メロンダウト

メロンについて考えるよ

選択的メディア別姓

フジテレビが大変な騒ぎになっているけどなんとも言えない気分になるのはメディアの覇権がSNSにとって代わると滝沢ガレソやひろゆきみたいなインフルエンサーだったりネットに適応したノイジーマイノリティーの影響力が強くなることが理由なのだけど、だったら少なくとも社員研修があって倫理規定や放送法に縛られているフジテレビのほうが「マシ」なのではないかと。

 

近頃オールドメディア対ネットメディアという図式があらゆるところで散見されるけどこの問題の答えは自分の中で出ていて明らかにオールドメディアのほうが健全だと考えている。

まずもってネットは玉石混合であるがゆえに評価を下すことができない。良いチャンネルもあるし悪いチャンネルもあるという相対主義によってネットへの評価自体が無化されるからだ。Xとフジテレビを比較しようとすれば「メディアの種類が違う」という形で評価することがナンセンスだと結論づけられる。あるいはXというメディアに属人性や法人格は存在せず(あるとしても薄い)個人がそれぞれ書きたいことを書いているだけという形でチャンネルとして評価を下すことは難しい。

またははてなブックマークにたいして「はてな民は~~~」と書くとはてな民という総体は存在せずあくまで個人がそれぞれ活動しているという具合にここでもメディアそれ自体への評価は棄却される。

ようするにネットメディアとは玉石混合であることを盾にしてメディアとしての評価から逃れた場所であるのだが、ネットメディアで現に起きていることはそれぞれがそれぞれのコスモロジーの中にひきこもり、それぞれこれが良いチャンネルだと選択した結果としてタコツボ化しているのが現状であり、それはまがりなりにも公平性や客観性を志向するテレビに比べれば不健全と言って差し支えないだろう。

これはメディアの問題のみならず夫婦別姓などもそうだが個人がそれぞれの選択を行うことを批判することは難しい。単に選択は多様であるという形で決着するからである。なにもかも選択の内に回収される。選択的であることの何が悪いのか、と夫婦別姓の議論では常に言われている。そんなお題目を掲げた結果、それぞれがそれぞれの選択を主義主張にまで昇華する人々が出てきて、対話することが不可能となり対立する選択とネット上で空中戦を繰り広げることになる。

ようするにネットメディアのような一見すると自由で開かれたメディア空間は開かれていることに閉じられていて、多様性を標榜しながら極様性とでも呼ぶべき結末に着地するというのがここ数年でSNSで起きたことであるように見えるわけだが、それに比べれば1チャンネル内でまがりなりにも両論併記しようと努めるテレビのほうがまだ健全であることは明らかであるだろう。

 

比較するものではない、というおためごかしによってネットメディアの問題は放置されてきた。時代が変わったと言う人もいる。ただ、時代が変わったからと言ってすなわち問題が消滅するというわけではない。

すべてを肯定する選択的という金言、それを実装したネットメディアの評価は棄却されタコツボ化したタコの言葉が世論として流通するようになったこと。

叩かれても捌かれてもいない生のタコなんて硬くて食べれたもんじゃない。10年後にはそんな風に言われていても不思議ではないように思う。