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シン・エヴァンゲリオン感想~You are (not) エヴァンゲリオン~

※ネタバレあり

 

 

シン・エヴァンゲリオン見てきた。人生だった。

ネタバレを読んでから映画を見に行ったせいか、冒頭でシンジ、アスカ、レイが第三村で生活しているシーンからすでに泣けてきてしまった。私の席の3つ隣の人も泣いていた。映画の結末がどうあれエヴァが終わるのだと思うと、第三村での日常がすべて美しく見えてしまった。私自身はそこまでガチなファンというわけでもないのだけれど、レイやアスカ、そして何よりシンジが時代の象徴であったことは疑いようもなく

郷愁のような感情を突きつけられ、涙が出てきた。

 

シン・エヴァンゲリオンに関してはいろいろな考察や批評がすでに書かれていて、私みたいなライト視聴者が書くには手に余るのだが、すこし書いていきたい。

映画を見終わり、感情的な余韻も落ち着いたころに率直に思ったのは、よくもわるくも「自意識は現実に回収されるしかない」だった。

サードチルドレンであるシンジの葛藤が大きなテーマとなっている本作であるが、旧劇から新劇まで一貫して描かれているのは人間的に不安定なシンジの葛藤だった。

アニメ版のラストでは少年が神話となって終わった。Airまごころを君にではシンジがアスカの裸を見てオナニーするシーンで始まり、エンディングでアスカに気持ち悪いと言われて終わった。いずれにしろシンジは少年のままだった。これまでのエヴァを考えるに、旧劇やアニメでシンジに共感した視聴者がシン・エヴァンゲリオンのエンディングに違和感を持つのは当然であろう。シン・エヴァンゲリオンではついにシンジは少年であることをやめる。それが今作における最も大きな変化であることは多くの人がすでに書いている通りである。神話=虚構に埋没するのもやめ、自慰行為で自分を慰めるのもやめ、他者とつながり、責任を果たす大人として戦うことになる。ケンスケに説得されることで父と対話を試み、初号機=希望のエヴァンゲリオンに乗り、13号機=絶望のエヴァンゲリオンを倒す。そして人以外の可能性=すべてのエヴァンゲリオンにさようならを告げる。アニメ版のようにおめでとうと言われる存在ではなく、さようならと言える大人として行動していく。今作でも最初は塞ごこんでいたシンジだったが、他者に開かれ、他者に説得され、他者に希望を見出し、他者と接続することで自己を選び決定するという過程を経てシンジは大人になっていく。

それを象徴するように、シンジは劇中で「涙で救えるのは自分だけだ」と言った。

「涙で救えるのは自分だけ」

今作を考えるうえでとても象徴的な言葉であったと思う。

ふさぎ込んで他者を拒絶し、神話に埋没し、自慰行為するだけだったシンジはもうそこにはいなかった。当然それは視聴者からすれば寂しいことでもあった。シンジ君どこに行ってしまったの?と、思わないでもなかった。エンディングでマリと会話をするシーンは見る人が見ればさぶいぼものであっただろう。マリの目を見ながらかわいいよと言うシンジの姿なんてこれまでのエヴァでは考えられないものだった。

なにはともあれシンジは大人になることを「選んだ」。自意識にとらわれるよりも他者とつながり、他者を救うことを選んだシンジはもういちアニメのキャラクターではなかった。視聴者の葛藤を代弁してくれるキャラクラーではなくなり、現実的存在として我々の前に顕現していた。マリのためであれば、あれほどくさいセリフを言えるシンジはもはやアニメの中の「誰かにとって都合の良い存在」ではなかった。おそらくあのシーンは、あえてシンジらしくないセリフをシンジらしくない表情で言わせることで今までのシンジとは違うのだと演出したかったのだと思う。わざとらしいほどくさいセリフにくさい表情だった。あれはなんだったのか考えるに、大人になるとはつまりはたから見ると「くさい存在」になることであると、そう印象づけたかったのかもしれない。そしてそのセリフの後にシンジは電車に乗ることをやめてマリと共に現実の世界へと飛び出していくことになる。おそらく電車がエヴァンゲリオンの比喩であったのだと思う。電車=エヴァに乗ることをやめ、マリと手を繋いで現実へと飛び出していく。

