メロンダウト

メロンについて考えるよ

かつて自由だったインターネットからの応答

かつてインターネットに居場所を求めていた人はどこに向かうのかみたいなことを最近考えている。
インターネットの原風景といえば各人で違い、パソコン通信2ちゃんねるmixi・ブログ・SNSなど時代によって異なるけれどブログ以前の世代に関して言えばインターネットは現実のオルタナティブだったということなんですよね。そんなことはもう各所で言われてきたことで、今更ここで書くまでもないけれど、最近はネットがどういった場所であるかがあまり語られなくなってきた。誹謗中傷の問題にしてもようするにネットと現実は直列に繋がっており境目がないため、現実の礼儀作法をネットでも適切に使いましょうと言われている。インターネットと現実がシームレスになったため、もはやインターネットがなんたるかを語ることが意味をなさない時代になった。現実とインターネットは同じ。それが最終回答であると。しかし、はたしてそれで良いのだろうかという疑問があるのだ。
 
誹謗中傷が駄目なのは当然ではあるけれど、そうした議論とは別にインターネットと現実はそのインターフェイスがどうしようもなく違う。身体を伴わないコミュニケーションではノンバーバルな領域での共鳴もないし、現実よりもストレートなコミュニケーションになりがちである。そうした差異を棚上げし、現実とインターネットを同列に扱うことが正しいインターネットであると言うが、はたしてそうなのだろうか。
むしろ本来違うものを同じこととして扱うから妙な捻じれが起きて様々な問題を生んでいるように感じている。それはデジタルネイティブにはわからないことであり、ネット黎明期の風景を知っている人が声を上げるべき問題のように思うのだ。かつて自由だったインターネットと今のインターネットの差異を議論し、ネットの特異性をどこに求めるかという議論はもっとなされて良いし、なされるべきであろう。
現実とインターネットの峻別をどうするかというのは古い問題でありながら新しい問題であると、そう捉え返したほうが良いのではないだろうか。
 
デジタルネイティブと呼ばれる世代が出てきてインターネットをナチュラルに使う人が出てきたのでそれに合わせていくのが正しい社会であるという暗黙の合意により、いつのまにかインターネットは現実と同じものとして扱われるようになった。あるいはプラットフォーマーがネットを席捲しはじめたことにより僕らは全体化せざるを得なくなった。全体化すれば当然秩序が必要になり、そこで持ってくる秩序が現実のそれであるため、結果的にネットは現実と同一化した。
しかし若者やプラットフォーマーの言うことが正しいというのはほとんど思考放棄に近い。選挙の時にも「政党は若者を向いて政治を行え」という言葉をよく見たけれど、「新しい人・物が正しい」というのは社会をどうデザインするかという問いを放棄しているに等しい。海外のプラットフォーマーに迎合することもGHQのころからたいして変わっていないとも言える。「もはやインターネットは現実と同じ」という若者及び世界の自明性を全世代に適応するのは(今更すぎる話ではあるが)ものすごくラディカルで危ういもののように思う。今こそインターネットをインターネットとして見つめ直すべきだと、個人的には感じている。
 
なぜこうした話を蒸し返す意味があるのかというと、結局誹謗中傷の問題もインターネットの全体性と同一性に問題があるように思うからだ。たとえばブログに関して言えばコメントをつけられたとしても個人の発言以上のものにはならない。個人の発言は個人のものとして処理される。しかしいいねやリツイートが実装されたツイッターはじめSNSではそれが無限に拡散され全体化しているように見えてしまう。これが誹謗中傷の最大の問題であるように思う。ネットが現実と同一化すれば現実と同じように相手の発言を受け止める必要があるし、批判や誹謗中傷にいいねがついて拡散していれば「世界に嫌われている」と思ってもおかしくはない。もちろん何十万と誹謗中傷が飛んでこようが世界に嫌われているなんてことはありえないわけだが、世界に嫌われていると見えてしまう僕達の心理はなぜ発生するのか、それを考えたほうが良い気がしている。ものすごく簡単に言えば被害者がそれを被害と感じなければ良いのだが、被害者の心性にまで踏み込んだ話を「することすらできなくなってしまった」のが今のインターネットである。
誹謗中傷された時に言葉を「語義そのまま」に捉えてしまう僕達のインターネット観は心理的なセキュリティーとしてあまりにも無防備なのだ。それをプラットフォーマーや加害者の更生によって解決しようとするのがたとえば「この指止めよう」といった運動であるわけだが、加害者への断罪ばかりが言われた結果、被害者のあるべき姿(つまりインターネットの使い方)を語れなくなったのが今のインターネットだとも言える。
 
