メロンダウト

メロンについて考えるよ

選択肯定の行方:自由と楽しみのはざまで

はてなブログに「AIタイトルアシスト」という機能が実装されていたので使ってみました。本文を書くと内容から推測して勝手にタイトルをつけてくれる。すごい。もう全部これでいいのでは。10個ぐらい候補が出てきてその中で最もらしいのを選んでみましたがなにか大仰なタイトルになってしまった。内容は別にそんな大した話ではないです。

以下本文です。

 

以前、古市憲寿さんが『絶望の国の幸福な若者たち』の中で「選択縁社会」と書いていたことを思い出した。

選択縁社会というのは、個人主義によってかつてのような地縁・血縁による自明的な繋がりが崩壊した社会にあって、個人の選択によって何を縁とするかをぞれぞれが選択するようになった社会のことを指す。

古市さんが『絶望の国の幸福な若者たち』を書いたのは10年以上前のことで、本の内容は「若者の70%は今の生活に満足している」という調査結果を皮切りにその幸福さを社会の状況と照らし合わせながら批判的に論じるものとなっているが、10年経った今こそクリティカルに読める内容ではないかと思う。

 

僕達の前には常に選択肢が並べられている。何を選択するか、何を選択しないかを、あらゆる情報から判断し、与えられた環境の許す限り最善の選択をしようと試みる。間違った選択をすることもあるだろうけれど、事前に間違いだと判断できるような選択をとることはほとんどない。あったとしてもなんらかの条件付けによってそれを選択せざるを得ないような場合に限る。能動的か受動的かにかかわらず何かしらを選択し、その選択に準ずる形で生きること、それが個人主義が浸透した現代社会において僕達に要請されているものであることは間違いないはずだ。

 

 

どこに住むか、何を食べるか、どこで働くか、何を楽しむか、嗜好品はどの程度で、どこに投資して、誰と付き合うかを、意識的か無意識的かは別にして選択し続けているわけだが、そうした選択のことを自由と呼ぶ代わりに「何故それを選択しているのか」という構造が抜け落ちているような印象を受けることがある。

なにかを選択する際には判断基準が必要で、そうでなければそもそも選択すること自体できない。しかし判断基準は生育環境や人間関係に左右されるため、個々人の基準はバラバラに発散している。判断基準を平準化することはできず、偶然に左右される。そうした意味で「何を選択できるか」は平等ではない。したがって何を選択したのかという判断も主体的な選択のようでありながら偶然や構造といったものに左右されている。

・・・という話が構造主義と呼ばれていたものなのだと思うけれど、構造それ自体を見ることはとんと少なくなっていっているように見えるのだ。よくアニメや漫画で登場人物の背景描写が描かれ過去の出来事から何故いまそのような行動をとるのかについて説明がなされることがあるけれど、なぜ物語にバックストーリーが必要かと言えば、「行動や選択それ自体」を取り出してそれだけで判断してしまうと間違った理解になることがあるからなのだろう。選択それ自体を判断することは留保し、どういった動機や構造をもってしてその選択がなされたかのほうに焦点を当てるほうがキャラクター描写としてもすぐれているし、物語が立体的になるのだと思う。

 

つまり選択の裏には動機があり、構造があり、運があり、物語があって、そのうえで判断するべきだというのが多くの作品で語られていることなのだと思うけれど、翻って現実の社会に目を向けた時に僕達はどこまでそうした構造を見ようと努めているのだろうかと思うことがある。むしろ積極的に選択それ自体で判断することが多くなっているのではないだろうか。

もちろん日本人はアニメや漫画はもとより八百万の神という伝統からもわかるように人に物語を見ることに長けた人々であるし、誰かのバックストーリーが語られれば静かに傾聴する人のほうが多いであろう。問題なのは、バックストーリーが流通しなくなったことにあるように感じている。背景が描かれることなくただ選択それ自体がとめどなく流通していき、個々のバックストーリーを聞く前にまず選択それ自体が提示され、それによって判断(もっぱら肯定)することがもう癖になりつつある。

