参院選が終わった。
結果としては自民党の大敗で参政党と国民民主党が躍進する形になった。結果だけ見ると既存政党とリベラルへの反発がもろに出た形であり、多くのメディアもそのような論調で分析している。ドイツのAfdやフランスの国民戦線のように日本にも右派ポピュリズムの波がやってきたと分析している人がほとんどであるように思う。
しかしながら思い返してみるともうずっとリベラルは負け続けている。前回の衆院選でもそうだったし、都知事選においても蓮舫さんが石丸伸二さんの後塵を拝することになったりとここ数年、リベラルが勝ったことはないのである。
今回の参政党の躍進や都知事選での石丸旋風のようなSNSの風に吹き飛ばされるぐらいには脆弱なのが今のリベラルである。にもかかわらず選挙のたびにリベラルは負けたという分析がなされる。それが不思議でならない。
リベラルを巨大な敵として設定することで「今のリベラルにたいする反動として国民は右傾化している」という論が建てられるが、そもそもここ数年の選挙で負け続けているうえに最近ではネット上でもそっぽを向かれているリベラルを反動の原因と見るのは右翼のご都合主義的言説にしか見えないのである。数年前までは僕もリベラルを批判する側であったが、リベラルが実社会に影響を及ぼしているという話も最近は懐疑的であるのだ。
一般にリベラル的な価値観とされているポリコレ、男女平等などに関してもリベラルがそれをつくったというよりも素朴な大衆感情(差別は駄目、人間は平等、権力勾配はむかつくetc)の集積により非人称的に作動し始めたというほうがいくらか正確だろうと考えている。
ようするに最初はどうだったかわからないがいまやリベラルは藁人形と化しており、社会で起きている問題の責任を転嫁できる便利な敵になっていやしないかということだ。たとえばリベラルがハラスメント撲滅や男女平等を推進した結果少子化が加速したという話があるが、これも大衆にとってリベラルのせいにしたほうが都合が良かったからという見方もできる。どちらかというとムラ・イエ・キギョウに従わないための都合の良い言説がそこに転がっていたから拾って使ったために一般化して社会のルールになったというほうがいくらか正確な気がしている。それをリベラルのせいにするのはいわゆる三島由紀夫が嫌っていた日本人の変身性そのものではないだろうか。戦争が終われば大衆は自国の犯してきた侵略行為を忘れ、まるではなから自由民主主義者であったかのようにプリテンドする。そうしたカメレオンのごとき、価値なき日本の姿に絶望したのが三島由紀夫だったが、その変身性を自らが変身するためではなく敵を変身させているのが今の社会なのである。
特にインターネットは敵を作り出す装置としてとても優秀である。誰かの失言や論破される瞬間などをまとめて投稿するとわらわら人が集まってくる。そうして生成されたテキストや動画に支持者がスクラムを組んで敵が愚かであることをコメントに書きこみ、いいねを押し、自分達が友であることを確認しあう。そうしてできた幻想の共同体が実政治の流れを産み、リベラルが反発を受けた選挙であるという結果が出力される。そうした錬成された結果に右往左往するのももう飽きたというのが正直な感想である。リベラルが巨大な敵であり社会のヘゲモニーを握っているなどというのは単に嘘だからである。
リベラルや自民党が社会を壊したとして仮にそれが一定程度事実であったとしても最も責任が大きいのは、この国が国民主権であるかぎり国民である。その事実から逃避できるために責任を押し付ける対象を僕達はいつも探している。
参政党支持者にとってはそれがリベラル社会(をつくった既存政党)であるというだけだ。そのためには敵をより大きく設定し、リベラルが社会を壊したと喧伝しなければならない。そんな大きなリベラルなどもうどこにもいないというのに、である。いわゆる左翼活動家として知られる津田大介さん、北原みのりさん、さえぼうさんなども随分穏健になってきている。また、数年前に話題になったリベラルが表現物を燃やすこともほとんどみなくなった。そういう事案が起きるのは思想犯ではなくネット炎上のフレームを利用した愉快犯の仕業になっていて、もうリベラルがどうこうという話は事実上終わったと個人的には見ている。