府のステートメントではステイホームが叫ばれ不要不急の外出どころか営業すらも悪だとして叩かれていた。振り返るにこれもセキュリティーに侵食された世界におけるひとつの症状であったのだろう。もちろんコロナ禍におけるそれは暫定的な措置だという見方が強く、みながそれに同意していたかどうかは議論の余地がある。ただ、事実としてコロナが猛威をふるっていた時期には外出することが困難であるような空気が社会全体をなんとなく覆っていたことは否定できない。
「みながそれに同意しているとは限らないが、賛否は消極的か積極的かを区別することなく決定されるため、そのほとんどが消極的肯定にもかかわらずある種の支配力を持って社会にたいし蓋然性をもたらす」というのは日本のような同調圧力が強いと言われる国ではしばしば見られる現象であるように思う。今話題のジャニーズ問題もその典型ではあるだろう。性加害に関しては誰もが否定的でありながら、他方で性犯罪者がつくりあげた会社の恩恵に預かり、みながその現状を消極的に肯定していたし、少し前までは事件に触れることさえタブーとされていた。そうした消極的肯定がなんとなく集まってその「なんとなくが重大な決定力を持っている」のが日本ではそこしかしこで確認できる。
ジャニーズ、コロナに限らず自民党の支持層を見てもそのほとんどが消極的肯定であるし、また、セキュリティーも消極的肯定の産物であると言える。たとえば公園で子供がボール遊びをすることを否定する人はほとんどいないにも関わらず、子供の安全のためという言説が持ち出されるとたちまちみなが消極的肯定の側に回るようになり、結果として大多数の意見とは反して実際に公園でのボール遊びは禁止されるようになる。ネット上でもそれは確認できる。多くの人がインターネットで炎上することなど本来はどうでもいいと思っているはずなのに、企業・個人・政党がネット上の反応を逐一チェックしセキュリティーを張り「なんだかよくわからない道徳」を消極的に肯定するようになると、本来はマイノリティーであるはずのネット警察が実際の社会や企業に変容を迫る力を行使するに至る。
挨拶だって本来はしたほうがいい。けれどなんとなくみなが消極的になり挨拶しないことで全体がしないことに同意した「ことになり」挨拶そのものが危険な行為であるという風に本来の価値観とは真逆の事態が生じる。つまりは倒錯が起きる。それが消極性の罠であり、現状を肯定したり、セキュリティーや居心地の良さといったなんとなくの理由で現状を肯定しているといつのまにか取り返しのつかない地点(他人に挨拶ができないという事態)まで変化が進むことになる。
 
「挨拶をしないこと」「ウィルスが怖いから外に出ないこと」「性犯罪者の会社と取引すること」「自民党をなんとなく支持すること」などなど
 
多くの人がそれを望んでいないにも関わらず「何故か」「いつのまにか」「まるで自明の理であるかのように」現前するこの事態をなんと呼んだら良いのかわからないが、いずれにせよ「社会がそうなっているから皆(多数)がそう思っているとは限らない」ということを頭の片隅に置いておくと、すこし健康的ではあるのかもしれない。