最近よく聞く「推し文化」もそのひとつで、たとえば誰かがVtuberが好きであると言ったとする。それを聞いた人は趣味のひとつとして肯定するか、もしくはVtuberを好きなんてキモイと言うかもしれない。Vtuberが好きな人に何故好きであるかを聞いても見ていて楽しい、癒されるという定型句しか返ってこない場合がほとんどで、その人がどのような現実的背景を持ってVtuberを好きであるかはほとんど流通せず、また、質問することもタブーとなっている。ただただVtuberが好きであるという選択だけが目の前に提示され、そしてそれを聞いた人はなんだかよくわからないが肯定するという流れ作業的な価値判断がかなり一般的だ。Vtuberが好きなのは現実にパートナーがいないからだという俗説としての背景や心理分析みたいなものは流通するものの、実際にどうなのかという話はよくわからないし、突っ込んで聞くことも無作法なことと考えられている。

ようするに何を好きであるかのみならず何を選択しているかに関してはすべて選択だけが残されていて、背景や構造といった周辺情報はもはや無用の長物となっているのが現状のように見えるのだ。

 

そうした判断を冒頭の選択縁社会にまで広げてみると、10年前と比べてみてありとあらゆることに関して「選択だけが選択されている」ようになっていやしないだろうか。

夫婦別姓の議論にしても、反対する人にたいして「何故、選択可能なことを肯定しないのか」と言う人がほとんどであり、選択できるのであればすべてのことは自由主義にのっとった判断でありすなわち肯定しない理由はない。そう考える人がほとんどであるように思う。

 

結婚するかしないかも選択、子供をつくることも、仕事を頑張るかもなにもかも選択の俎上に載せられすべてを選択できる状態にすることをみなで肯定している。

しかしながら多くの作品で語られるように選択それ自体にたいした意味はない。重要なのは何故その選択をしたのかという背景のほうにある。にもかかわらず選択を過剰に肯定し、かつ誰も背景を語らないようになり流通しなくなると、選択それ自体がほとんど無手で肯定されるようになり背景を見るまでもなく選択は尊重されるべきものとして扱われることになる。

 

逆説的に言えば、家族や地域も選択へと回収された選択縁社会の中にあってノイズとして残ったのが出生である。すべてを選択できるようにデザインしようとする社会にあって唯一選択できないものとしてフィーチャーされるようになったのが親である。つまり選択ですべてを包摂しようという社会の趨勢の中で選択できないものを指してガチャと呼ばれているのであろう。

 

 

もちろん、すべてが選択可能ですべてが構造に支えられているという考え自体がフィクションのそれであり、実際は偶然に左右されるのがほとんどだと思う。偶然という名の必然みたいな言葉もあるように偶然なのか必然なのかそれを主体的に選択したのかさせられたのかと、そんなこと考えてもしょうがないのはしょうがないのだけれど、ただ、どのように社会を捉えるかという視座に関して言えば、以前よりも選択をただただ肯定する人が増えたように感じている。

 

批評が廃れたみたいな話にも通じるところがあると思うけれど、みな何をどう判断するかの前にまずその選択を尊重し肯定しようと努める。そしてその先には踏み込まない。人との距離感を大事にする。それがあるべきコミュニケーションだといろいろなところで言われている。それ自体は確かに適切な振る舞いだと僕自身そう思うけれど、それが作法や主義にまで昇華すると選択は尊重すべきだという定型句に思考が閉ざされ、物事を考えなくなり盲目的になるのではないかと、そんな気がしているのだ。Vtuberが好きならただただその選択を肯定する。そうした態度は正しい態度であると同時に「楽をしている」だけなのではないだろうかよ。

 

とはいえ、実際にみんながみんな突っ込んで話を聞こうとすることもまた問題ではあるので、あちらを立てればこちらが立たず的なあまり意味のない話でした。

 

まとめ的ななにか

・規範を取り払った社会にあって個人は選択しなければならなくなる

・選択それ自体がイデオロギーになりとにかく選択を肯定しようとする

・「選択できることの何が悪いのか」という定型句はその定型性ゆえに個々の背景を二次情報に繰り下げる。

・選択だけを肯定するとその先を考えないで済むため、楽である