このようなシンジの描かれ方に関しては賛否があって当然だと思う。シンジが大人になったこと自体への批判もあれば、シンジが現実へ飛び出していくシーンを見て「アニメーションは虚構でしかないと象徴しているではないか。結局現実に帰れってなんだそれ。」と批判する人もいるでしょう。

 

しかし注意しなければならないのはそれはシンジの選択でしかなかったということだ。あまりにもシンジが時代を象徴するような存在として認知されているため、シンジの行いに自分を重ねてしまいがちで、自分もそういう感覚はものすごくよくわかるのだけど、あれはあくまでもシンジ個人の選択でしかなかった。

それはすでに庵野監督によって暗示されていて、新劇場版各作におけるサブタイトルがそれを表している。

序では「You are (not) alone」

破では「You can (not) advance」

Qでは「you can (not) redo

となっているが、どれも(not)がついていて肯定的かつ否定的な意味として使われている。このような表記の仕方はアニメ版にはなかった。

これらのサブタイトルがあらわすのはあくまでもあなたはあなたでしかないという意味ではないだろうか。孤独、進歩、やり直し。いずれもエヴァンゲリオンを抽象的に説明しようとする時にキーワードとなりうる言葉であるけれど、そのどれもが暫定的な意味で使われている。「暫定的」という言葉がシン・エヴァンゲリオンを見る上においても重要なファクターになりうる。それが碇シンジにたいする視聴者のあるべき態度として提示されているのではないだろうか。

上述したように碇シンジは大人になった。それは劇中で書かれている事実であるが、それはあくまでも碇シンジの物語でしかなく、あなたが碇シンジであるか、そうでないかは暫定的であると、庵野監督はそう言いたいのではないだろうか。すくなくとも庵野監督のエヴァ制作段階における葛藤のようなものがこれらのサブタイトルにあらわれていると見るのはおかしなことではない。精神的に不安定だった監督自身の物語と、それを投射した碇シンジのキャラクターは監督の成長と共にずれていき、それを昇華するために(not)という暫定的な言葉をいれたのであろう。そしてそれは同時に視聴者へのメッセージでもあるようにも見える。

あなたは碇シンジであり、碇シンジではない。あなたにはあなたの選択が常にある。孤独でいるのも、成長するのも、やりなおすのもすべてあなた次第であると。身も蓋もない話ではあるけれど、アニメはアニメでしかない。そして碇シンジ碇シンジでしかない。人は人と繋がるしかない。現実にかえるしかない。成長して大人になるしかない。そういう身も蓋もない話をずっとしたかったのだと思う。

そして(not)とサブタイトルにつけ、現実にかえるのかどうかもあなた次第であると暫定することが庵野監督の最後のエクスキューズであり、自意識への回答だったのではないだろうか。

そう考えるに、シン・エヴァンゲリオンで描かれているのは「You are (not) Evangelion」だった。

現存人類以外の別の可能性だったエヴァンゲリオン及び使徒。それらはエヴァンゲリオンという作品そのものになぞらえて暗喩されている。

エヴァ=人の別の可能性=虚構=アニメ=新世紀エヴァンゲリオンという作品

こういう構造としてメタ的に考えることもできる。エヴァンゲリオン自体がエヴァンゲリオンであるというメタ構造になっている。

あるいはそうではなく、かっこつきで(not)としてとらえることもできる。

 

 

現実は身も蓋もない。誰にとってもそうであるが、そういう感覚はずっと身体の真ん中を貫いている。13号機につき刺さったロンギヌスの槍のように、ずっと突き刺さったままなのである。なにか別の可能性があったのではないか、これは現実ではないのではないだろうか、これは虚構でではないか、といった類の自意識はずっとある。それは子供のころからそうだった。あるいは大人になってからもそういう感覚はまだある。

しかし現実はどうしようもなく身も蓋もない話でしかない。言ってしまえば人とはそれだけのことでしかない。汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンはどうしようもないほどに「汎用」でしかない僕たちの身も蓋もない現実を象徴していた。

それをストレートに描いたシン・エヴァンゲリオン劇場版はこれまでのエヴァンゲリオンの中でも随一といっていいほどにエヴァらしかった。

ありがとうございました。