もちろん、たとえば左翼が性教育に熱心だったり、児ポや選択的夫婦別姓などのイシューはあるし、行き過ぎた自由がパターナリズムに変化した過激なリベラル勢力はいまだに存在すると考えているがそうした人が出てきて過激な発言をしてもネタにされて終わりである。ようするに以前のような過激集団としてのリベラルが少なくなっていることは確かだろう。なによりも今のリベラルは実社会に影響を及ぼすほどの勢いがない。革命よろしく口角泡飛ばすような左翼仕草と今のリベラルは似ても似つかない。リベラルはリベラルのコミュニティーでリベラルをやっている。それは今回の選挙でほとんど話題にあがらなかった立憲民主党を見れば明らかである。かつてのように共産党と組んだり、無理に党を解体するようななりふりかまわないやり方はやめてつまらないけど着実なリベラルにすこしずつ変わっているように個人的には見ていて、同時に密かに期待していたりもするのだ。
そうしたつまらなくなったリベラルにたいしてそれでもまだ敵認定し「擦っている」こと。そっちのほうがよほど重大な問題に見える。なぜか。今の政治情勢においてはリベラルを敵として認定することが政治的な言説において最も安全であるが、それではもう何も進まないどころかやればやるほど今回の参政党のようなおかしな反動を生み出すことになるからだ。参政党が出てきたのはリベラルに責任があると言えば参政党がまるで被害者であるかのように見えてくる。それを旗印として参政党支持者も僕達は被害者なんだと声を大きくするようになる。「日本は外国人に買われている」「リベラルが日本人の心を破壊している」などとにかく自分達は被害者なんだと喧伝することに躍起である。
でもさ、それってすこし前にリベラルがやってたこととなにも変わらないじゃん、と僕には見えてしまうのである。
「マチズモやボーイズクラブによって女性は社会的に弱い立場にたたされているのだ」と「リベラルによって日本社会は駄目になった」は論の建て方としては何も変わらない。どちらもなにかを敵として設定し、自身を被害者の立場に置くことで正当性を確保している。
そして今回の参院選におけるリベラルへの反動という分析はこのような考え方、被害者仕草に免罪符を与える機能がある。客観中立的な書き方をする論客がリベラルが悪いと分析しているのを参政党支持者が読めば自分達はリベラルに社会を壊された被害者なのだと考える。つまり客観的分析は被害者意識の外堀を埋める効果がある。ちょうどリベラルがジェンダー指数ランキングを自説の客観性を担保する材料とするように、リベラルが悪いという分析は排外主義者にたいし彼らの考えが客観的であることを保証する材料として使われる。つまり客観性と被害者仕草は共犯関係にあるのだが客観性という言葉はこの共犯関係を巧妙に覆い隠す性質を持っている。僕達は客観的に被害者なのだと言われれば、被害加害という人間関係や政治情勢の問題を事実関係へと変換してうけとる性質を持っている。
実際に客観的であれば正しいという考えを持っている人は多い。というかほぼ全員そうだろう。デマを信じている参政党支持者だって例外ではない。けれど僕も含め客観的であるかどうかを確認する術がない。極端な話、石破総理が実在する人間なのかどうかも究極的にはわからないが、メディアや周りの人が石破総理は実在すると言っているので確度の高い事実として受け取っているだけである。しかしながら普段はこんな哲学的なことは考えておらず、なにか客観的っぽい書き方をされると盲目的にそれを信じてしまうし、客観的に被害者だと言われれば、性被害のようなことを連想して100:0の話として捉えてしまいがちだ。しかし今回のようなリベラルが社会を悪くしたという話に客観性などそもそも存在しない。完全に関係性(リベラルとリベラル化した僕達)の話である。僕達はそれをしばしば忘れる。
ようするに客観性という言葉自体がレトリックであり、人を説得するための詭弁として使われることがあるということだ。今の政治にまつわる言説においては特にその傾向が強い。リベラルへの反動という分析もそのひとつに過ぎず国民の被害者意識を拡散する詭弁として使用されてしまったのではないかと。そんなことを思う選挙だった。
いずれにせよリベラルが悪いという言説はもうその賞味期限が切れており、これ以上食べると社会がお腹を壊すよと。それだけです。