メロンダウト

メロンについて考えるよ

コロンブスと目録的政治観

コロンブスのMVが炎上しているみたいで僕も見てみた。

 

MVを見るとコロンブスが類人猿を従えてるように見えて、コロンブスの悪行を知る人からすれば憤慨するのもわからなくはなかった。僕はコロンブスの知識がアップデートされていなかったので海を渡って新大陸を開拓した人ぐらいの認識だったため、おそらく炎上していなければ趣味の悪いMVだなという程度の認識だったように思う。猿が人力車を引いているシーンはコロンブスのことを知らなくても不快に思う人はいるだろう。音楽は終始陽気な雰囲気であるうえコロンブスに扮したボーカルの人は楽しそうである一方、猿を従えて労働させているという点ではかなりシリアスな表現を含んでいるため、アンビバレントな感じを受けた。猿を労働させていることを風刺やアイロニーとして表現しているのであればまだしも悪意も他意も感じさせない純粋に陽気な音楽が鳴り響いていて、どう受け取れば良いのか混乱してしまう、というのが率直な印象だった。

 

僕の感想はともかくとしてこのMVが炎上しているのはコロンブス歴史認識に基づくすれ違いによって生じたものだというのが主流な意見であると思うのだが、この「認識の齟齬」をどんどんアップデートしていくことが果たして良いことなのか。そんな疑念を持ってしまった。

無知は怖い。それが今回の炎上から学ぶべき点だというのが一般的な見方であると思うが、認識をアップデートすることも無知と同じくらい怖いことだと最近は思うのである。

 

思い出したのが「目録的言語観」というものだ。

たとえば、よく「肩凝りは日本人しかしない」と言われることがある。英語では肩凝りを表す言葉がなく、肩が凝った時には背中が突っ張っているという意味で「I have a pain on my back」や首が痛い「stiff pain」と表現したりするみたいである。

デスクワークで筋肉が緊張して痛くなることは万人に共通しているものの、肩が凝るという概念は日本特有のものであるらしい。そうした概念を持っている日本人は仕事で疲れた時にふと肩が凝ったかもしれないと思うと肩が凝った「気になってくる」。それが認識の怖いところである。他にも、映画やアニメで銃を打ち合うシーンで登場人物が眉間を打ち抜かれると見ているこちら側の眉間がむず痒くなったりする。また、風邪だと思い込むと本当に体調が悪くなったような気がしたりするし、美味しそうなご飯の映像を見ると実際にお腹がすいてくることがある。


はじめに肩が凝るのではない。肩が凝るという言葉があることで肩凝りという概念が認識に落とし込まれ、時にその言葉によって実際に肩が凝るようになる。はじめに言葉=カタログがあり、現実は言葉をなぞる二次的なものに過ぎない、ということを目録的言語観と呼んだりするみたいなのだ。

 

 

 

なにか情報を受け取ったり認識をアップデートしてそれを概念としてインストールするとそれが実際に作用するのが人体の構造であるとするなら、果たして無知は罪であるととして知識や情報を全面的に受容することは良いことなのだろうか。そんな疑念が湧いてくる。


コロンブスの件では無知が罪だと言うことができるし、多くの場合、知らないより知っておいたほうが良いことのほうが多い。それはそうだろう。知ることによって対処できることが増える。ほとんどの場合そうなのだが、知ることによってリスクが増し、過剰にセキュリティーを張らなければいけなくなることもある。というか、今の時代、そのような傾向のほうが強いのではないだろうか。あらゆる情報にアクセスすることができるようになったことで、あらゆることをリスク計算し、問題を発見し、対処しようと躍起になっているのが今の時代である。言い換えれば、目録を作成し続けているのが現代だと言うことができる。


政治に関して言えば、新たな言葉を作成したり輸入することがひとつ知的な態度であるといった風潮がある。トキシック・マスキュリニティ、トーン・ポリシング、マイクロ・アグレッション、○○ハラスメント、弱者男性、エキセン(エキセントリック・センター)などなど。そうした言葉の発明に躍起であり、それを目録としてみなの頭の中に登録し、その概念によって社会を変えようとしている。いうなれば目録的政治観がネット社会となったいまや支配的なのだ。しかしながら、目録を更新すればするほど何故か生きづらさが増して言っているようにも感じる。それは一言で言えば、目録に触れることで「肩が凝るようになった」からなのだろう。すこし前までは今ほど情報に接する機会がなく、ゆえに目録がどのようなものかも知らずに過ごしていた。したがって肩が凝ることもなかった。それが今やあらゆる概念を知ったことでなにか奇妙なことを見つけると既知の概念がトリガーとして発動し、違和感を覚えるようになった。すこしの「異」や「愚」や「悪」を見つければ、見過ごすことができず、すぐに目録を参照しだしてしまう。それは知で判断していると同時に、知で判断「しなければいられなくなっている」点で、ある種の病理でもあるのだと思う。

 

コロンブスの件はそれを非常にわかりやすく例示している。コロンブスが開拓者か侵略者かという認識を持っているかそうでないかでMVの見方が変わるということは目録が人に与えるインパクトの強烈さをこれ以上ないほどわかりやすく例示しているのだ。
コロンブスアメリカ大陸で何を行ったか知らない人に侵略者であるという目録・情報を与えれば炎上の理路が理解「できてしまう」ことで見方が逆転する。それは局所的には「知のアップデート」と呼ばれ、望ましく迎えられる一方で、大局的に見ればなんの目録を与えるかで人の感情や判断をコントロールできてしまうことの証左でもある。そしてそれはとても恐ろしいことのようにも感じる。

 

僕達は肩がこるという言葉を知った瞬間に肩が凝り始めるような、思いこみの動物であるが、はためには自由で開かれたネット社会に生きていることであらゆる情報にアクセスできるためプロパガンダに踊らされない理性的な現代人だとどこか盲目的に信じている節がある。騙されないと思っている人が最も騙される、とはよく言われることであるが、いまやそれだけでは足りず、騙されないために目録を更新し続けなければいけないという構造それ自体に囚われていることを注意する必要がある。でなければあらゆる概念をインストールすることによりあらゆるリスクを見て見ぬふりをすることができなくなり、場合によっては身動きが取れなくなるかもしれないからだ。外付けの目録を知ることで本然から遠ざかることになる。振り返るに、そんな場面は日常にもネット上にもありふれているのではないだろうか。

もちろん開かれた情報化はなにをもってしても守らなければいけないものだと思うが、それを更新し続けた先に知と理性のユートピアがくると思ったらそれは大きな間違いなのだろう。

 

目録を更新することは、何がリスクであるかという概念を拡張し続けることでもあり、そのような概念を作成すると現実に反映されるようになり、結果として無限のリスクに晒されるようになる。それがアップデートの功罪であるように思う。
政治観、社会観、言語観、あらゆる領域で目録を更新したとて、僕達は肩が凝るようになっただけであり、これからもますます肩が凝り続けることは必至だ。そうした緊張の時代なのかもしれない。