こんにちは
ここ1年ぐらい物価が上がりすぎなのだがみんなどうしてるのだろうか。給料も上がりはしたけれど物価の上昇率に全然追いついていない。やたら物が高く感じるので洋服などほとんど買わなくなってしまった。ちょっと前に国民負担率が話題になって以降も社会保険料が下がるわけではなく単に物価が上がっているので買えるものが少なくなっている。
実際にエンゲル係数が44年ぶりの高水準になっているらしく生活がきつくなっているのだがどうもあまり騒ぎになっていない。まだデフレだった時のほうがマシだったのではないかと思うほどだ。一般的な経済学の理論ではインフレになると貨幣の価値が下がるので下がる前にお金を使おうというインセンティブが働き、消費が促進されて経済の好循環を生むと説明されるのだが、全然そんなことは起きていない。単に買えるものが少なくなった僕みたいな人か、給与の上昇分をNISAに突っ込む人の二極化していてインフレになったから消費にはしる人は周りでは見たことがない。全体としてもエンゲル係数が上がっているので消費を控えているというか物を買えなくなっている人が多いのだろう。インバウンドの顧客を相手にしている業界(タクシーの運転手や観光)や極度の人手不足の業界(建設など)からは景気が良いという話も聞くが、日本経済全体として景気が上向いている実感はない。とはいえ日経平均を見ると着実にインフレが進行しているのでこのままで良いのかもしれないなんて気になってくる。ようするに株価だけ上がって足元の生活がしんどくなっているとはスタグフレーションが起きているということであまり良い状態ではないのだろう。
このような状況を見るにつけ思うのは、アベノミクスもそうだったがいつまでこのインフレ+トリクルダウンの経済モデルを目指し続けるのかということだ。端的に言ってもうトリクルダウンは起きない。ましてバブルが再びやってくるのはありえないのではないか。
高市政権の積極財政もアベノミクスを継承していると言われていて、インフレターゲットを設定して緩やかに物価を上げ、それに伴い給与を上げることで全体の成長を促し、経済のパイ全体を増やすことで日本を豊かにしようというものだ。
しかしながら問題は少子高齢化である。成長した産業を誰が担い、誰が買うのかがスルーされてとにかく経済成長だという100年前の社会に生きていた経済学者が提唱したモデルを進めることが妥当なのか僕にはよくわからない。現実にインフレになっても消費にはしる人はおらず、エンゲル係数は上がり、実質賃金は下がり続けている。好景気の指標とされる株価は円安と国民不安による個人投資の広がりでブーストされている側面が大きく、失業率の改善は単に人がいないに尽きている。全体としての生活がいつ改善されるのかがわからない。というか人口が減っていく中で経済だけが改善することがはたしてあるのだろうかと思ってしまう。株価は上がった、失業率も改善した、新卒の就職率も良い、給与も多少なり上昇してインフレ基調になっている。経済学的にはすでに完璧に近い。しかしながらなんだかわからないが生活だけがきつい。いったいなんなんだこれは、とみな思わないのだろうか。
いずれにせよ少子高齢化社会では需要と供給が相互補完しあいながら健全なインフレを保つ国民経済は、少なくとも僕が生きている間の日本では起きないだろう。起きるのは少子高齢化社会を生きる不安な国民が労働収入の限界を感じることでNISAにお金を突っ込む株価インフレだけで、そこからトリクルダウンが起きないのはアベノミクスの10年間で証明されている。
そんな状態なのでデモやストライキがもっと起こっても良さそうだと思う(今の労働市場でだとストライキがかなり機能しそうである)のだが、表面的にはインフレが安定してきて景気が良いと言われている。新卒の初任給は上がっていて人手不足のために失業率は悪くないからだ。
しかしながらインフレになったから給料が上がっているとは言えないのが少子高齢化社会である。少子高齢化社会ではそもそも人がいないので雇用側は給料を上げて囲い込むしかないけれど他方で人がいないので物が売れないという問題がある。物が売れないのでどうやって売るかを腐心してコンサルをいれ、広告をうって、マーケティングに躍起になるのでコストがかかり物の値段が上がる。広告をうった分だけ物の値段があがるので被雇用者は生産分の労働収入で物価上昇分を相殺することができない。結果、エンゲル係数が上がり、被雇用者の生活がきつくなる。
生活がきつくなった労働者はなんとか安く物を買えないかと思うため、そこに需要が生まれる。物を買うとポイントがつくアプリや支払うことでポイントがつく決済サービスを使って物価上昇分をポイントサービスで補填しようとする。支払いはpaypayで、松のやに通い詰め、15%のポイント還元率を維持すれば「なんだ、とんかつが500円で食べられるじゃないか」と満足する。実際、たまにとんかつが食べれればそれで十分幸せではあるのだ。ただ、ポイントを使ってる人と使ってない人で大きな価格差が出てしまうので食べていて妙な違和感を覚える。そういう話ではないとわかっていながらもポイントサービスなんかやめてその分で消費税を減税すればみんな平等に安く美味しいものを食べられるのになと。
ようするに労働が過剰になっていると感じる瞬間があるのだが、思い出すのがケインズの予言である。
ケインズはちょうど100年前に技術革新により100年後は週15時間の労働しかしなくて済むようになると書いている。けれど全然そんなことはなかった。ケインズの言葉を使えば有効需要に際限はなかったということになる。みんなわけのわからないものを欲し、わけのわからない仕事を生んで、特に意味のない箱物をつくり、一生使うことのない証券口座の数字を積み上げるために働く。そしてはやくこんなことやめたいと思う人がFIREしていく。働いていると充実感があるのは確かだけど同時に思うのは今の労働は構造的虚無であるということだ。生産関係や労使が複層化していて単に物やサービスを生産するだけでは食べて行けず、ブルシット・ジョブが少なからず必要になり、労働のための労働を貼り付けて権力構造を生み出し、それに向けてみながキャリアアップしようと邁進して資本主義を加速させる。脱成長とまでは言わないし、働いていることはそれだけで価値があると感じることがあるのも確かであるが、構造だけを取り出してみると「なんでこんなことしてるのか」と素朴に思う瞬間がある。
遠方に済む両親や高齢者の介護費用に充てるために社会保険料を支払うのであればみんな実家に帰れば良いではないか。消費税を支払う代わりにポイ活をしなければならないなら全部やめてしまえばいいのに。仕事が忙しくてみんな恋愛できないから少子化になり結果として経済がシュリンクしているのであれば仕事なんてやめてしまえばいいのに。
すべてそういう話ではないとわかっていながらも時折そんなことを考えてしまう。
特に生活が厳しくなればなるほど思うのだ。この構造それ自体がなにか大きな過ちなのではないか、なぜ僕達は15時間ではなく週に40時間も働いているのか、なんで逐一松弁ネットで注文しなければいけないのか、なんで飲料水を宅配で届けてもらうのか、なんでスマホを操作するだけでご飯が運ばれてくるのか、なんでなけなしの可処分所得を毎月NISAに積み立てなければならないのか。
もれなくすべてやめても何も困らない。やめた分だけ労働時間を減らしてほしいのだが、それもまた「そういう話ではない」というやつなのだろう。
(書いていて思ったのだがかつて共産主義を礼賛していた人も同じように考えていたのかもしれないね・・・)