メロンダウト

メロンについて考えるよ

リベラルは何故負け続けるのか、という話はお腹いっぱい

都知事選が終わった。
結果としては小池百合子氏の当選で終わったわけだが、結果以上に注目されたのが立憲民主党共産党に推薦されていた蓮舫氏の得票率の低さ、そして石丸伸二氏の躍進であった。

 

蓮舫氏の敗因は過激化した左派活動家が足枷になったことだと言われているが、市民から敬遠されるリベラル左派というのはもう10年以上前から指摘されていることである。

反権力を謳い自民党との対立軸を打ち出して改革派だという認識のもと選挙を戦っても政策の中身が世間が争点にしてほしい問題とはいつもズレていた。
国政でも夫婦別姓やLGBTの問題を取り上げて経済問題が二の次であるかのような印象を国民に与え、今回の都知事選でも神宮の再開発や小池百合子氏の経歴問題のような小さい問題を争点にしようとしていた。
そのようなリベラル左派にたいして指摘されるのがリベラルは国民を見ていないといった批判である。
リベラルは空想的で一部の支持者しか見えておらず現実的ではない。だからリベラルは勝てない。というような議論をここ10年で飽きるほど見聞きしてきた。

今回の都知事選でもまったく同じことになった。鳥越俊太郎氏を候補として擁立したあの時からなにも変わっていない。

 

おそらく次の衆議院選挙でも同じ構図が繰り返され同じ議論が言葉を変えて再生産されることになる。そうした話は、正直言ってもうお腹いっぱいなのだ。

 

リベラルの敗北はいまや風物詩のようになっていて、選挙が行われるたびにリベラルが~~~といった話をどこの選挙番組でもやっている。もといリベラルを批判することが市民的であることの証左であるというような事態にもなってきている。
リベラルは国民の声を聴いていないと発信することで逆説的にリベラルを批判する側が国民の声を聴いているかのような建付けになっている節があるが、もちろんそういうわけではないだろう。
リベラル左派を批判している維新が国民の声をほとんど聞かないで万博を開催しようとしているし、自民党の議員は裏金問題について説明責任を果たそうとしていない。

 

というよりここ10年の政治を総括するのであれば「リベラルがリベラルをスケープゴートにしてきた」というのが僕の印象だ。
リベラルは民主主義を重んじ国民の自由を尊重するのが正道であり、多くの国民はこのリベラルの理念を強く信じているのが現状であると思うが、こうしたリベラルの理念に反するリベラルが出てきた。ツイフェミやラディフェミ、リベラル派と呼ばれている集団のことである。彼らはアメリカから輸入したフェミニズムやポリコレを喧伝し、社会構築主義的に振る舞い、時に表現物を燃やしたりといった過激な言動を展開し、男女平等を謳いながr女性特権社会を築き上げようとしてきた。
そうした勢力のことをリベラル左派と呼んでいるのが現在の政治状況である。
そしてそのようなリベラル左派を批判することが真のリベラル、ひいては現実の市民であるという形で本来的なリベラルが保守に繰り上げられたというのがここ10年で起きた政治勢力の変遷だと言える。

 

しかしながらリベラルがリベラルを批判するという構図に政治全体が埋め込まれると、当然ながら本来の保守が居場所を奪われるようになる。

国土防衛、ナショナリズムパトリオティズムといった今ではあまり聞かなくなった思想の数々も、リベラル対リベラルという図式が支配的になった今では奇異なものに映る。
今更愛国心を醸成しよう、国防の当事者としての意識を持とうと言ったところでみながリベラルになった今の社会ではまともに聞き入れられるものではない。
かつては反TPPであったりグローバル企業の横暴をせき止めなければならないという言論もそれなりに見聞きしたものの、そうした話はもう蚊帳の外なのだ。
自分の身の回りの生活と自由を保障してくれる政治、ただそれだけを希求するリベラルのことを本邦では逆説的に保守と呼ぶ。そういうことになっている。

 

保守がリベラルに食われリベラルが保守と呼ばれるようになることの何が問題かといえばリベラルがリベラルとして批判されなくなることにある。
表現物を燃やす集団のことをリベラルと呼び、リベラルへの批判と言えばラディカルな言論を展開している集団に向けられるものになると、本来的なリベラルを批判する人がどこにもいなくなる。
リベラルが批判されなくなれば自由主義個人主義に疑いを持つ人が少なくなり、政治も社会も「それとはわからないまま」リベラル化していく。

リベラルを批判している人が多いのだから社会は保守化している、のではない。リベラルがリベラルを批判しているから社会はリベラルになったのだ。

 

保守主義とリベラルという図式であればそこに議論が生まれ、リベラルがリベラルとして認知される。しかしリベラル対リベラルという図式では本来的にはリベラルであるにもかかわらずリベラルを批判しているから保守であるといった倒錯が生まれ、リベラルへの批判はいなされることになる。保守とリベラルの見分けがつかなくなり、それらをまともな市民という大きな括りで捉え、そうではない異常左翼や陰謀論者のことをみなで批判することをこの国では長らく政治と呼んできた。このような空転した政治を象徴するのが冒頭に書いた10年間変わらないリベラルとリベラルにたいする批判の実態なのであろう。


市民という無辜で無謬の人々がいて、そこをはみ出した過ー政治的な人々が市民の枠を飛び出し、それを市民目線で批判し、市民の側に引き戻そうとする。そうしたサイクルを繰り返した結果、市民とはどのような存在であるのか、という議論はついぞ行われることはなくなった。

かつて西部邁三島由紀夫が批判したようなマスとしての国民を批判するような人はもうどこにもおらず、みな市民が市民であることをそのまま肯定する。そのような状況は端的に言って民主主義を肯定し過ぎているような、そんなきらいがあるのである。
つまり今の政治は市民の側にたつかそうでないかという二項対立となっており、当然、政治家はそのような図式に乗らなければならない。それはわかる一方、言論として大切なのは市民の側にたちながら市民を批判することにあったのではないだろうか。政治を変えるには市民を変えなければならないが、政治家は公僕であるがゆえに市民を批判することはできないからこそ言論に社会的役割がある。それが言論の意義だったように思う。そういう勇気ある言論人は本当にいなくなった。
多くの人はSNSで政治家を支持し、フォロワーになり、スピーカーになることはあっても最も大きな権力者である市民にたいする批判を行うことはない。
そんなことをすれば市民をはみだした異常者として左翼や陰謀論者と同じそしりを受けることになるからである。市民を批判することも市民からはみ出すこともできないゆえに言論としては詰みの状況にある。ゆえに10年間なにも変わることはなかった。

できるとすれば政策議論のみとなり、もはや誰も政治思想の話はしなくなった。

具体的で現実的かつ市民の側にたっていること。それだけが政治なのである。一見するとこれは良き政治だと捉えられる。それが今の時代であるが、どのような現実をつくるかという理念が無謬であればそこに議論は生じず、ただ単に正当な手続きを踏んでいるか、不正はないか、という議論にしかならない。
それだけが良き政治や言論の有り様だとするのであれば、個人的にはすこし寂しく感じたりもするのだが、詮無きことなのかもしれない。