メロンダウト

メロンについて考えるよ

信頼とリテラシーと参議院選挙

僕たちは常に信頼できる人を探している。生まれた時からたぶん、ずっとだ。

友人、仕事、恋愛、学問、政治、なんでもそうだが、信頼は社会関係において重要な位置を占めている。しかし同時に信頼という言葉はどこか空想めいてもいる。誰々を信頼していると言えば自分で考える能力がない人間だという批判に回収されがちでもある。また、信頼をベースにした共同体はカルト、サロン、村社会といった形で批判されることもある。したがって表立って信頼という言葉が使われることはほとんどない。個人的にも信頼を置くことができるのは数少ない対人関係においてのみではある。それ以外の場面で信頼という枠組みで物事を捉えることは危険性を孕んでいる、と感じる。というか、そもそも奨励されていない。社会を信頼すると言うことはその前提からして間違っていると言われる。信頼とはあくまで個人の話であるというのが一般的だ。

そのため、社会的な信頼関係の話は即座にリテラシーの問題へと変換されることになる。社会にたいしては信頼するのではなく「リテラシーを持て」「デュープロセスを踏め」「対話しろ」などが常套句となっている。ようするに社会的に信頼という概念は陳腐化し、関係性を細分的に捉える能力の問題へとその意味がシフトしたと言えるだろう。

以上のように書くと生き馬の目を抜く社会だと言えそうではあるが、実際にはそんなことはなく以前と比べれば僕達の社会は格段に過ごしやすく、個人が自由に生きて良い社会ではある。犯罪率も下がっているため、信頼して良い人の絶対数も増えてはいるのではないだろうか。

そんななかでも僕たちは他者を信頼することができなくなっている。過去の人よりも他者にたいする信頼感を失っている節さえある。善人の絶対数が増えても信頼の関係数は増えない。皆良い人ではある。しかし統計を見るに婚姻も減り友人関係も減っているようである。

このアンビバレンスはどこからくるのか。そして外への信頼が失われた結果なにが起きているのか。それをすこし考えたいのだ。

 

ごく普通に考えれば子供の時に「知らない人についていったら駄目よ」と教育されたのが大きな要素ではあるのだろう。他者にたいする原風景はみんなそれだ。小さい時に他者へのセキュリティーを無意識に刷り込まれ、境界線を引くことで他者にたいしては不可侵だと考える人が多い。したがって外ではなく内の関係のなかで信頼を構築するのがごく一般的な「信頼の話」ではある。なんのことはない話だ。内の信頼関係が大切だということは皆が同意するところではあるだろう。

一方、外への信頼関係の話はされなくなった。現実でもインターネットでも信頼という枠組みで物事を捉えるのは態度として奨励されてはいない。「社会は信頼で回っているとはいえそのほとんどが契約であり、他者はコントロール不可能であり、皆それぞれ違う現実を生きている」という文言に回収され、原義的な意味で信頼という枠組みで他者を見ることはいまやほとんどない。

あったとしてもQアノンやカルトなどの極度に先鋭化した集団に見られるもので、それはもはや信頼というよりも信仰のような形をとっている。そこまでいかなくとも信頼は回避されるべき態度として認識されがちだ。政治的にも誰々の言うことを信じていると言えば自ら考える能力がない人間だと言われる。どんなものであれ外へ信頼を持つというのは未熟で危険なものであると批判されるのが常となっている。

そして、外への信頼が閉じられていけばいくほど内の信頼関係の価値が上がることになる。外集団や社会が信頼を構築する場として使えないのであれば内集団の中で信頼を構築するしかないという理路になる。したがって外で語られる言葉も「内の信頼関係を築け」「インターネットをやめろ」という言説が一般的だ。外が使えない、のであれば内の関係を築くしかないという形で結局のところリアルへと回帰することになる。

