メロンダウト

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資本主義リアリズムと矛盾社会序説

おひさしぶりです。『三体』を読みふけってます。合間に『資本主義リアリズム』を読んだので書評というか感想を書いてみようかと思います。

 

『資本主義リアリズム』に書かれていたことはようするに「盾」を貫くための「矛」をいくら開発しようとも資本の論理に絡めとられてしまうという絶望であった。
社会には様々な問題が次々にあらわれてくる。政治、文化、外交の諸問題。あるいは私生活における雑事。我々はあらゆる問題を発見し、それを貫ぬける矛を開発し、同時に矛に貫かれないための盾を開発していく。家父長制を打倒するためにフェミニズムという女性を守る盾を開発し、そしてフェミニズムを批判する弱者男性論という矛が開発されるという具合にすべてのイデオロギーは矛盾しながら循環していく。というよりも矛盾それ自体を目的として「巡る」のだ。
フェミニズムというイデオロギーは資本主義の手段と化し、それ自体が自己目的化し、先鋭化していっている。仮にフェミニズムが完成(男女平等が達成)されれば女性は差別されていると言うことができなくなり、「フェミニズムという手段」は終焉を迎えることになる。そうならない為にはイデオロギーを先鋭化し、矛に貫かれるための盾の役割を演じ続けることが上策となる。事実、もはや家父長制はほとんど終わっている。にもかかわらずフェミニズムフェミニズムたり得ているのは新たな敵を絶え間なく見つけ、女性を守る盾という役割を演じ続けているからだと言える。
どんなにボロボロな盾であろうとも盾としての形式さえ保っていればフェミニズムのレゾンデートル(存在意義)が消失することはない。そしてフェミニズムが盾でありつづける限り矛の存在意義もまた保たれることになる。フェミニズムを例にあげてしまったけれど、フェミニズムだけではない。こうした矛盾そのものを温存し続け、マッチポンプ的な闘争を無限に続けることが後期資本主義の帰結であり、それを批判したのが『資本主義リアリズム』であった。資本主義は無限性にその骨子があると著書では書かれている。矛盾という無限の再帰性、その循環による永遠の代謝を目的とすることが後期資本主義であり、そこから逃れることは誰にもできない。


以上のような矛盾は『資本主義リアリズム』でニルヴァーナを例に説明されていた。

オルタナティブ」や「インディペンデント」なるものは、メインストリーム文化の外部にあるものではない。それらはむしろメインストリームに従属したスタイルというばかりか、その中で最も支配的なスタイルになっているわけだ。カート・コバーンニルヴァーナほど、この膠着状態(デッドロック)を体現した類例はない。その凄まじい倦怠感と対象なき怒りにおいて、コバーンは、歴史の後に生まれた世代、あらゆる動きが事前に予測され、追跡され、購入され、売却される世代の声となって、彼らの失望と疲労感を表すと思われた。自分自身もまたスペクタクルの延長に過ぎないことを知り、MTVへの批判ほどMTVの視聴率を上げることはないと知り、そんな彼の身振りはあらかじめ決定された台本にしたがうクリシェにすぎない、という自覚を持つことですら、陳腐なクリシェに過ぎないのだということをコバーンは全てわかっていた。
(中略)
成功さえもが失敗を意味した。というのも、成功することはシステムを肥やす新しいエサになることに過ぎないからだ。ともかくも、コバーンとニルヴァーナが抱えた激しい存在論的不安は今や過去のものとなった。彼らを継承して現れたのは、不安を感じずに過去の形式を再生産するパスティシュ・ロックなのだ。

『資本主義リアリズム』27,28ページより引用

 

僕達は常にオルタナティブを探している。フェミニズムに変わる何かはないか、自民党に代わる政党はないか、恋愛にとって代わる生き方はないかなどあらゆる問題を見つけ、それらにたいしてオルタナティブを提示して見せる。しかしそれらはすべて再生産に過ぎず、あらゆるイデオロギーはシステムの肥やしとなる。イデオロギーは反芻的に処理され、「MTVの視聴率をあげるため」に再生産され、消費されていく。そうした運動を続ければ続けるほどにシステムそのものを強化していくことになり、かつての批判は自明性に埋もれ、いつしか不安であることすら感じなくなってしまう。何かを主張したとしてもそれはすでに世界の自明性として組み込まれているので、僕達は不安を感じずにそれを主張することができる。それが今のロックなのだろう。かつてのロックのような「緊迫感」は今のロックにはない。それはもはやロックを歌うことが不安な行為ではなくなったことと関係している。かつてロックは反権力として存在しており、ロックを歌うことは不安を伴う行為であった。しかし現在、僕達の世界で反権力を歌うことに不安を感じることはない。反権力はすでに先人が歌っているため、世界がそれを知っており、再生産に過ぎない。再生産ゆえに僕達は不安を抱かずにロックを歌える、と同時に再生産ゆえにもはや反権力たりえないのである。すべてが資本の論理に組み込まれ、いかなる「矛」や「盾」を開発しようともそれらは「追跡され、購入され、売却される運命」にある。そうした状態をデッドロックと呼ぶのであろう。
すべてがパスティシュ化され、すべてが再生産であるにもかかわらず、それとは知らず再生産を繰り返していく。すべてのイデオロギーはもはや消費財としての存在意義しか持たない後期資本主義社会においてオルタナティブやインディペンデントは条件として存在しえないのかもしれない。
資本主義リアリズムはそのような「絶望」を書いた本であった。著者であるマーク・フィッシャー氏が自死されたのも、著書に書かれているようなデッドロックに囚われていることを誰よりも理解していたからかもしれない。死ぬことだけが資本の無限運動から解放される手段であると・・・


