メロンダウト

メロンについて考えるよ

リハビリ的散文~物価高と若者について考える~

リハビリがてら失礼します。

なにげに一か月ブログを書かなかったのははじめてかもしれない。というのも8月いっぱいコロナ後遺症のブレインフォグなのか夏バテなのかよくわからない症状に悩まされていた。一言でいえばやたら疲れるしやたら眠かった。ただそれだけなのだが、疲れとは厄介なものでもう余計なことは一切やりたくなくなり、夏の間ずっと「藻」のような生活をしていた。

病院にも行ったところ身体に異常はなく夏バテかブレインフォグか判断しかねるとのことで経過を見ましょうと言われたのだが、最近徐々に回復してきたのでまた「余計なこと」を書いていこうと思う。

 

 

物価高と若者の消費が最近話題になっているのでそのあたりについて

 

焦点:ドル24年ぶり144円台、円急落が呼び込む一段の円売り圧力 | ロイター

 

merkmal-biz.jp

 

ドル円が144円になり円の急落に伴い物価も軒並み上昇している一方で若者の消費意欲は少なくなっている傾向があるという2つの記事を読んだ。

若者は消費するだけのお金を持っていないという見方もできるけれど、若者が経済から離れていっている傾向はたしかにあるように思う。その理由は後述するとして、結論から言えばみなお金を使わないので物価が上がっても問題として感じていないのではないだろうか。

 

実際、免許を持っていなければ車には乗らず、車に乗らなければエネルギー価格の上昇も我が事としては知る機会はない。

食事にしても牛丼をはじめとした低価格の商品が売られているので食費に困窮することはほぼない。

娯楽もいまやインターネットが中心になりYoutubeで推しを見ているだけで満足している人も多い。映画やアニメを見るにもサブスクひとつあれば事足りる時代となっている。

洋服もいまやファストファッションで一通り揃えることができる。

 

若者の○○離れと言われて久しいものの、消費活動に目を向けてみればお金を使う機会が現実的にはほとんどなく、ゆえに物価高も問題として受け取らないことが可能になっている。したがって給料が上がらないけれど物価は上がるという状況にたいしてはそもそも消費をやめてしまえば良いとなる。お金がなければ単に使わなければ良いのだ。たとえばVtuberの配信で今月はスパチャしないで楽しむみたいな形でスタグフレーションを無化するようになったのだろう。

 

現実的に問題となる出費といえば家賃、光熱費、通信費、保険料などぐらいでその他の消費にあてるお金はあってもなくてもかまわないぐらいのところまできてしまったのだろう。

つまり若者はお金を持っていないから免許を取らなくなっているのではなく、車や免許はスパチャみたいなもので、あってもなくてもどちらでもかまわないと考えているのではないだろうか。

原因を考えるに今の若者は生まれた時から日本経済が衰退していたので買えないものは買えないという適応の中を生きているのではないだろうか。それはやたら物分かりがよかったり、反抗期がないことからも想像がつくし、批判や怒りを忌避する傾向からもその心性があらわれているように思う。

最近の若者は「対立する」や「キツイ言葉を使う」のが怖くて「不正した人への批判」すら目を背けている? - Togetter

 

 

こうした傾向はなにも今の若者に特有のものではなく、日本社会は非正規かつ個人の生活に最適化されるようになった時から起きていることに見える。対立や批判を避け他者にたいし無干渉になったのは、恐らく社会のコンビニ化(個人主義化)以降である。

近年の日本経済は非正規で働く人が増えると企業もそこに需要を見つけ、安い牛丼だったりファストファッションを提供してきた。結果、日本経済は非正規労働者(個人)のための産業が増えコンビニやワンルームなどが広がった。

そうした「個人のコンビニ的生活様式」が提供される一方、かつてのような車を持ち子育てする「従来の日本社会的な生活様式」は残っており、その二層に消費構造は分断されていったのだろう。

それを完全に内面化しているのが今の若者のように見える。最低限、コンビニ的な生活様式があれば良くて、車や子育てはいまや「別次元の消費」に見えているのではないだろうか。

 

かつてのような同質性が高い日本社会であれば、車を持っていない人が車を買えるように給料をあげろと言う動機が存在していた。一億総中流と言われていた時代には経済的な嫉妬感情がまだ生きていたと推測できる。

しかし消費構造が上と下に分断された現代では車を購入できるように給料を上げろと言うことはない。嫉妬感情を向けうる横並びの他者がいなくなり、車が贅沢品となったことで嫉妬の対象ではなくなった。お金もないのに車が欲しいというのはちょうどお金がないのにスパチャしたいというのとほとんど同じことに感じているのかもしれない。

ようするに「コンビニ的生活様式」を最低減とし、それ以上の消費財に関してはあってもなくてもかまわないし、嫉妬感情は多様性のもとやり過ごすというのが最新の経済観念に見える。

 

 

しかしながらこうした状況はかなり危険でもあると思う。このまま内需が減少し、社会保険料があがっていき、高齢者の医療負担が増え続ければ、必然的に日本経済全体が困窮し、コンビニ的生活様式を維持することはできなくなるからだ。消費をしないのであれば供給が滞り、供給が停滞すれば生産力が失われる。そして日本企業の生産力が失われれば円が売られる。生産性が失われ円安になると当然、実質賃金は下がりつづけることになる。

そしていつしか多様性を下支えしていたコンビニ的生活様式は突然その底が抜けることになる。たぶんそれは恐ろしいほど突然やってくると思う。

最近の急激な円安に伴う物価高・物分かりの良い若者・コンビニ的生活様式は、それぞれを取り出してみれば一概に悪いこととは言えないけれど、経済的な側面から言えばその相性はかなり厄介・・・いや正直言えば最悪なものに見えてしまうのだ。