しかし同時にそうした内への回帰が強まれば強まるほど外への関心は失われ、外の世界は信頼ではなく法や倫理をもとに運用すべきだと考える人が増えていった。言い換えれば僕達が外の世界では信頼を構築することは不可能だと考えた結果、信頼というあやふやで危険なものはあらかじめ排除するようになったのだろう。

 

つまりこうだ

子供の時に他者にたいするセキュリティーを植え込まれる→信頼関係が内の話に閉じられる→外、社会は信頼ではなく法や倫理で運用すれば良いと考える人が増える

というのが個人に最適化され、リテラシーが極まった社会と言える。

しかしかつての日本はそうではなかった。もっと雑然としていた。

まず子供の時に他者にたいするセキュリティーを植え込まれる度合いが低かったのだろう。かつて子供は地域社会の中で他者に触れる機会があった。また、大人の側も子供に接触したら危険だという観念が少なかったのではないだろうか。いま僕達が街中で子供を見かけた時にまっさきに思うのは「誘拐犯と思われたらどうしよう」であるが、かつての大人たちはもっとカジュアルに子供に接していたように思う。そんな中で当時の子供は幼少期から「他者」をセキュリティーとして切り離すのではなく、社会関係の中へ程度として入れ込むことができた。それは今の環境と劇的に違う。

そして、そのような環境であったため、成長したあとも信頼関係が内に閉じられることはなく、外にたいする信頼関係を持つことができた。たとえばそれがかつての三丁目の夕日などの情景に見られるものなのだろう。ネガティブに言えばその外へのコミットメントゆえに左翼運動などが起きたとも言えるけれど、ポジティブに言えば外への信頼関係が生きていた時代であったとも言える。

「内の信頼関係を築け」しか手段がなくなった僕達から見れば昔のほうが存在論的には自由だったのではないだろうか。そんなふうに思うのだ。

 

そしてこのような存在論の話は当然ながら政治の話にも接続する。かつての日本はまだ信頼をベースに社会が回っていたと書いた。ゆえに法や倫理が前景化することなくあやふやなものを許容できた。その結果、田中角栄などの人物が政治家として働くことができたと言える。

一方で他者をセキュリティーとして処理し、外への信頼関係を構築することが難しくなった僕達が選んだ政治家は「何もしない自民党」である。

内と外、私と公を切り離し、社会を単なる個人のプレイグラウンドとして捉える人が多くなれば、ルールブックを改訂するような政党に投票する人はいなくなる。外は外、内は内、他者は他者という教育を受けた人々は「生得的に政治への関心を持たない」のだ。

 

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参議院選挙が公示され、これから「なぜ国民は選挙に行かないのかといういつもの話」が繰り返されることになるはずだ。そして「リテラシーとして」選挙に行こうと言われるようになる。国民の責務や、意志表示をすることが大切だという文言がコピーとしてメディアを駆け巡り、いつものように自民党が勝つことになる。

しかしながらリテラシーという考え方でしか選挙に行かないことはやはり問題である。普通に考えて投票に行けばそれで良いわけではない。そもそもリテラシーゆえに僕達は外を外、政治を政治として切り離して考えている。私と公が混ざらない、信頼しない、ゆえに政治には期待しないし、あるいはしないほうがむしろ適応的な考えとなっている。

ゆえんリテラシーという言葉でしか選挙に行かない政治的自発性の欠如。それを引き起こす外集団への信頼の無さがそもそもの問題なのではないだろうか。

僕達が内の信頼関係に閉じられ社会を信頼しなくなり、政治に期待しなくなったこと。それを今一度思い返したほうが良いように思う。でなければ最も無難な投票先である自民が勝つのは目に見えているからだ。

 

政治は期待されなければ何もしない。それは僕達が誰かに期待され、信頼されて内発性を喚起されるのとまったく同じ理屈でもってそうなのではないだろうか。たぶんもっと僕達は政治に期待し、他者を信頼し、あやふやなものを取り戻すべきなのだろう。

なればこそセキュリティーリテラシーという植え付けられた観念から自由になれるはずだからだ。