メロンダウト

メロンについて考えるよ

91年生まれ反省会について

91年生まれ大反省会というツイートが炎上している。91年生まれは何も考えてこなかった(社会運動は危険、フェミニズムはヒステリー)から反省して毒を出していこうといった旨の発言。主語がでかいというのもあるし、社会運動やフェミニズムを見直すことでリベラルに合流しようとも読める点で批判されている。

 

 


このツイートを最初に見た時、いいねを押した。しかし冷静に見てみると「今ある問題を自虐的に語ることで世代に還元させ、誘導しようとしてる」ようにも見える。現行支配的な多様性やLGBTなどを念頭に置きつつそれを笑っていた僕達は間違った世代だったと言うのは反発を招いて当たり前ではある。
いずれにせよ賛否両論あるツイートなのだが、「何も考えてこなかった」というツイートの趣旨自体はよく理解できてしまうのだ。

あの時あの時代、僕達は何を考え、何を考えていなかったのだろう。

自分は91年よりもすこし前の生まれではあるけれど、かなり近い世代ゆえ、時代感覚としては通底しているものがあると思う。フェミニズムはヒステリー、社会運動は危険という空気は存在していた。政治への強烈な忌避感があった。政治について話題にすることを避ける空気はいまだに支配的であり、自らの主張を公に語ることは相応の胆力が必要とされる。若者であった僕達はとにかく政治的なものを回避しようと努めていた。それがあるべき態度、非政治的な政治性、無謬主義とも呼べる自己防衛だった。
自分は政治経済学部出身で、政治について語る機会も当時からあったけれど、個人が思想を持って主張することは稀であった。ディスカッションというテイのもと、借り物の言葉で議論をしていた人が多かったように思い返すことができる。自分自身そうであった。しかしながら、そういった「仮の議論」をしたところで実のところ何も考えてはいなかったのだ。こういう発言にたいしてはこういう主張で返すなどのテクニックだけが上達し、実際の社会や自らの実存は棚上げになっていた。もちろんそうでない人もいたけれど、自分自身に関して言えば、政治についてなど「実のところ」は何も考えていやしなかった。マルクスがなんであるか、ベルクソンがなんなのか、ウェーバーがなにを言ったのか、などどうでもよく「『鉄の檻』にぶちこむぞ」というワードだけが流行っていた。
そういうバックボーンの無さ、浅さのようなものはこのブログにも表れていると思うし、見抜いている人は見抜いていると思う。自分が政治や社会にコミットしだしたのなど、ここ数年の話で、学生だった当時から社会運動を考え、能動的に批評に触れていた人間と自分では雲泥の差があるのだ。そのくらいは自覚している。

とはいえ、僕のような何も考えていない学生は珍しいものではなかった。政治や社会の在り方を大真面目に議論する人はどちらかと言えば変わり者であった。政治系学部にいてさえその有様で、他学部の友人知人で社会運動にコミットしている人などほとんどいなかった。人づてに聞くこともほぼなかった。マルチや宗教にはまる話のほうが多く聞いたぐらいだ。そのぐらい政治や社会運動は学生にとって蚊帳の外のものとして扱われていた。これは僕の観測範囲の話に過ぎないので一般化するわけではない。当時から政治や批評について話している人ももちろんいた。しかしながら自らの学生時代と照らし合わせると、「若者は政治について何も考えてこなかった」という冒頭ツイートの趣旨は、すくなくとも僕にはとてもよくわかるのである。その後、僕はとあるきっかけで社会や政治について考えるようにはなったものの、一般論としては生活や実存に係る緊急性がない限り、政治について考える動機を持ちようがないのである。


冒頭ツイートのように世代を一括りにして「反省せよ」と言うべきではないが、若者が政治について何も考えてこなかったのは投票率を見ても明らかである。実際問題、学生のころには政治を必要としないのだから当たり前ではある。社会がどれほどの戦慄を持って自らの生活を脅かすことになるかなど、知る由もないのだ。

学生時代にある政治性とはすなわち「人格」でしかなかった。当時はそれが「オネエを笑う」等の保守的なものであったのだろう。

今の若者はリベラル的な物の見方をしている人が多いように見えるが、それは政治というよりも人格レベルでの話となっている。差別は人格的にいけないものだとされている。人を傷つけるから駄目だという「人格的なべき論」で語られることがほとんどだ。
政治を政治そのものとして捉えることはほとんどなく、ましてや公共的な意味での社会のありかたを考える人は今ですら稀だ。それぞれの時代ごとに支配的な「人格」はあってもマクロな政治に関して考える人は少ないのであろう。自分がそうであったように。

全共闘や東大紛争があった時代のほうが特殊だった。ゼロ年代以降、一般的な学生が直接の政治について何も考えてこなかったのは間違いない。考えていたのは特殊で意識の高い人間だった。

冒頭のツイートに戻り、「反省して毒出し」という部分に言及するのであれば、僕達は「何が毒か、何が薬か」すらも考えてこなかったのである。「これは毒、これは薬」だと、ただ教育されただけだった。今、リベラルが唱える反差別が毒に転じかけているようにどのような政治がどのような効果をもたらすか、どれが毒か薬かを考えるには、僕がそうであるように、知識も経験も圧倒的に足りないのだ。反差別を掲げた結果どうなるのか、正義を掲げた結果どうなるのか、国家を掲げた結果どうなるのか、すべての政治性を回避してきたゼロ年代以降の僕達は、そのほとんどを実のところは何も知らないのではないだろうか。