フィッシャーが直視し、自死したようなデッドロックを回避するために僕達が行っているのが忘却である、とフィッシャー氏自身が書いている。

「現実主義的である」ことはかつて、確かで不動的なものとして経験される現実を受け入れるという意味だったのかもしれない。しかし資本主義リアリズムは、限りなく変幻自在でいかなる瞬間にもその姿を変えることのできる現実に服従するよう、私達に要求する。(中略)ここで言う現実は、デジタル文書におけるオプションの多さと似ている。どんな決定も最終的ではないしつねに訂正可能で、いつでも以前の状態に戻せるのだ。
(代替可能な現実に適応し、昨日言ったことを忘れ、都度オプションを提示する中間管理職が)以前の発言を取り消すことは、いっさい問題にならなかったし、まるで、また別の話があったことさえも、うろ覚えでしかない印象だった。これが「優れた管理能力」というものらしい。同時にまた、これは資本主義という絶えざる不安定さの中で健康を保ちうる唯一の方法かもしれない。一見したところこのマネージャーは輝くようなメンタルヘルスを体現した典型例であり、彼の全身からはまぶしいばかりの善人的なオーラが放射されている。このような陽気さを保ちうるのは、批判的な反省性をほぼ完全に欠き、そして彼のように、官僚主義的権力から受けた指令に冷笑的に従う者に限る。

『資本主義リアリズム』136,137ページより

 

かつての現実主義は不動的なもので、資本主義リアリズムは浮動的なものであると書かれている。昨日言ったことと今日言ったことの差異をほとんど問題にしないで、忘却の彼方に押し込む態度こそが健康に生きていくための術であり、そのためにはいかなる物事も「本当には信じない」というシニカルな態度が必要とされる。ある種の記憶障害とも言える状態だけれど、記憶障害を適時利用し、オプショナルに、浮動的に生きることが資本主義への適応であることは経験的にもよく理解できる。すべてをオプショナルなものへと変換していくことで高速で流れていく情報や出来事を処理していく。そんな時代であることは実際の生活を振り返ってもよくわかる。あらゆる場面で提示される広告や情報、あるいは感情にたいして逐一反応していたらもはや生きてくことすら困難な時代になりつつある。

そんな忘却の時代にあって、すべてのオルタナティブはオプショナル(選択的)なものとして適時利用されていくだけなのだろう。僕達の社会において「選択的」という言葉ほど甘美なものはない。選択的であればこそこの社会の矛盾を直視せずに済むからだ。物事は選択的に忘却され、再利用され、再生産され、再消費されていく。健康に生きるという生存戦略が記憶障害を生み、記憶障害だからこそ、あらゆる矛盾を矛盾と感じずに、時勢にあわせ、オプショナルに、再生産していくのである。それが資本主義リアリズムという膠着状態、いや「健康状態」の帰結なのかもしれない。

『資本主義リアリズム』はこの世界がどうなっているのかを思考するにはかなりの良書だと思う。

 

と、ここまで書いて公開しようかと思ったのだけれど、このような「矛盾」が日本社会においてどのような形になっているかを書いたのが白饅頭こと御田寺圭氏の『矛盾社会序説』だったように思い、そちらにも触れておきたい。
矛盾社会序説は「透明化された人々」「小さくて白い犬と大きく黒い犬の比較」「かわいそうランキング」などがテーマとなっており、こうした抽象的な「通念」がどのようにして日本社会を貫いているのか、具体例を挙げながら詳述した本となっている。具体例はかなりの多岐に渡り、ここですべてを取り上げることはできないものの、個人的に印象に残ったものを引用させていただくと、254ページ(トリレンマの問題構造)に以下のような箇所がある。

 

われわれは「イエ」を、自分たちの自由を制限し、因習に縛り付けるしがらみとして嫌い、地縁的な結びつきから訣別して都会に出て核家族を形成した。将来的な介護要員を配偶者として迎えることを「抑圧や人権問題である」として非難し、介護士やヘルパーといった低賃金労働者に外部化した。それと同時に、まともな蓄えを準備できないような非正規雇用者や低所得者の将来のリスクを「自己責任」として一顧だにしなかった。それでもなんとかなっていたのだ。皮肉にもかつて自分たちが忌み嫌っていた因習が残存していた時期にこの国が築いた遺産によってなんとか相殺できていたからだ。(中略)
いまわれわれは、重大なシステムの欠陥を修繕することなく、生じたツケ払いを先送りにしている。あるいは、どうしても支払わなければならなくなった場合は、それをミッシングワーカーたちにひとまず押しつける形でなんとかその場をやりすごしている。ミッシングワーカーを不可視化している穴は暗く深いが、決して底なしの深淵ではない。ほどなくしてその堆積量に限界が生じ、いままで見て見ぬふりをしていたものが地表に溢れ始めるだろう。


