メロンダウト

メロンについて考えるよ

世代間論争を見ていて

衆議院選挙が告示されたということでいろいろな問題が争点になっているのだけどその中のひとつに社会保障費の増大がある。
いわく現役世代の社会保険料が上がり続けているが高齢者医療の自己負担率は低いまま(一定の所得がある人以外は1割)だというものだ。
他にも年金制度の持続はもう不可能で今の若者がその「そしり」を受けることになる、という話もよく聞く。
単純に貯蓄額の世代間格差なんてものもある。

この格差と絡める形で若者は可処分所得がなく、結婚することが難しくなっていてそれが少子化を加速させていると言われる。
また、近頃頻発している闇バイトであったり大久保公園のたちんぼをひきあいにして若者の貧困が進んでいるという話もしばしば目にする。
ほかに奨学金の話などもあるが、いずれにせよ若者はお金がない、という話をやたら目にする機会が増えた。


こうした現状を元に若者への支援を手厚くしようという政治的意見が叫ばれるようになった。いまや右左の対立よりも老若の対立のほうが政治的影響力が強いように思う。

実際問題、少子化が進行しているうえ、お金のない若者(特に男性)が結婚することは現実的に困難であるため若者の負担を減らしたり支援を手厚くするのは理に適っている。なので若者への支援を手厚くする方向に舵を切ったほうが良いと思う。

 

ただ、二項対立というのはいつもそうなのだが、どちらかを悪として設定するともう一方が抱える問題がぼやけることがある。
世代間論争では老人が社会保障費を圧迫している搾取者であると見られがちである一方、若者は未来ある世代というぼやけた形で捉えられることが多い。
高齢者が悪者で、若者は無垢な存在という図式になっているがこれはすこし危険であるように思う。
悪の解像度を上げて糾弾することは政治的訴求力が高いゆえに皆必死でいかにして高齢者は我々から搾取しているのかを探すが、一方で今の若者がどのような世代なのかということはあまり論じられなくなっていった。昔であればすぐキレる若者であったりオタク、ヤンキー、意識高い系といった分類がなされていたけれど今は若者への批評それ自体が老害の意見とされる。若者にたいしてなにか「わかったような語り」をすることは躊躇われるようになった。仕事でもいかにして若者をやめさせないか、心理的安全性を確保するかというストレスマネージメントが重用されたりと若者を大切にすることがすでにイデオロギーになってきている気がしないでもない。

つまり高齢者の解像度は上がる一方、若者の解像度は下がっているという非対称性があるのだが、この非対称性が世代間論争に拍車をかけているのではないか、というのが僕が世代間論争を見ていていつも思うことなのだ。
端的に言うと高齢者への批判はよく目にするが若者の問題を取り上げる人はあまり多くない。そうした情報に触れていると認知がゆがみかねない。

フィルターバブルの問題が指摘されているように若者は搾取されているというストーリーを選好する人のもとには高齢者がいかにして若者を搾取しているかその具体的な傍証が集まっていく。一方で若者に関する言論が封じられると若者は未来ある世代という解像度の低さで据え置かれるため、高齢者の解像度ばかりが上がっていき、無垢で無謬な若者が高齢者に搾取されているというストーリーが強固なものになっていく。


しかしながら当然、高齢者が若者を支えているという構図もあるし若者が抱える問題もある。
まがりなりにも先進国の日本をつくりあげてきたのは今の高齢者であるし、当時つくられたインフラによって今の物流が支えられていたりする。
インフラ従事者に限って言えば今だってそうだ。人手不足が叫ばれているが、今の若者はブルーカラー労働を回避する傾向にあり、建設現場や交通誘導などの仕事に就いているのは今も中年以上の方ばかりであったりする。若者が集まらないので外国人を雇用しているところも少なくない。
他方、若者は東京に集まりブルシットジョブに就くことを望む人が多い。
給与が良い仕事に就き、FIREすることを望んでいる人が少なくなかったりと、いかにして貧困化する社会のそのサイクルの外に出るかが生存戦略として大真面目に語られたりする。無論、お金を偏在させてセミリタイアするのは事実上のフリーライダーであるため、世代間論争で高齢者に向けられる批判がそのままFIREした人にも向けられるべきものとなる。
つまり高齢者を批判する若者がFIREすることで高齢者の位置に辿り着こうとするダブルスタンダードがある。高齢者という社会に乗っかる人を批判しながら自身はその乗っかる側に辿り着こうと試みる。そうした矛盾を温存し続ける限りどれだけリソースを適切に分配しようとも結局は同じことになるのではないか。そんな気がするのである。

というか高齢者も若者もどちらも「降り」に向かっている点では同じであるのだ。むしろ意図的に資本を偏在させ降りようとするFIREのほうがインフラを整備して降りた高齢者世代よりも悪質であるとすら言えるだろう。

そうした比較は若者の未来という金言によって吹き飛ばされるわけであるが、いずれにせよ個人の戦略に特化した生き方を選ぶ今の若者が高齢者になった時には今の高齢者よりもよほど高齢者然とした人々になる可能性が高いように見えてしまう。

というのも社会への帰属意識は世代を経るにつれ確実に薄れていっているからだ。
地域のコミュニティー活動は少なくなっていき、勤めている会社の業績に貢献するといった意識も薄れ仕事は職務をこなすことで給与をもらう場所というドライな考えを持つ人も増えていった。
飲み会を回避するようになったことなどもそうだが、良かれ悪しかれ今の若者は社会や企業にたいする意識がかつてよりも希薄であることは間違いない。

言い換えればかつては社会(コミュニティー)があったけれど今は社会が喪失して個人と政治が前景化した時代と言うこともできる。
現役世代が消費するお金がないという極めて具体的な話は確実に存在する(いまや給料日よりも年金支給日のほうが消費の伸び率が良いみたいである)がその不遇を政治に訴える原動力となっているのは個人の不遇を訴えるための社会(助けてと言うことができる他者やコミュニティー)が喪失したことと無関係ではないように見える。
社会がなくなれば個人の不遇を助けるのは政治の役割という建付けになる。それが世代間論争を下支えしているのではないかと。

 

まとめると以下の3つになる

SNSによって高齢者の解像度があがり、高齢化社会が辿るストーリーが提示されたこと
・若者への批評が封印され高齢者との非対称が生まれたこと
・社会が喪失し困ったら政治に訴えるしかなくなっていること


無論、これだけ世代間論争が苛烈になった最も大きな要因は社会保険料や物価高などにより生活が苦しくなっていることであるが、上述したような言論情況や物語が高齢者と若者の分断をより一層頑ななものにしているのではないか、という気がしないでもないのである。