メロンダウト

メロンについて考えるよ

フェミニズムと愚かさと森保JAPAN

どこかで見たニュースが再生産されていた。

 

立憲前衆院議員の尾辻かな子氏が性的イラスト疑問視で炎上「脅迫には法的措置」 - ライブドアニュース

雀魂のキャラ広告が性的であるとして公共の場にふさわしくないといった意見と、その意見を批判する「いつものやつ」だ

宇崎ちゃん・碧志摩メグ・月曜日のたわわ・温泉むすめと無限に繰り返されてきたこの手の議論だが、結局のところ玉虫色の議論になり、表現の度合いによってゾーニングするしかないという曖昧な結論に着地しがちである。曖昧ゆえにまた「いつもの議論」が再生産され、曖昧なまま忘れられ、思い出したかのようにまた似たような話題が供給される。

 

今後も似たような事例がいくつも出てくるはずだ。そうした時に具体的な話をしても詮が無い。個別の表象を追跡発見炎上させ、それに応答するようなことをしている限り、それに付き合えるだけの熱量を持った人しか残らなくなり、エコーチェンバーにしかならないからだ。他方でそのエコーチェンバーを冷めた目で傍観する人々も出てきて、界隈全体がマイノリティーになっていく。

 

若者は”フェミニスト”にどんな印象を抱くか

 

この記事でもフェミニズムから離れる若者の心性が書かれていたけれど、フェミニズムの議論が単なる再生産である以上、普通はその議論に飽きてしまう。燃やしている対象が違ってもフェミニストの使う言葉は予測可能であり、性的搾取・環境型ハラスメント・性衝動の喚起・公共空間にふさわしくない・子供に有害などの言葉を繰り返しており、ポジショントークの域を出ない。(戦術としてのブレイクスルーを持たない森保JAPANと同じである。)

 

こうした状況を見ていると、実のところ有害広告にたいし怒っているフェミニストはほとんどいないのではないかとすら最近は思い始めている。

過去の議論を参照することである種のフレームを形成し、そのフレームから逸脱した表現物を発見した時にツイッターに投稿しているだけで、感情の働きは再生産を繰り返していくうちに消滅し、ルーティンワークのように炎上させているのが今の状態なのであろう。つまるところbotのようなもので、雀魂や宇崎ちゃんが問題だと思っているのではなく「問題になりそうな問題を過去のアーカイブを参照し判断しているだけ」でどこまで本気なのかもはやよくわからない。そしてそれにたいし批判するのも暖簾に腕押しになってしまう。(どれだけ批判されても4年間同じサッカーを繰り返してきた森保JAPANと同じようにである。)

 

 

こうした状況で考えるべきことは、フェミニストフェミニズム的フレームによって規定されている限りそのフレームの外に出ることができないという問題だ。その状態をいかにして解体し議論を開いていくかが肝要だと思うのだが、そこでキーワードとなるのが「愚かさ」であるように思う。

フェミニストはオタクコンテンツが公共空間に相応しくないと発言することが多いが、仮にオタクコンテンツが愚かであるとしても、「愚かであるから公共空間に相応しくない」となるのはよく考えるとおかしな話ではある。愚か、あるいは有害だから公共的ではないとは一概に言えたものではない。むしろ愚かだからこそ公共空間に必要という考え方もできる。

というのも愚かで例外的な人々の存在、つまりマイノリティーが社会にブレイクスルーを起こし発展させてきたというのが「もうひとつの公共性」だったりするからだ。

たとえば狩猟社会にあっても普通は行かないようなところに突っ込んでいって水源を見つけた人がいて、そのおかげで共同体が支えられていたり。他にも有名なところで言えば、スティージョブズは人間的には愚かな人だと評されることが多いものの、彼がつくったiphoneほど公共的な物はいまやないぐらいだ。

愚かで、そして例外的な文化や行動を守ることが未来の公共性に資するというのが多くの社会が辿ってきた道であるように思うけれど、フェミニズムの言うところの公共性はその愚かさを排除するものであり、それは公共の定義が狭いと言わざるを得ない。

もちろんフェミニズムの言うところの有害性は感覚的にはわからないではない。人は愚かさに相対した時に瞬間的に目を背けたくなるし、そうした表現はやはりある。しかしその愚かさがなければ社会は硬直するばかりで、新しい水源を見つけることがなくなってしまう。今のような高度に文明化した社会でもそれは程度として変わらないのではないか。

つまるところ何が公共的であるかというのはけっこう謎であり、今この瞬間の僕達の判断で捉えきれるものではない。瞬間的に判断した場合、ロリエロ広告は公共空間に相応しくないのかもしれないが、しかしそれがどのような機序でどのような公共性に資するのかというのは誰にもわからない。その不確実性を念頭に置きながら公共空間を考えるべきで、何を規制すればどうなるか、何を自由にすればどうなるかという判断ですべてを定量化できると思うことそのものが、根本からして間違っているのだろう。

 

ゆえに、表現を規制するのも表現の自由を守るのも例外や愚かさにたいする最後のワンストロークを残しながら考えるべきだということが言える。それはフェミニストも同様で、「愚かさの両義性」を慮ることでエコーチェンバーの鎖を引きちぎりフレームの外に出ることができるのではないだろうか。一言で言えば僕達の想像の外側で展開される公共性を知ることで初めて自らの認知が及ばないような「外側の公共性」へと開かれることが可能になる。

外側の公共性を頭の片隅に置き、相手の話を聞く「タメ」のある議論になるのであれば内と外・自己と他者を架橋するような公共がそこに現出しうるように思う。それでもなお二次エロ広告の掲示が許せないというのであれば、それでもかまわないのだが、外側の公共性を考慮するのとしないのではフェミニズムの「態度」はまったく違ったものになる。

上掲した増田のように、理念や言葉ではなくフェミニズムという態度を忌避する人々が多くなっていることを考えれば、フレームによって硬直した態度を変容させうる外側の公共性がフェミニズムにとってのブレイクスルーになりうるのではないだろうか。

 

何度も繰り返されるこの手の議論及びサッカー日本代表コスタリカ戦を見て、目の前のボールに集中してしまいがちな当事者にとっては内側に押し込まれていくことはある程度しょうがないものの、押し込まれた分だけ外側に出るための概念(監督)が必要とされている。フェミニズムも日本代表もそれは似たようなものなのかもしれない。

それにしてもコスタリカ戦よ・・・なぜターンオーバーした・・・