統一地方選の最中、スローガンが独り歩きしていた。
「投票に行こう」である。
最近いろんなところで話題のたかまつなな氏が若者の投票率を上げるために活動しているようで、その活動自体は素晴らしいと思う一方、投票に行くだけではその一票は「意志なき票」であるため政治への影響力はほとんど持たないのも忘れてはならないように思う。巷では若者の投票率を上げると政治が若者のほうを見てくれるようになるとまことしやかに言われているがそのような見方はいささかピュアすぎやしないであろうか。意志なき票が増えても票が拡散したり「よくわからないから自民党に入れる」という自然保守的な投票行動に至るだけで政治に影響を与えることはほとんどないように思われる。実際に政治にたいし影響を与えるのはロビイングのほうで経団連・経済同友会・農協・宗教団体・商工会議所などが直接的に議員にアプローチし、そうしてできた関係性を票田として政治家が意識するようになることで政策などに繁栄されることになる。特に地方選ではその傾向が顕著で、地元の土建屋などを票田に持つ議員が当選しているのが現状である。建前上は政治家も「清き一票」と呼んで民主主義を礼賛するものの、政治だって人間関係の一種である以上、他人と知人には明確な階層があることもまた事実であるだろう。
それを「バラバラの無辜の一票」でひっくり返すことは到底敵うものではなく、既存政党に食い込むには票田となる人間関係を構築しその総数で戦うというほうがいくらか妥当な戦略だと言えそうではある。
「投票に行こう」という一票を促すスローガンは、そうした政党政治の集団性にたいしてはむしろ逆効果であり、個人の投票行動がバラバラになればそれは結果として最大政党である自民党に資するだけとなる。
現実の結果を見てもそれはわかることで、今回の統一地方選では維新がその議席を伸ばすことになったが、知っての通り維新は大阪にその地盤を持つ政党でありその土着的な集団性こそが自民党に食い込みうる条件となっているのだ。その他の「個人」は「投票に行こうと促されて投票に行くだけ」となっている。多様で自由な個人は、その自由さゆえに政治的な力を持たない。
なんというかつまり「投票に行こう」というスローガンそれ自体が若いのではないだろうか。
立憲民主党などのリベラルはここ数年、自民党の後塵を拝してきた。しかし他方で社会はリベラル化していっている。個人主義化が進行し、自由や多様性を皆が支持し、最近ではSDGsなども話題でマスコミでも連日報道されるぐらいにはリベラル的なものばかりが目に付く。また、リベラル政党にたいする批判もリベラル化していっており、共産党や立憲民主党がその支持率を落としているのも彼らがリベラルではなく「リベラルクラスタ」となったことで自由を信奉する市民から批判されている構図だといったほうがしっくりくる。リベラル政党が負けても社会がリベラルを拒絶したというわけではない。むしろ社会がリベラルになったからこそ、その自由を体現した市民がその身体感覚をもってしてリベラルを精査するようになった、というのがおおよその政治・社会情況ではないかと思っている。
その社会の空気を受けてかどうかはわからないが岸田首相もリベラル的な政策(カーボンニュートラル・デジタル田園都市・LGBT理解増進法の議論など)を掲げている。
けれどリベラル政党は選挙で勝てない。それは上述した通り、自由を標ぼうしている限り投票に行こうと呼びかけること「しかできないから」だ。
自民も立憲も共産も、そして社会や国民すらもその意味は違えど自由を信奉するようになったこのような「リベラルコスモロジー」にあって、僕達はおそらく自由の先を考える必要に迫られているように思う。
それが保守主義である、と明言するようなことはしないのだが、思い出すのが西部邁さんの言葉の数々だ。
今は亡き西部邁は生前、たくさんの著書を書き残しており、保守思想家として知られる通り自由主義への批判も書いていたが、その多くは「大衆批判」であったように記憶している。個人的に西部さんの思想というよりもスタイルがものすごく好きで、著書はかなり読んでいるのだが、西部さんはオルテガの『大衆の反逆』を引き合いに出すことが多かった。