ミッシングワーカーとは介護などで強制的に労働市場から排除されている人々で、その数は103万人に上ると著書の中で書かれている。自由、近代、人権などを標榜し、「イエ」や地域共同体を崩壊させ、「快適な社会」をつくった代償としてミッシングワーカーと呼ばれる人々が出てきた。あるいは、そうした外部化を行えば行うほどに男性の婚姻率は下がり続け、介護を外注できるだけの資本を持つ男性のみが結婚できる社会になっていった。自由や人権などの「善き考え」が日本社会でいかに矛盾しているのか、そこに光を当てた本だった。


ここでそれを反復的に書いてもしょうがないので、そういうことは書かないけれど、矛盾社会序説を読んだ時に思ったのが「なぜこの社会はここまでの矛盾を抱えながら回っているのか」であった。そして、それを思想的に解剖するのが『資本主義リアリズム』なのである。

 

つまりこうだ。この社会には矛盾がある。矛盾社会序説に書かれている通りのものが厳として存在する。しかし上述した通り、僕達は矛盾そのものを目的として資本の歯車を回している。それが資本主義リアリズムと矛盾社会序説を接続するテーゼである。

矛盾という永遠の再帰性それ自体を目的とする限り、矛盾を解消する動機が資本主義の側にない。僕達はこの社会を回しているシステムやそれによって生じる矛盾を解消する術が「手段としてない」と思っている。しかしそれと同時に、というかむしろより強く「動機としてない」のである。
矛盾は公正や正義の領分として問題にされることはあっても、より抽象的なもの、つまり自由や人権によって上書きされては場当たり的に修正されるだけとなっている。白饅頭氏が問題にしていたミッシングワーカーにしても、介護士の給料を上げることはできても個人主義核家族が問題にされることはない。あるいは自由恋愛や女性の上方婚志向がなくなることはおそらくないだろう。自由や人権に反することができない以上、僕達はオプショナルに問題を選んでは解消し、オプショナルに忘却することが「優れた管理能力」だと思っている。また、矛盾を矛盾として直視しないことが「健康」に生きるための術でもあるのだ。そのような作法に慣れ過ぎてしまい、ほとんど無意識にあらゆる矛盾を忘却しては、生活に戻っていく。矛盾社会序説で書かれている問題は資本主義リアリズムで書かれていたことと全くの相似形なのである。

この社会が矛盾に満ちていることは間違いない。それは解消されて然るべきだと、僕達全員がそう思っている。しかしそれらと向き合うことは耐え難い不安に晒されることになる。その不安に耐えることはもうできそうにない。あるいは不安を不安として感じることさえできない。カート・コバーンがそうであったように、「MTVを批判することほどMTVの視聴率をあげるものはない」、と感じることさえもはやない。ミッシングワーカーという重大な問題があるにも関わらず不安を感じないで生きていく社会、それが後期資本主義社会=矛盾社会であり、同時に浮動的リアリズムでもあるのだろう。

 

この社会は矛盾を内包しながらも回っていく。御田寺氏が指摘している通り、それにはいずれ限界がくるであろう。最悪のケースとしては少子化によって国力がなくなって中国に侵略されたり、アメリカの属国となる可能性だってある。しかしそうした状態を引き起こしている矛盾を抱えながら何も問題がないかのように、自由に依り、浮動的に漂っては、なにもかもを忘れていく。そしてまた再生産されるのだ。政権も、イデオロギーも、なにもかもである。
矛盾社会という言葉にはとても痛烈な響きがある。しかしその響きもまた、ニルヴァーナのように消費され、「Tシャツと化してしまう」のだろう。
『矛盾社会序説』の副題となっている「その自由が『世界』を縛る」を援用するのであれば、『資本主義リアリズム』は「その『資本』が世界を縛る」とでも題するべき本であった。

いずれにせよこの社会が矛盾に満ちていることは間違いない。それを無視して生きることは「選択的」という金言によって肯定されている。しかしその選択は資本主義という無限かのように見える運動によってつくられるエネルギーに依拠する部分が大きい。しかしそれは近いうちに限界がくるだろう。SDGsなどが言われているように、持続可能性という視点で見れば、明らかに今の状態を続けるのは無理がある。地球はオプショナルではないからだ。僕達はこの「選択をどこまで選択」するのであろうか。

資本主義リアリズムと矛盾社会序説はそんなことを考えざるを得なくなる本だった。どちらも必読の良書だと思います。