メロンダウト

メロンについて考えるよ

正義は事前に組まなければ意味がない

結局のところ自民党という組織が巨大なマッチポンプだったのだろう。
韓国を宗主国として教義を組む統一教会は日本で洗脳した女性(男性)を合同結婚式という名目のもと韓国人とマッチングさせていたり、私的財産権を認めず所有権を神のものとして多額の金銭を信者に要求していたようである。なにかもはや陰謀論めいていて俄かには信じ難いのであるが、こうしたことは現在でも程度を変えて行われており、判例も存在しているので事実みたいである。端的に言ってこれらは反日活動と言って良いわけであるが、この反日宗教が派遣した人員を親日で売っている自民党が選挙ボランティアとして採用し多くの国民が投票していたのだからマッチポンプも良いところだ。悪い意味で話が出来過ぎていて事件の全体像そのものを疑いたくなるくらいだ。
 
また、事件から一週間以上経過し、山上容疑者のツイートも発掘されている。そのツイートも極めてリアリスティックなものに溢れている。
是々非々で物事を捉えており、自民支持を表明するツイートもありながら統一教会にたいする憎しみも忘れていない。
また、犯行後に声明が発見されるように手紙を送っていたり、万が一にも統一教会の名前が出ないことがないように準備もしていたようである。ツイート内容や犯行の用意周到さを鑑みても、山上容疑者は理知的に物事を捉えられる人間だと考えて良いと思うが、しかしそういう人間がテロリズムに走るという結末を見ると多少なり絶望してしまう。無論テロを肯定など絶対にしないけれど、しかし理知的な思考により合理的な手段としての自力救済が採用されたという事は、社会が真正面から受け止めてしかるべきであろう。その合理や理知を持って彼の行ったことが正義だというものにまで敷衍してはならないが、しかし今回の事件が既存の宗教テロと違う点はその合理性にある。それは間違いない。
思い返すのは9.11や地下鉄サリン事件であるが、9.11はグローバルジハードの御旗のもとに自爆テロが行われた。地下鉄サリン事件オウム真理教が布教していた原理主義に堕ちた狂信者によって引き起こされた。これらは手段と動機のどちらもが合理的とは言えずテロと断じる他ない悪である。
 
しかしながら今回の事件で厄介なのはいわゆる「普通に理解できてしまうテロ」だということだ。自爆テロや「ポア」などは理解不能であるが、山上容疑者の場合そうではない。
 
こうした問題は本来的に考えれば親日保守の立場を取っている自民党反日活動をしている統一教会を排除すべきであったのだが、自民党統一教会マッチポンプ化してしまったため、山上容疑者は政治に解決を求めることが馬鹿馬鹿しいと考えていたのだろう。また、統一教会がカルトであることも時が経ち風化したため、メディアが問題にすることも今回のような事件がなければ無かったと予測できる。司法に判断を求めることもできたのだろうけれど、しかし司法にできることは金銭的なものでしかない。司法をもってしても山上容疑者の母親が信者になり家庭崩壊したという過去は取り戻せない。ありていに言えば「心は返ってこない」のである。
殺人犯をセンチメントに語るのはどうかと思うのであるが、彼は金が欲しかったわけではないのだろう。人生を返して欲しかったのかもしれない。そのように思う。
 
様々な報道を見るに、唯一彼の心を清算しうるのが統一教会が解体することだったことがわかる。それには反セクト法が成立したり統一教会が宗教法人格を取り消されるなど政治的な手段しかないのであるが、しかしそれも自民党がこれだけ強い状態だと難しい。今となっては安倍元総理は統一教会を解体するための単なる媒介として殺されたと言うしかないのであるが、しかし憲政史上最長の任期を務めた総理大臣が一個人の政治的目的の為に殺されるというこの「しょうもなさ」はなんなのだろうか。これだけの大事件にもかかわらず同時に感じるそのしょうもなさに脱力してしまいそうにもなる。あまりにも理路が整い過ぎていて「大事件だった」「統一教会は批判されるべきだ」ぐらいしかほとんど言うことがない。
 
繰り返し前置きしておくと殺人やテロを肯定など絶対にしないけれど、一個人がこれだけの絶望をいつのまにか抱え込んでいた政治と宗教の問題は今回の事件をきっかけに見直されるべきであろう。でなければまた「次の合理性」が呼び出されることになる。それは技能実習生かもしれないし、入管かもしれないし、あるいは単に貧困かもしれない。
そしてそれは実際の政治の現場に限ったことではなく、言論としても同様である。とりわけイレギュラーな宗教テロにたいしては正義によって対抗言論を組むことができるが、しかし歴史に残る犯罪者となった山上容疑者を批判しうる理路がいまのところ「殺人犯」「逆恨み」「テロリストに共感してはならない」などの一般論しかない。これだけの大事件にもかかわらず「殺人は駄目だ」といういつもの批判しかできていない。そして僕達がいつもの話に終始している間、用意されていたかのように山上容疑者のツイートが発見され、その合理性を叩きつけてくる。その反論不可能性ゆえに僕達は元首相を殺害した殺人犯の理路に屈するしかなくなっている。そうした現状にたいし悲しいというかなんというか、得も言えぬものを個人的には感じてしまう。賛同したくもないし、反論したいわけでもない。ただなにもかもが悲しさへと収斂してしまうのだ。
 
比較するに相模原の事件や京アニの事件は社会の側がその犯行にたいして論理的な反論ができていた。相模原であれば障碍者の人権などである。しかし今回の事件は反論できていない。むしろ「正しい復讐」と考えている人も少なくないだろう。
殺人は駄目だと言うのは簡単であるが、それがどれほど無意味な言論であるかなど山上容疑者はすべてわかっていたのだろう。すべてわかったうえで安倍元総理を殺害した。そのような合理的殺人(自力救済)を許してしまった社会の救済体制にはやはり問題がある。
なぜならそもそも僕達が国家に暴力を集中させているのは自衛や報復行為を国が正しく行ってくれると信頼し委託しているからだ。その報復装置が機能しないのであれば自力救済することが合理的となる。普通に考えて家族が(精神的)殺されれば相手を殺したくなる。その理路はたぶん誰もが理解できるところであるが、今の日本には洗脳という精神的殺人にたいして国が報復行為を働いてはくれない。だから相手にたいする復讐、その目的を最大化する安倍元総理を狙ったのだろう。
つまるところ国が統一教会という悪を放置してきた結果が今回の事件と言えなくもない。もちろんそれを安倍総理自民党に帰責することは相当慎重にならなければならないが、しかし同時に国に正義がないと合理的に考えられてしまうほどの犯行だったことは考えなければならないだろう。
 
正義はゆえん合理的な理路によって全体化する。それをテロリストの側に譲ってはならない。僕達は事前の段階においてこちら側に正義があるように社会を構築しなければならない。それが今回の事件から学ぶべきことであるはずだ。