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ヘイトスピーチの終わりと相対主義の果て、あるいは陰謀論の機序について

日本でヘイトスピーチが問題になったのが2012年。東京の新大久保や大阪の鶴橋で「韓国人を追い出せ」「在日特権を許すな」と叫ぶデモが行われたことに端を発する。現在ではネトウヨや保守亜流と呼ばれる嫌韓ナショナリズムが一部界隈で盛り上がり、在日特権を許さない市民の会在特会)が出てくるといったことがあった。
その後、2016年にヘイトスピーチ解消法が制定され在日外国人への差別や誹謗中傷は規制されたように見えたがその「愛国的他責感情」が消滅したわけではない。かつての嫌韓ナショナリズムポピュリズム的右翼)がどこへ行ったのかと言えば、形を変えQアノンに代表される陰謀論者になっていく。「日本を悪くしているのは○○だ」という愛国感情による原因追及はかつては韓国人に向けられていた。その感情がヘイトスピーチ解消法により規制されると自前の論理を持ち出すことで一応の客観性を付与するという陰謀論にいきつく。つまり、彼らなりの事実や論理があるのでヘイトではなく批判であるという建付けにより愛国感情はヘイトの枠から飛び出していったのである。
 
似たようなことはアメリカでも起きている。先日の中間選挙における調査では、共和党支持者の70%が選挙否定論者だと言われている。先の大統領選挙でトランプが敗北したのは投票が不正に行われたからというのが共和党支持者の主張であるが、実際にはそれを裏付ける証拠はない。にもかかわらず共和党支持者は、自らの愛国感情を保守するために陰謀論を信じている。その感情は客観的事実によって規定されるのではなく、自らにとって都合の良い事実をパッチワーク的に繋ぎ合わせることで「一応の整合性」を保っている。その方法論が陰謀論者に見られる特徴である。民主党的なリベラルが嫌いだというヘイト感情は表に出さず、リベラルを否定するための方法だけが採用されるのである。ただし、注意して見るべきは、アメリカではポリティカルコレクトネスやキャンセルカルチャーなどのリベラル的価値観(つまりヘイトスピーチ規制的な価値観)が行き過ぎた結果、市民の愛国感情がバックラッシュとして噴き出したというのが陰謀論を支持する基盤となっていることだ。
 
日本でもアメリカでも愛国という物語が先にあり、その物語に即した事実(陰謀)を選択的に切り取るというのが陰謀論者に共通して見られる傾向である。その背景には感情的なヘイトを規制してきた歴史があり、それは両国共に共通している。一義的な感情の吐露=ヘイトを規制すれば、ヘイトを行うために物語を調達してくるという感情と論理の逆転、つまりは「倒錯的言論」が発生するのであろう。
ようするに日本でもアメリカでもヘイトが規制され陰謀論が生まれたというのがここ数年で起きた「右の歴史」なのだが、そうした歴史を振り返った時に考えるべきことは「嫌悪感情」の最終処分場をどうするかという問題である。
 
 
陰謀論とは、換言するに、「人間は何かを嫌いその感情からは逃れられない」という現象であるのだが、そうした現象を見るにつけ思い出すのはポストモダンにおける議論だ。ポストモダンは様々な解釈がされている為、厳密に定義づけることは難しく間違っていたら指摘していただきたいのだが、ポストモダンでよく言われるものに「相対主義」と「脱構築」があり、ここでは相対主義から陰謀論を俯瞰してみたい。
相対主義とは「人間の価値基準はそれぞれの経験にもとづくフレームワークによって規定され、何を大事に思うか、何が正義かという議論は個々人の経験によって判断されるものに過ぎない」という立場である。相対主義以前のキリスト教的世界では、道徳的価値判断を担う神がいた。カトリックプロテスタントなどの宗派の違いはあれど神という価値基準によって人間の行動や価値基準は比較参照することができた。神という絶対存在との比較によって人間が持つ価値判断は質的に尺度化され、その距離を計ることが可能だった。
しかしながら神がいなくなった近代、ポストモダンの世界では何を起点として価値を判断するかという基準が消滅するため、個人の主体的判断によってのみ何が正しいかを判断せざるを得なくなった。そして、今起きているように、その判断は個人ごとにアトム化し、バラバラになることで、いかなる価値基準も他者との優劣をつけることができなくなるという社会が訪れる。誰が何を言ったとしてもその判断は発言者個人の経験とその経験によって醸成されたバイアスがかかっているとされるため、何が正しい価値なのかという、その尺度は無化され、どんな価値観もそれを定義化・計量化・絶対化をすることができない。
つまり、あらゆる真理や価値判断は相対的なものでしかないというのが相対主義である。
 
