メロンダウト

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ジャニーズの件と権威主義的パーソナリティー

ジャニーズの件を見ていて思うのは結局これって全体主義権威主義的パーソナリティーの問題なんじゃないのということだった。

 

いろいろな報道を見ているとジャニー喜多川にはその歪んだ性衝動とは裏腹にカリスマ性があり彼の力をもってしてジャニーズ事務所は日本最大の芸能事務所へ成長したというのがおよそ正確なところではあるかと思う。その彼の権力に乗る形でマスコミはジャニーズのタレントを起用し、性加害報道があってもその体制が変わることなく今の今まで続いてきた。

けれどBBCが報じたことによって国内でも無視できない問題として報じられているのが現在の状況といったところである。

 

ジャニーズの件については内部事情に明るいわけではないのでよくわからないが、ジャニー喜多川のような絶対的権力に阿る形で皆が口を噤んでいる状態というのはけっこう一般的に見られるものではないかと思う。社長や有名人といった肩書きに弱い人は多く、地位と能力を自動的に結び付けその人物にたいし誰に頼まれたわけでもないのに権力を付与するというのはしばしば見られる光景である。いわゆる権威主義的パーソナリティーというものだ。権力というのは普通、権力者が行使する力と考えられることが多いが、権力の源泉となっているのは社長・有名人・為政者にたいしほぼ無条件の賞賛を送る人々のほうにこそあり、その半自動的な羨望の眼差しが彼らに権力を付与するのであり、羨望や力なき権力者とは単なる人間でしかない。言い換えれば権威を無邪気に与えそれを疑うことのない人々が権力者を作り出すのであり、その無邪気さ、つまりはイノセンティズムが権力を生成するのである。

そして厄介なのが権力とは権力者が持つ欲望であると同時に権力を付与する側が持つ欲望である点だ。

権力構造にもとづくポジションありきの振る舞い(おべっか、ごますり等)であったり、最近で言えば推しと推されという定型化された関係が提示されていれば何も考えないでもそのコミュニケーションの鋳型に没入することができるようになる。事前に予期されたコミュニケーション様式の中にいれば、仮にそれが権力者ー被支配者という関係であろうとも人はそこにある種の「安心感」を得る。逆に相手の立場が不明瞭でどういう人物かわからない場合、どのようにコミュニケーションを取って良いのか不安になる。コミュニケーションの様式が安定していない状態よりかは、たとえそれが権力構造に基づく被支配的な関係であろうとも事前に関係性を了解しているコミュニケーションのほうにこそ人は安心し、依存し、耽溺するのである。

 

 

べたなコミュニケーションで言っても、社長や有名人と相対した時には賞賛が最も選択されやすい手法のひとつであり、多くの人がそのように振る舞うと増長する権力者が出てきても不思議ではない。ジャニー喜多川もようするに誰もが彼に権力を付与してきたことで犯罪すら許される権力者に仕立て上げてしまったということなのだろう。

実際、ジャニー喜多川による性加害は20年以上前からわかっていたことであるが、問題になっているのは彼が亡くなった後、つまり彼の権力が失われた後になってである。(20年前は性犯罪にたいして寛容だったという見方もあるだろうけれど、LGBTがそうだったように小児性愛にたいする風当たりは今よりも強かったはずであるため性犯罪に寛容だったという説明は説得力に欠ける。)

 

 

今、世間で問題となっているのはジャニー喜多川による性犯罪をジャニーズ事務所はいかにして清算するかであるが、マスコミが事務所に忖度したりといった権力構造が温存される限りこの手の事件はなくならないように思う。権力を持った人間(の一部)が腐るのは古今東西で変わることのない人間の性であるためだ。僕もなにか巨大な権力者になって好き放題できる状態、かつその一切が問題とされない状況になればどこまで倫理観が機能するのかよくわからない。人間個人はそれほど脆弱であり、社会主義体制はそれゆえ崩れたし、だからこそ権力を監視・刷新できる民主主義のほうが「マシな制度」というのが定説となっているが、憲法で縛られている民主主義体制とは違い、民間レベルで見れば権力と権力を付与する側の欲望の共依存は制限されていないゆえ、こうした問題はこれからも起きてくるはずである。

ジャニー喜多川はその事件の内容を見ても怪物と形容するに相応しい人物であるように見えるが、その怪物は単独で立っていたわけではなく、ある種の全体性のうえに成り立っていた構築物であり、教訓として学ぶことがあるとすれば誰かにゴマをすって権力を与えることはそれほど無邪気に行って良いものではないということぐらいであろうか・・・

 

権威主義的パーソナリティ - Wikipedia