インターネットと現実を同じように使うべきだというのはつまりインターネットで言われたことは現実と同じように受け止めろということである。そのような「コミュニケーションの直列性」によって誹謗中傷すらもストレートに受け取る心理に、皆ならざるを得なくなった。賞賛は現実と同じように受け止め、誹謗中傷は誰か知らない人の戯言と切り分けて考えられるほど僕達は都合よくできていない。加害者のほうばかりを問題にしがちではあるけれど、被害者の認知構造にまで踏み込んで考えたほうが良い。ツイッターYoutubeがもはやインフラと化した世界では難しいかもしれないけれど被害者がネットから離れてしまえば本来問題はないのである。それがインターネットのもともとの特性でもあるのだ。嫌なサイトなら見ない、2ちゃんねるで荒らしがわいたのであればしたらば避難所にいくなど。被害を受けた側が逃げ込む場所を無限につくれるのがネットの良いところでもあった。しかしそれもプラットフォーマーが席捲し、ツイッターなどを使うことがほとんど権利にまでなった今のネットでは無理なのかもしれない。
 
別の意味で言えば相手の心理状態がわからないかつ全体化したインターネットでは、批判すらも誹謗中傷になりかねない。そのため、議論することが難しくなった。2ちゃんねるの政治版のような場所では相手が板にきているという「事前の了解」があったため、誹謗中傷か批判かというのはあまり考えずに済んだ。仮に「おまえ馬鹿か」と言われたとしても接頭語や文句の域を、どこか出なかった。ツイッターでは言った瞬間に人格攻撃になる言葉が「通用」していたのだ。他方、今のツイッターはどうか。世界に開かれた言説しかどこか言えない空気があるのだ。閉じられた言葉で喋っていてもリツイートなどで晒され別のクラスタから批判されるため、全体に通じる言葉を誰もが話さなければいけなくなった。
そのような垣根のないインターネットの全体性の中で主義主張を行うのはもはや不可能になりつつあり、一部の先鋭化した「全体性を省みない集団」の専売特許のようになってしまったのである。政治の話をすることは現実と同じようにピーキーなものになった。
適切な言葉を使い、議論しなければならない。しかし、よく考えてみれば「適切な言葉使いなど気にしないほうが議論になる」のである。主義主張を闘わせる議論は本来、攻撃性の坩堝であり、それが建設的という美辞麗句に回収されていったのは思い返すにここ最近のことであろう。ネットに限らず昔の朝まで生テレビなども、動画などを見るにずいぶん攻撃的な話をしていながら、「かつ成立」していた。それが今やお座敷遊び、「用意したカードを披露するだけの座談会」などと呼ばれるようになった。インターネットも同じようにお互いのカードを披露する座談会のようになってしまい、結果として強いカードを持っているインフルエンサーに議論の影響力が収斂していくことになった。フォロワー数や影響力がことさら重要視されるようになってきたのも、つまるところネットが全体化したことと関係している。ネットが全体化するとはつまり「全体性を行使できる(ほどの数を持った)個人が全体性を規定できるようになる」ということである。
 
こうしたネットと現実の同質化及び全体化みたいな話は様々な問題に言えることだけれど、直近で言えば立憲民主党もといリベラルが選挙で負けたことにも関係している。結論から言えばネットコミュニケーションの直列性がハッシュタグデモという政治活動を生み、コピーライトによって全体化することが政治であるという錯誤を生んでしまった。リベラリズムの細かな議論は吹っ飛ばして反自民を全面に掲げた結果先鋭化し、衆院選で惨敗することになった。こうしたリベラルの失敗も、現実とインターネットが同一化していることと無関係ではないのだ。政治的議論には本来、相応の痛みが伴う。経験と社会は決して一枚岩ではないので、右だろうが左だろうが相応のズレがあり、そのズレを錬磨していくことでなんとか自分は右かな左かなと言えるものである。しかしそうした痛さを回避して通りの良い言葉でハッシュタグを打ってしまえば一直線にポピュリズム全体主義に陥ってしまうことになる。誹謗中傷がいけないことだと言ってつくられたコミュニケーションのピーキーさは、逆の意味で言えば細かな議論や痛みを伴う議論ができない政治空間をもつくりあげてしまった。
 