相対主義はポジティブに言えば多様性と言い換えることができる。しかしながら相対主義には罠がある。相対主義によってすべてを平等だと見なすと出てくるのが「リアリズム」であり、それによって出てきた問題は多い。
政治的に言えば、あらゆる価値判断を平準化すると、何が正しいのかは民主主義によってのみ決定されることになり、果てにはポピュリズムを招くことになる。
インターネット的に言えば、あらゆる価値判断を平準化すると、何が正しいのかは「いいねやフォロワーの数」によって決まることになる。
資本主義的に言えば、~~~~~~~金を持っている人が正しいということになる。
 
社会的価値基準を設定することができない相対主義の世界では道徳を定義づけることは難しくなり、現実を神として設定し、現実に有用であると見なされているものが有用であるというトートロジーを招くことになる。しかしそれは現状肯定のイデオロギーに過ぎない。何が正しいかという価値判断がなければ、ただ現実だけが肯定されることになりトートロジーの外に出ることができない。そのような状態において出てくるのが現実を総とっかえすること、つまりは陰謀論なのであろう。
陰謀論とは現実の部分的否定及び虚構の肯定であるわけだが、このような展開を予言していたのもやはりポストモダンで、その中にジャン・ボードリヤールという人物がいる。
ボードリヤールはウルトラ・リアリティーという言葉を使い、客観的現実は無用の長物になるということを書いている。現実と虚構が綯い交ぜになり、すべては記号化され、その記号操作(シミュラークル)によってのみ人は物事を判断するようになるというものだ。たとえば陰謀論者は人工地震という虚構を吹聴し、それを現実の対中・対米関係などと参照させることで記号的に連結し陰謀論として成立せしめているのが良い例である。現実と虚構の境目がなくなり、虚構によって現実を形作る、もしくは現実を虚構化するのが価値判断が消滅した相対主義の世界における方法論=陰謀論なのである。
 
普通に考えて陰謀論は馬鹿馬鹿しいのだが、相対主義の世界では普通に考えてという判断すらも相対化され、普遍性という言葉自体が意味をなさない。あるいは、何が現実かという説得も意味を持たない。もしくは何が正しいのかという判断も意味がない。ただ自らに利する事実・現実・虚構を選択的に繋ぎ合わせることで価値観そのものがペルソナ化していくのである。
 
機序としてはこうだ。
相対主義によって価値基準が消滅、平準化する→多様な個人が多様な主体を持ち多様な政治的主張を持つことが民主主義の御旗のもとに肯定される→多様性を否定するようなヘイトスピーチは規制される→多様な個人が多様なまま生きるという現実だけが肯定されるようになる→現実に適応できない人もいる→現実という価値判断そのものが相対主義の極致に晒され消滅してしまう→虚構を肯定する陰謀論が生まれ、現実を取り換えようとする勢力が出てくる。
 
ヘイト感情をシャットアウトしたことでヘイトではない形(フィクション的論理展開)で愛国感情を表明し始めるのは自然と言えば自然だったのかもしれない。しかしながらそれで良かったのかと思うことがある。私的なヘイト感情は私的なものにある程度留まっていて、それ自体が公共性を帯びることはなかった。しかしヘイト感情が否定されると、その感情は一応の論理を必要とするようになった。その結果、陰謀論が生まれ、いまや右と左では話をすることすら難しくなってしまっている。それはアメリカにおいて共和党支持者と民主党支持者で同調できる政策がほとんどないことからもわかる。分断はより深くなっている。
政治的な対立軸は一見するといまだに旧来的な右と左にあるように見えるかもしれないが、もはやそのような段階ではない。それよりももっと深刻で、今や僕達の現実は虚構と等価にすらなりつつあるのだろう。