メロンダウト

メロンについて考えるよ

Re: インターネットはつまらなくなった

黄金頭さんの記事を読んだ。インターネットは明るくなったという話。

blog.tinect.jp

 

肌感覚としてまったく同様の印象を抱いている。インターネットはより現実に近くなっているし、より礼儀作法が重んじられるようになっている。近年のインターネットがより現実のコミュニケーションに近くなっていることは間違いない。

それが良い事なのか悪い事なのか僕にはわからないけれど、ひとつだけ言えることはかつてインターネットは「別」な場所であったということだ。

現実には明るいコミュニケーションがベースにあり、人と話す時は笑顔で話すなりなんなりいろいろ作法があるけれど、そういう現実とは隔離されたオルタナティブな空間がインターネットだった。

現実とは別の場所であったので、法的なブレーキも機能していなかった。対面性による緊張関係もなかった。また、なんの仕事をしているか、どこに住んでいるか、どういう人物であるか、どういう生活をしているのかといった属人的な背景は一切考慮されないでいた。

みなネット上の人格を持ち、そこに現実の自分を投射し、よくも悪くも思ったことを書きなぐっていた。僕もかつて、僕の不遇について書きなぐったことがある。あまり読まれることはなかったけど、いまやブログに個人的な叫びを書くことはもはや危険になってしまった。

 

ようするに、インターネットはなんでもありの場所だとみなが錯覚できていたゆえに、振り切れた文章に出会うこともあった。たとえば女性への呪詛を書きなぐった文章も読んだことがある。差別的表現満載のテキストだったけれど、どこか面白かった。差別的ではあったが、差別とは言い切れない何かがあった。読み手だった僕はその文章を読んで、経験による個人の心の歪みにただただ同情していた。もちろん女性全体を主語に据えて非難するのは今も昔もアウトであるが、今はそういう「書き方」すらできなくなっている。ネット上のTPOに沿った文章でなければいけない。

とある漫画の作者にたいする誹謗中傷も読んだことがあるけど、今はそういうものを公開したらアウトである。

そういう振り切れた文章、暗いインターネットはすべて世界に発見され世界の論理によってならされてしまうので、暗い文章を書く土壌はとうの昔に失われてしまった。一部の狂人がツイッターなどで差別発言をしているのを遇に見るけれど、かつてのそれとは読んだ時に読み手が受ける印象が違う。単なる差別でしかなくなっている。

かつて「なんでもありの別の場所」であったインターネットは、なんでもありの境界線上ぎりぎりのユーモアによって、ある種のジョークとして機能していた。両親には言えない悩みをおばあちゃんには打ち明ける子供のように。それは「別」の場所だったのだ。

 

それがいつからかインターネットが現実とリンクしはじめるようになった。あほくさいものではなくなった。

www.sinseihikikomori.com

あほくさくない空間で人々は、どうすればよりあほくさくないかを日々学習してゆく。こうすればアドセンスは踏まれる。こうすればアクセスが稼げる。こうすれば馴れ合える。こうすれば褒められる。こうすれば読まれる。こすうれば構ってもらえる。こういう題材について書けば注目を浴びられる。これを書けば検索エンジンからのアクセスを稼げる。あほくさくないインターネットでは、よりあほくさくない方法がすぐわかる。そして人々はそちらへと引き寄せられて行く。無意識のうちに、あるいは意識して自らを修正し、自らをよりあほくさくない書き手へと成長させる。

たとえば現在のインターネットであほくさい事を書く人間が1人生まれたとしても、その命は長く続かない。なぜならば、あほくさい事はあほくさいからだ。アドセンスに最適化されたり、リツイートに最適化されたり、アフィリエイトに最適化されたりして、あほくさい人からあほくささは消える。垢抜けて行くと書くべきだろうか。どれほどあほくさかった人も、あほくさいままで生き続ける事は出来ない。かくしてあほくささは敗北し、あほくささは死んだ。あほくさいが故に存在していたあほくさいインターネットは、あほくさいが故に滅んだのだ。

 

 

インターネットはあほくさいものであったが、あほくさいものではなくなったゆえにつまらなくなった。その必然性について、上記の記事では書かれている。

誰もがそうするように現実の様々な構造をインターネットに持ち込み、営業し、ブランディングし、プロデュースすることであほくさくないものとしてインターネットを使うようになった。

自分がどういう人物であるか、どういう能力があるか、どういう政治的スタンスであるか、どういう社会的立場にいるかといった属人性を出して人を集め、金を集め、現実と同じようにふるまうようになった。インターネットが文字通り生活の一部になり、あほくさくないものとして使用され、至って真面目に使うべきものとして認識されるようになった。現実は真面目に生きなければいけないという当たり前すぎる前提により、すべての文章も発言もなにもかもが真面目に判断されるようになった。その意味で、かつて僕たちの話をただただ聞いてくれたインターネットというおばあちゃんは死んだ、のである。おばあちゃんという冗談関係が消失し、子供に真面目に生きてほしいと願い、「教育する」両親の真面目さだけが残った。それが今日におけるインターネットの風景だと思っている。

 

そこに現実の様々なものが流入してきた。代表的なものが資本主義である。資本主義はあほくさくない。働けば報酬が得られる。ブログを書いて報酬が得られるならそうしたほうが良いのでアドセンスを貼る。しかしアドセンスを貼るとグーグルのマニュアルに沿った文章しか書けなくなり、差別的及び性的表現を使えなくなる。そして文章の幅が狭まり、つまらなくなる。あるいはSEOに最適化しなければ読まれることもなくなる。そうこうしてるうちに企業サイトやアフィリエイトサイトに個人ブログはまるごと駆逐された。

あほくさいものはあほくさいのである。あほくさいものがあほくさいとわからなかったうちはそれがあほくさくなかったが、あほくさいとわかるとあほくさいものはあほくさいだけなのである。今のインターネットはそういう虚無と真面目さ、とあと「金」だけが流通するようになっている。

インターネットが明るくなったというのもそういう資本の論理によるスケーラビリティズムが原因だと言える。スケールを拡大し、数を集めればネットはあほくさくないものへと変身する。それには人とのコミュニケーションを前提にインターネットを捉える必要がある。そこには当然ながら明るさが必要になってくる。現実と同じように明るくふるまう。そうしてネットは現実に同化し始めた。あほくさいものをあほくさくないものへと変身させる資本の論理によって。

現実でもネットでもそうであるが、資本主義も民主主義も煎じ詰めれば「数を集めるゲーム」だということが言える。その資本の論理とインターネットの爆散性(リツイートや流行による加速度的な拡散)は相性が良かった。

 

みんなあほくさくない方法でインターネットを使うようになった。

個人の呪詛をブログに吐き出すなんてことはあほくさすぎるしリスキーすぎるうえに読まれすらしないので誰もやらなくなった。ツイッターで呟くぐらいがちょうどいい。現実の鬱憤を吐き出すのにはそれが最も効率が良い。あほくさくない。