メロンダウト

メロンについて考えるよ

ツイッターの構造は改めて考えるに政治的な意味では相当やばいと思う

この前開設したツイッターアカウントでリベラルから保守界隈までいろいろ見てるのだけど、ツイッターはすごいね。魔境だね。みんなそれぞれ別の論理、別の価値観で話してるのに言葉が総体化しているように見える点であれは気持ちよくなっちゃうと思う。なんで流行ってるのかようやくわかった気がする。党派性に埋没しながらも同時に世界に開かれていると勘違いできるのがすごいところだね。

党派性に埋没した自分のツイートがリツイートされ、それに感化されたフォロワーが同じようなツイートをして自分に還ってくる。他人に影響を与えたんだと、インフルエンスしたんだという確証がどんどん巡る構造になっている。実際にはただ単にムラのお祭りで神輿をかついでいるだけなのにね。なにはともあれフォロワーが増え、リツイートされると気持ちよくなっちゃう。それで自分の論理や価値観がどんどん強化されていく。同じ党派の人の中で還流していくから永遠に気持ちよくなれちゃう。結果、エコーチェンバー化して、もともとの思想とかそういうものはどうでもよくなっちゃう。どんな政治思想も「ムラのみんなが気持ちよくなれるかどうか」だけがファボやリツイートの指標になるので自浄作用はほとんど機能してないんじゃないかな。その点で、はてなはだいぶマシだと思った。

いまさらだけど、ようやくツイフェミや文化左翼と呼ばれている人々がなんであんなことになってるのかわかった気がする。完全にツイッターアーキテクチャーがそうさせている。あれで気持ちよくならない人はいないでしょう。特に政治の場合。ムラの中でリツイートが無限に還流しているだけなのに、それを世界の論理だと錯覚して気持ちよくなっている。あれの最終形態がQアノン等のトンデモ論なんだろうね。

いかにそれが科学的事実であってもムラの掟に逆らってはいけないという価値観のほうが勝つので、エビデンスはもはや関係なくなってしまう。リベラルにも保守界隈にも大なり小なりそういう傾向はあった。

さらに言えば、仮にムラの価値観を批判するツイートがあってもそれがムラの中で広まることはないので無限にタコツボ化していくことができる。

しかもそれを140文字でやっているのがすごい。手軽に気持ちよくなれちゃう。ツイッターの構造を考えるに、フェミ戦士とか表現の自由戦士とかが生まれるのはとても納得がいく。

短文ゆえに伝達性があり、文章としての論理を組む必要がない。ほとんどコピーライトみたいなものでしかないのに、それが議論であるかのように見える。さらに、論理を組む必要がないので所属するムラの価値観に埋没できる。文章にした時にあらわれてくる価値観の穴みたいなところは短文なので見なくても済む。文章化がすなわち価値観の錬磨であるという古来からの営みはもはや必要とされていないのである。

そうしてすべてタコツボ化していき、批判が許されないムラ的な世界線が出来上がっていく。ムラの外のツイートが彼らの前にあらわれるのは、政治的な意味における友敵理論として有用な敵のみとなっている。自らのムラにとって有用な敵を見つければ引用ツイートしてツッコミを入れる。すると友敵理論的により政治的結束が強まり、ムラの価値観はよりいっそう強くなる。有用ではない敵のツイートはリツイートしないので彼らの平和が脅かされることはない。

ハッシュタグも同様にハッシュタグをつけた人間の中で無限に還流していっているだけで、実際には何も起きていない。こんなことを書いている僕自身も例外ではない。僕がわざわざ虎ノ門ニュースを見ないように、大なり小なりそれはインターネット全体の問題でもある。ツイッターだけの特性でもない。ツイッターはそれが強烈だというだけで、見たいものしか見ないのは人間の習性そのものなのでメディアがその習性をもとにデザインされているのはどこもそうであろう。なので何も新しい話ではないんですよね。

ただ、そういうバイアスにたいしてせめて自覚的であろうとは思っている。

フェミニズムも正しいことを言っているし、リベラルも保守も正しいことを言っているし、あるいはヴィーガンも傾聴する姿勢は持つべきであろう。

最もやばいのは

「実際には仲間でもなんでもなく他人でしかない人達が集うムラの掟」に迎合することである。ツイッターを見れば見るほどそう思う。

仮に彼ら彼女らが仲間であれば政治ではなく人間関係として考えられるけれど、実際はそうではないでしょう。何万とリツイートされようが他人は他人でしかない。

そして、他人と他人をつなぐのが本来の政治的役割であることを考えるに「ムラの外の他人」を排除し、ムラの掟でまわっている界隈はもはや政治でもなんでもなくなっているのである。

フォロワーという他人とそれ以外の他人のどちらに支持されようがたいした違いはない。どちらも他人であり仲間ではないので人間関係としては成立していない。

(もちろんツイッターの使い方によっては仲間をつくることは全然できる)

そして、フォロワーという他人とそれ以外の他人とに切り分けている点において政治でもない。

以前にネットは虚無であると書いたけれど、私の認識は甘かったみたいである。ツイッターの虚無っぷりはブログの比ではない。