あざなわさんやシロクマさんがはてな村の言及文化について書いていた。
azanaerunawano5to4.hatenablog.com
自分もけっこう長いことはてなにいるのですが「はてな村」という言葉を見るたびにそれはいったいなんだ?と困惑するところがある。
たぶんダイアリー時代を知らないのでそのころの風習がつくっていた空気のことを言うのかなと勝手に理解してたりする。なので自分がここで書くことはおおむねはてな村とは関係がない。ごく個人的に僕がブログを書く理由であるがそれは同時にはてな村的であったりもするのかなと思っている。
記事を読んでいると議論するプラットフォームがブログからツイッターに移り、それに伴い長文で言及しあうことが少なくなったと書かれていた。確かにそうなのかもしれない。僕はいまツイッターをやっていないのでいまのツイッターの議論がどのようなものなのかよくわかっていない。たまにはてなブックマークに流れてくるのを見ているとどうにも刹那的な印象を受ける。短文ゆえに言外の文脈を無視してツッコミを入れる人が多いのかなと。
個人的に思うのはツイッターのようなSNSはより現実のコミュニケーションに近い。実際、通信手段としてのみツイッターを使っている人もかなり見る。あとはそれぞれの仲間で話題について語り合うみたいな昔で言うmixiのコミュニティのように使われていたりもする。
そうなるとよりコミュニケーションがネタ化していく。現実にもコミュニケーションは属人性に依存しているところがあり、誰々はどういう人だからこういう手段でコミュニケーションをとるみたいな相互信頼の上に成立している部分が大きい。
そういうネタ的なコミュニケーションは大事だと思う。僕もそういう仲間内で閉じた意味を持った言葉によるコミュニケーションは大事だと思うけれど、一方でそうではない場所が僕にとってのインターネットだった。
つまりコミュニケーションがネタ化しないフラットな世界が僕にとってのインターネットの原風景なのだ。
ツイッターのように仲間内で固まり繋がるのとは違い、はてなははてな村とは言いつつも村民意識がそこまでないように見える。実際、このブログもけっこう長いこと書いているけれど「友達」と呼べるような方もそこまで多くない。何名かはそう言えるのなかなと勝手に思っている方もいるけれど事実上、孤独にブログを書いてなんの積み重ねにもなっていないし瞬間的に読まれ瞬間的に反応があって瞬間的に終わっていくだけである。そして僕はそれでいいと思っている。
例えば僕がここで友人やはたまた恋人を見つけたとしたら僕は僕のブログをネタ化せざるを得ない。そうなればもうフラットに書くことはできなくなり、多少なり僕は僕の属人性に従属せざるを得ないだろう。
いやそういうものも僕は悪くないとは思っているのだよ。結局、自分なんてものは他人から与えられる以上のものではないし現実には僕は僕をやっていて僕が僕であることに不満はほとんどないのだけど
ただ同時に僕はそういうものとは「別」な場所としてインターネットを認識してしまっている。こういう考え方自体が古いのだろうけどインターネットが現実とは別の場所として認識する世代と現実を補填する手段としてインターネットを使う若い人がいて自分はどうしようもなく前者なんですよね。
その点ではてなのような属人性によらずいっさいの権威を認めないフラットなインターネットは非常に好ましくすらある。コミュニケーションはほとんどネタ化されず、権威主義的でなくそれでいて冷笑主義でもないネットコミュニティーって今ははてなぐらいじゃないのかな。
昔のはてな村は良かったぞと書いていてそうなのかなあと読んでいて思うんだけれど懐古とか権威とか積み重ねとかそういうものになんの意味も見出さないところがはてながはてな的であるところだったりするのではないか。
おそらくは、はてなのそういう部分に僕は吸い込まれていったんじゃないかとは自覚している。
ツイッターはアルファツイッターの時代からフォロワーが多い人間の発信力に依存していてひどく権威主義的で議論の場として向くとは到底思えない。それは140字という制限を抜きにしてもそうだし
フォロワー数の多い人の意見がトップダウン式に拡散する構造である以上、140字では一般の人のツイートは「反応」にしかなりえないように見える。それははてなブックマークも同じでまともに意見を書くときに140字で何か言えるとは思えないし仮に言っているように見えたとしたらその言葉は相当注意してみる必要があるように思う。そんなに単純化されて言えるようなことはそもそもそんなに多くないはずだから。
なにかまとまりがなくなってきたけれどそんなところです。反応といえばこのブログこそ反応の権化みたいなものかもしれませんがそれもまたネタ化されないコミュニケーションの世界では、どうでもいいものなのです。