もっと広い話にすると、インターネットと現実が同一化すれば現実のルールをネットにも適用するようになり、資本主義でネットが慣らされるようになった。2ちゃんねるのまとめブログをはじめ、アフィブログやコピペブログにSEOワードサラダなんてものもあった。検索サイトは汚染され、個人ブログへの導線も少なくなり、ブログのサイドバーに設置されていたリンク集などもいまや過去のものとなりつつある。みなが「全体性の中での個人」としてふるまい、個人が資本主義的に査定されるというのが今のインターネットである。牧歌的なニコニコ動画から配信者に金銭をもたらすYoutubeにユーザーが移るなど、言論・音楽・写真・動画などすべて巨大プラットフォーマーの掌の上で扱われるようになった。そこには当然、資本のルールがはいり、TPOに沿ったもの、コンプライアンスなどが遵守されるよう要求され、ようするに現実とほとんど同じルールが敷かれた。
 
陳腐なことを言えばインターネットは現実のオルタナティブゆえにインターネット足り得ていたように思うが、ネットがオルタナティブではなくなった瞬間にあらゆるところで衆愚化してしまったのだろう。衆愚化などという論調自体が攻撃的で今の「健全なインターネット」では言うことすら憚られるのだけれど、かつてのインターネットはそうしたコミュニケーション空間の健全性からはどこか自由であった。加害も被害もある種のオルタナティブ性を持っていたことで語義をそのまま捉える必要すらなかったのだ。「こんなもの、インターネットは所詮オルタナティブに過ぎない」という共同幻想によってむしろ自由でいられた。しかし今やネットはオルタナティブではない。むしろ現実よりも現実らしく扱わなければならず、立憲民主党がそうしたように「社会の本流とすら勘違いさせる全体性」を持って僕達は対峙しているし、しなければいけなくなった。
どちらが良いインターネットかというのが議論の余地があるにせよ、オルタナティブさゆえに人は自由でいられる。そんな側面がある。現実だってそうだ。家族というある意味で社会から隔離された共同体があるゆえに自由でいられる。それはネットであっても変わることはない。このように考えると家族という概念がないのが今のインターネットで、かつてのインターネットが持っていたオルタナティブさ(家族性)をいかに回復するかが目下問われている社会課題のひとつであると、僕なんかはそう感じている。誹謗中傷をはじめとし、加害被害の二元論から自由になり、政治が政治として屹立することなどネットをどこに位置付けるかを考えることで突破できる問題が山積している。
 
(長くなってきてしまったけれど、もうすこし書かせてください。)
というよりももっと直接的に言えば今般の選挙でリベラル政党が惨敗したのは社会的損失だと考えているのだ。反リベラル的な主張をしている当ブログではあるものの、リベラリズムという思想がネットの全体性に汚染され敗北したのは憂うべき事態だとも考えている。リベラル大敗北などと溜飲を下げて良い問題ではないように思う。
リベラル、自由はインターネットの全体性に負けた。選挙のあとに国民は現実的な投票行動をしたと誉めそやす記事をたくさん見たけれど、それは全体性そのものを肯定する意味において衆愚政治を助長しかねない危険なものであろう。そうした全体性に抗うことがむしろ本来のリベラルであった。制度的に全体化するしかない民主主義が機能するためには自律した個人が必要であるという民主主義の矛盾を解消するのが、「自由主義において個人は独立した個人として尊重され進歩主義において社会に参加するべきだ」というリベラリズムであり、コンサバティブや経済観念だけでは回らないのが民主主義である。にもかかわらず僕達はあまりにも全体化を肯定し過ぎていやしないだろうか。
リベラルは本来、オルタナティブとして必要なものであるはずだ。ネットがオルタナティブを持ち得なくなったのと同じように政治すらオルタナティブを持たなくなった。自民と維新、新自由主義経済政党が3分の2を占めるのはどうあれかなり歪んでいる。それは相当慎重に考えてしかるべき事態ではあるだろう。民主主義をそのまま肯定し、全体性がそのまま社会のルールになるというのは一直線にポピュリズムに着地しかねない危険なものである。保守もリベラルも原義としては政治的に必要なものであるはずだ。
 
自由をなくしたインターネットと自由主義政党が負けた政治は明確に連動している。
こうした事態に抗うために僕達はもう一度インターネットを捉え返すことで、「自由になる裾野」を持つことができるのではないだろうか。無論、かつてのインターネットだって問題がなかったわけではないがすくなくとも自由に書き込め、自由に批判され、あるいは自由に誹謗中傷できたことすらがなにがしかの政治的独立性を担保していた。僕達が自由を手放し、ネットと現実を同列に扱い始めたことで失くしたものはなんなのか、それをもう一度考えてみても良い。
今般の選挙結果から見るべき最も重要な視座は以上のようなことだと考えている。