衆議院選挙が始まる。4年前とおなじく自民党が勝つことが目に見えている選挙ではある。
この4年間で変わったことと言えば安部長期政権が終わったことくらいであろうか。事前予測から見える政局の分布に関してはほとんど何も変わっていない。野党が選挙区で候補者を一本化した影響がどこまで出るかにかかっているものの政権交代は現実的に起きないだろう。
政治はずいぶんのっぺりとしてきた。はっきり言えば画一性を増し、自民党もリベラル政党になってきている感が否めない。岸田新総裁の所信表明演説でも保育士や看護師といった労働者の給与をあげる政策を打ち出している。新しい資本主義というのもようするにグリーンニューディールのことであり、リベラルの代名詞だとも言える。
立憲民主党との差異がほとんど見受けられない程度には「生活に係る政策」が同じなのである。憲法に外交、安保、税制度に関する差異は見られるものの国民生活に関する自民党の姿勢はリベラルと言って差し支えないものになっている。
こうした自民党のリベラルさを若者の多くが支持している。年齢別に見ると自民党の支持率が最も高いのが20代の若者であり、以下記事によると45%が支持しており、年齢を重ねるごとに野党を支持する割合が高くなっている。
衆院選公示前最終議席予想、自公で絶対安定多数を確保も自民は議席減か(大濱崎卓真) - 個人 - Yahoo!ニュース
高齢保守層の投票行動に政治が左右されるシルバー民主主義といわれていた日本であるがそれはもはや過去のものであり、今や自民党は若者に支持されるリベラル政党に成り代わったと見たほうが正確であろう。自民党は経団連などの既得権益と手を組んでいる保守政党であるといった事実は少なからずあるにせよ、党の表玄関に飾る表札だけで見れば自民党はすでにリベラル政党に見える。
もちろん自民党がリベラルを主軸とした政策を展開しているかと言えばウソになる。アベノミクスのもとで労働者の実質賃金は下がってきたし、もりかけ問題や桜を見る会など政権を私物化しているという点から見ても実態としてリベラル政党とは言えないだろう。なので今更労働者の給与をあげると言っても今まで何をやってきたのかと批判することはできる。
しかしながら岸田総理になったことでそれらの悪しき歴史は忘却、もしくは「洗浄」されていくことになる。総理が変われば政権支持率が上昇することを見てもそれは自明である。労働者への冷遇のみならず桜を見る会のことを覚えている人はほとんどいない。それらは単に忘れられていき、また「新しい自民党」へ脱皮するだけである。こうした可変性は近代政治において政党の最終形態とも言えるわけであるが、こうした状況にあって野党の存在はずいぶん「悲しい」ものになってしまったように思う。
カメレオンの如き自民党にたいして野党ができるのは個々の問題にたいする責任追及になってしまったのもむべなるなかとも思えるのだ。野党もリベラルであり自民党もリベラル(仮)であるならば変化に対応しうる自民党のほうがマシだと考えても不思議ではない。野党は自民党のカメレオン性によって生じた誤謬を批判するけれど、カメレオンであるからこそまた批判が回避されることになるのだ。どのようなイデオロギーであろうとも自民党はそれに追従していくという「虚仮さ」がある。国民はそれにある種の安心感さえ覚えているのではないだろうか。リベラルな若者が自民党を支持するのは自民党のカメレオンさ、つまり無謬性に依拠する部分が大きいのではないかと思っている。
それにたいしリベラルや共産主義という「イデオロギーを強調する野党」は意固地なものに見えてしまう。そうしたイデオロギーは自民党にとってオプションでしかないからだ。イデオロギーに明るくない国民にとって見れば選択的に表札を変える自民党に投票することはすなわち「間違わない投票」になる。選択的夫婦別姓ではないが「選択的イデオロギー追従」という態勢を取る自民党こそがいまや最もリベラルだと言える。夫婦別姓のように職場では保守の顔をし、若者の前ではリベラルの顔をするのが自民党なのだ。イデオロギーですら「選択的で何が悪いのか」という自由に支配されているのだからリベラルとはなんとも皮肉なものである。
自由主義に適応した無謬性こそが自民党が長年政権を維持している理由だと言える。
もちろん重ね重ね言うけれど自民党は実態として問題がある。そうした無謬性、カメレオンさによって責任を回避することが一義的なものになった結果起きたのが公文書の破棄など民主主義の根幹を揺るがしかねない問題であるのも事実だからだ。しかしながらそうした間違いを国民が問う土壌があるかといえばほとんど皆無だと言って良いだろう。
国民生活を振り返って考えてみてほしい。仕事などでミスをした同僚などを責め立てることは今の社会ではほとんどご法度であるとさえ言って良い。責任ではなく赦しを与えることがすなわち善性であり、「無限のセカンドチャンス」を人に与えるのが多くの市民の主流な考え方である。ネット上ではキャンセルカルチャーなどを筆頭に一度のミスで人生終了となる事例があとをたたないものの、あれらは表層でありそうしたキャンセルカルチャーなどくだらないと見る国民のほうが多数派であろう。日本人はそれほど冷酷な人々ではない。単にネット上の膿を僕たちは無視できないだけである。
多くの市民は人にたいして優しく、労働市場が流動化した時勢とあわせてセカンドチャンスを与えるべきだと考える人がほとんどである。そうした生活の中にあって国民は寛容にはなってきたし、それは良いことではあるものの、それを政治に援用すれば「無限のセカンドチャンスならぬ無限の政権」を事実上許容することになる。
それもまた社会がリベラル化した功罪だとも言える。
僕達は「当為」(べき論)を語れなくなった。社会はこうあるべき、政治はこうあるべき、日本社会はかくあるべきなど語っても自由の名のもとに「それってあなたの感想ですよね?」という具合に「無為」になっていく。当為がなければ自由しか残らない。個々人の主体性や多様性などを喧伝し、人間一般の当為を語ることがほとんど不可能な時代にあって政治がイデオロギーで行われているというのは何か重大な勘違いがあるように思える。まずそこから脱却すべきではないだろうか。
政治が国民の投票により決するという原理を考えるに政治は社会の写し鏡でしかないわけで、多くの国民がイデオロギーを持たないし語れない社会にあって選挙で勝つ党とはすなわち「綺麗に鏡面を磨いている(ように見える)政党」なのだ。そしてそれが自民党なのだろう。
いまや政治は「無為の時代」であり、自民党はそれを体現しているに過ぎない。こうした中で誰が真のマジョリティーであるか翻って見れば政治を無為だと考える無党派層がマジョリティーだと言える。
アメリカの二大政党のように保守とリベラルというイデオロギーが激突するような選挙戦の構図を日本政治にあてはめるのは完璧に間違っているように思う。僕達は保守でもなくリベラルでもなく、アメリカ式の「自由に負けた」国民の一人でしかない。
なにを選択するかという当為に耐えられなくなった人は投票にいかず、何を選択するかというイデオロギーもまたオプショナルに包摂する自民党が選挙で勝つのは自明だと言える。
僕たちは選択的という金言により「選択肢以外の選択肢」を持てなくなってしまった。政治、あるいはそれを代表する自民党はそれを反映しているに過ぎないのだ。