オルテガの『大衆の反逆』は近代人・大衆を批判した本だった。大衆といっても下層労働者のような即座に浮かぶイメージとは違い大衆の中には科学者などの有産階級も含まれると書かれている。オルテガが言う大衆の定義とは自らを疑うことなく他人と同質化することに喜びを見出す人のことであり、それは階級とは別に存在する近代人の性質であり病だと言う。近代とは一般化の時代とも言われ、たとえば工業製品を取ってみてもネジの規格を揃えることで生産効率を上げることが可能となったように人の人格や考え方も一般化という鋳型にはめ込まれるようになる。宮台真司氏がひと昔前に若者を批判する時によく言っていたことであるが人々は人間関係でもキャラを演じるようになりどうやって振る舞うのか、そのマニュアルをインストールするようになった。また、近年ではコンプラやハラスメントに厳しくなっているが、そのような客観的指標によって人間関係を判断するのも一般化が極まった結果とも言えるだろう。ネジ穴に合わないネジはパージされる。そのようにかたどられた一般的(平均的)人間はその平均性ゆえに主体性を失い、自由に漂うことで、何が当為なのかを考えることもなくなる。それがオルテガの言うところの大衆・近代人・平均人だと、おおよそそのような理解で間違っていないように記憶している。
西部邁はこのような話を敷衍し、近代から現代へと目を落とすことでその現代性を批判し、大衆にたいしては徹底して懐疑の眼差しを向けるのである。いまでこそ保守とは市民生活に寄り添う思想のような捉え方をされるが、保守だからこそ過去から現在へと目を向け今の大衆や国民の在り方を批判し、逆説的にそれを守ろうと努めるのである。つまり、自由によってバラバラにされる個人や社会にあって、「それでもなお」国家としての持続可能性を守るには何が触媒として必要で、どのような共通理解を構築し得るかを考える、というのが本来の保守主義なのだ。そのためには国民を批判することをさえ厭わない、と西部邁であればそう言うだろう。
このような一世代前の知性を見ると、投票に行こうというスローガンのその浅はかさが浮き彫りになってくるような、そんな気がしてならない。
「投票に行こう」と言うのは良いが何を基盤にして投票するのかを問わない・言明しない・疑わない。さながら非核三原則のような状態であるが、はたしてそれで民主主義が成り立つなんてことがあるのだろうか?(いや、成り立つとかそういう類の話ですらもはやなくなっているのかもしれないが。)
どこに投票しようが自由で、それ自体は素晴らしく民主的であるものの、その自由が私達を縛っていることにせめて自覚的でいるべきだろうと。そのためには国民の自由を肯定するだけでは到底足りず、時に国民から嫌われることも厭わないぐらいの胆力で国民を批判する人物も必要だろうと、そんなふうに感じている。すこし前であれば国民の均質性や生活保守的な投票行動のことをこそポピュリズムと呼び批判していたが、現在ではN国や参政党のような「キャンペーン政党」のことをポピュリズム政党と呼んでおり、ポピュリズムという言葉が持つ意味がすり替わってしまい「誰も国民を批判しなくなった」ように見える。さらには昨年の安倍総理が殺害された件とも合わさって選挙を守ることが民主主義を守るということになり選挙の中身に関する議論は二の次になってしまった。そうした諸々を経て「投票に行こうというスローガンだけが残った」のが今の状況なのではないだろうか。
そうした状況を自覚しなければ、また次の選挙も「投票に行こうと言われ、なんかよくわからないが投票にだけは行く市民」が量産され、投票率だけは上がるかもしれないがその投票率に覆い隠される形でますます政治が閉ざされていくのではないか。
統一地方選における民主主義の変わらなさを見ていたらなにかそんなことを書きたくなった。
※アフィリンクです(卵が高すぎるんじゃが)