メロンダウト

メロンについて考えるよ

高齢化社会とアーバナイゼーション

現代日本に必要なもの?それはだな・・・愛だよ明智

 

[B! 医療] frisky on Twitter: "現代の日本で必要なのは ・老人はいずれ死ぬし手厚い医療はいらない ・だから若者が老人の世話をする必要はない ・だから高等教育がなくてもよい(し高等教育にはそれほど見返りがない) ・だから若者は気楽に家庭を作り子供を作るべき という方向性だと思うのよねぇ。"

 

個人のつぶやきを拾ってきて袋叩きにするはてなブックマークは最低として、社会保障費に関する憂いからこういった考えの人が出てくるのは自然ではあると思う。

高齢化社会になるのはもう何十年も前からわかっていたことだけど実効的な手はほとんど打たれず、現役世代の負担が大きくなり社会保険料や消費税が上昇してきた。最近は光熱費の上昇や物価高も加わり生活は厳しくなってきている。個人的にももういい加減にしてくれという気持ちはあるので、上記ツイートには共感する部分があった。だからといって高齢者に医療はいらないとまでは考えていないのだが。

 

ここまでラディカルなことは僕には言えないのだが、ひとつだけ高齢化社会を解決するヒントになるのかなと思ったのがアーバナイゼーションと観光跡地問題である。

 

高齢化社会というと高齢者をどうするかという問題にフォーカスしてしまいがちであるが、そもそも働いている現役世代だって地方の過疎化には耐えられていないのだ。地元に仕事がないため東京などの都市圏に出てきて仕事を見つけ、家族をつくり、お盆や年末年始に里帰りするのがいまや一般的なライフスタイルとなっている。地元で就職先を見つけそのまま地元で働いてというほうが少ないぐらいではないだろうか。そのような状態でもなんとか現役世代が働いて生きていけるのは都市に集約させた経済機能に依るところが大きい。コロナ禍にあっても持続化給付金を配る時に自治体ごとの財政格差が話題になっており、東京だけが桁違いの給付金を用意できる一方で地方自治体は国からの助成金に頼るという形をとっていた。

地方に住むという選択肢が実質的にはなくなってしまったことが高齢者のみならず国民に課せられた条件になってしまっているのだろう。かつては自律して経済を回せている自治体が数多くあった。財政破綻した北海道夕張市などを例にとってみても、かつては石炭産業で栄えていたものの、エネルギー政策の転換によって産業自体が成り立たなくなりインフラを整備するのも難しくなった。バブル期に観光地として栄えた鬼怒川や水上などの温泉街もいまや人がまばらで廃墟と化した旅館も数多くある。スキーブームの時にリゾート開発され夏にはフジロックが開催される苗場もシーズンではない時期に行けばいまやどこのホテルも空いている状態となっており、ブーム時に建設されたマンションも住人がいなくなったことで共益費の負担が増え不良物件となっている棟も少なくないと聞く。

 

地方で働きながら暮らしている人をとってみても、たとえば農地をもともと持っている農家、港町であれば漁業組合に入り船を所有している漁師、税金から収入を得ている公務員や政治家、あるいは東京から出店してきたイオンモールやチェーン店で働く従業員など既存の資産やシステムの上に乗っかれる人、もしくは中央の経済に噛んで収入を得ている人が多く、地方における自律的経済圏のようなものはかなり少なくなってきている。ようするに地方には就職先がないというよく言われることではあるのだが、このような状態で高齢化社会をどうするのかと考えても完全に袋小路であり、もうみんな東京に来てもらいロジスティクスの幅を限りなく縮小するぐらいしか手立てがないのだろう。現役世代が働くことができない地方ではそもそも経済を回すことができず高齢者にたいする医療費などは国からの助成金をあてにするという形になる。結果、社会保障費が財政を圧迫し、財政健全化のために消費税その他の税金があがるけれど、他方ではエネルギー価格が高騰しているのでスタグフレーションになるしかないというのが今の状態なのだろう。

 

こうした地方の状況を見ていると実地的に経済を回せるというのがもはやある種の幻想になってきているような感じさえある。日本だけでなくアメリカや中国もユニコーン企業と呼ばれるプラットフォーマーに富が偏在し、経済が回っているかと言えば、ラストベルトのトランピスト化や中国の格差などを見るに、どうもそういうわけでもなさそうである。アメリカ西海岸や中国の深センでもアーバナイゼーションが起きていて、グローバリズム競争で勝った企業と、そしてその企業を持つ都市が政治的機能を通じて地方に再分配しているのは日本でも世界でも変わることがない。中国は共産党による政策で都市のDX化をすすめアーバナイゼーションを加速させる方向に舵をきり、アメリカでは自由競争によってアーバナイゼーションを進めてきた。

しかし日本では政策的に見ればむしろ逆で地方の経済を活性化させるというのを長年進めてきた。そのギャップが都市間格差及び都市に経済機能を依存せざるをえなくなった状況における国家間格差に出てくるようになったと見ることもできる。経済の意味がIT化や富の偏在によって変質し需要と供給で回すという旧来の経済システムは部分的に終わってしまっている。その煽りをもろに受けているのが地方経済であり、ゆえにみなが都市に出て働くという選択を取らざるを得なくなった。

そこで地方に高齢者が取り残され問題になる。つまり、言ってしまえば当たり前ではあるのだが、地方ではそもそも経済が回らないという現下の資本主義における条件が高齢者問題の本質なのだろう。

 

日本経済が強いと言われていた時期は産業分散型で、地方の町工場や中小企業も中央の経済に加わることで国全体として経済が回っていたのだろう。しかし資本主義の条件が都市集約型に変化し、製造業もユニクロやナイキをはじめ国際分業型にシフトすると経済活動における地方の役回りは縮小していった。そして地方に残るのは「需要」と「観光」が主なものになった。

地方の高齢者がかつて「供給」していたものはその地位を急速に失っていった。今でも残っているのは「情緒」しかないようにも見える。おばあちゃんの知恵袋的なものもGoogle検索やYahoo知恵袋にとって代わり、お見合いもマッチングアプリにとってかわる。そして高齢者という権威も情報化社会においては軒並み解体され、時代への理解が乏しい高齢者は老害とまで呼ばれるようになった。

高齢者や地方の権威を持つ人が媒介となって若者を地方に組み込むという構造は経済的にも情報的にももはや不可能になりつつある。そして果てには高齢者への差別的言説が生まれるといった機序なのだろう。

 

マイルドヤンキーと呼ばれる人々のように「その地に根差した仲間や風景を大事に思う」ということでもない限り、地方に残る動機は若者にとってなくなってしまっている。そうした地方の実態を捉えることで高齢化社会をどう考えるかも多少変わってきそうではあるものの、解決策が何かと言えばやはりよくわからない。

ひとつだけ考えられるのは、インフラを部分的に見捨て人口密集地をつくることでロジを効率化しランニングコストを下げるぐらいだけれど、居住の自由に抵触しかねないし、なによりそうやって高齢者を「管理」するというのは悲しいことなのであまり賛成できない。

これだけ長年問題視され解決できなかった問題なので当たり前ではあるけれど、どうすればいいのか考えても、まったくわからないな・・・