東浩紀さんの『ゲンロン0~観光客の哲学~』に「僕達の世界は上半身と下半身に分断されている」ということが書いてあった。グローバルになった世界において下半身の欲望、つまり資本主義で人々はシームレスに繋がっているけれど上半身である政治はバラバラになっていると。すごく印象的な話だったのでよく覚えている。
衆議院選挙が始まり政治に関する議論がメディアでも連日報道されているけれどどうにもコミットできない感じがしているのは僕達の「下半身」は政治でどうこうなるものではないのだろうな、という諦観があるのだ。それは東さんが書いていた問題に近いけれど、コロナや生活困窮者といった問題に目を向けて見ても「金を配ればどうにかなる」というレベルの話を超えてきているように思う。
一昔前に「保育園落ちた日本死ね」というはてな匿名ダイアリーの記事が話題になったことがある。国会でも取り上げられるほどの社会問題になった。保育園に子供を預けることができないので働くことができない「一億総活躍社会じゃねーのかよふざけんな」という痛烈な文句が書かれていた。その後国会で話題になり実際に保育園に公金が投入されたりと改善されたみたいであるが、記事が出た当初に思ったのが「ああ、もう子供を預けられる共同体はないんだな」ということであった。当該記事が出た直後にも書いたけれど自分が子供のころは母親の友人の家で一日中遊んだりしていた。子供はムラで育てるではないが共同体という関係性の中でお互いが融通をきかせて助け合うという互助関係が成立していたように思う。しかし核家族が基本になり隣人ですら干渉しないことが是とされる世の中になると人と人が助け合う共同体は失われてしまった。産休や育休といった制度が強く言われるようになったのも、個人の融通をきかせられる共同体がなくなったことと関係しているのであろう。あるいは精神疾患などが増えているのも「精神を逃がす場所」としての共同体がなくなったことと関係しているのではと思っている。そうした共同体の喪失はもう何年も前からであるし、今さらそんなこと言ってもしょうがないのだけど、しかし保育園が増設されていくのを見るにつけ「政治もまた共同体を組み込まないで社会を取り扱っている」のだなと思うようになった。
個人、共同体、そして国家。この三竦みのバランスによって生活は維持されてきたように思うが今や個人と国だけになり、保育園に落ちたら一足飛びで国に請求するのが僕達の社会なのだ。あの記事はそれを象徴していたように思うし、そうした状況は今も変わっていないどころかより強くなっている。僕達は個人として剥き出しになり、個人の困窮は国家に救ってもらうという図式になんの疑問も抱かなくなった。それはコロナでも明らかであったし、今般の選挙において「個人に」10万円を配るといった政策が各党で盛り込まれているのを見ても明らかである。昔であれば「地域振興券」であったりしたものが「むきだしの現金」になったのは今の社会をよくあらわしている。
あるいは政治思想に関しても同様のことが言える。つまるところ保守は国家を語り、リベラルは個人を語っているのが今の政治風景である。保守は経済政策、安全保障、憲法などに強い関心がある。リベラルは困窮した個人や弱者及びマイノリティーに関心がある。こうした政治状況では保守にもリベラルにも共同体が存在できる余地はなくなってしまった。リベラルにたいして共同体の再興をと言ったところで「それは個人をムラの因習に縛り付けるものだ」という反論がなされるのは目に見えている。保守、ネトウヨの側にしても共同体を説いたところで国粋主義的な反論が返ってくる。保守にもリベラルにも仮想敵と見なされた共同体は政治的立ち位置を失ったのがここ数年における政治思想の変遷なのであろう。しかしながら本来共同体こそが保守とリベラルを繋ぐ緩衝材であったのだ。それを失った今、保守もリベラルも共同体の存在を無視して国家や個人について語っているので政治風景そのものがどこかシラケた感じがしてしまうのだ。
「保守主義者は国家は国家のやるべきことをやれと言う」「リベラルは困窮した個人への再分配を主張する」といった論旨については同意できる部分がある。しかしながら政治体制を批判してもそれは場当たり的に解決するだけになる。当然のことながら政治にはできることとできないことがある。もちろん場当たり的な解決も困っている人が現にいるのだからとても大事なことである。しかしそうした場当たり的な解決及び場当たり的な問題の発見に終始し、個人の問題をすべて政治へと還元することそれ自体が僕達の社会の問題でもあるのだ。言い換えるならば僕達は「政治に逃げ込んでいる」とも言える。もちろんだからと言って自己責任で解決すべきなどと言いたいわけではない。根本的になぜ僕達の経済は駄目になったのか、僕達の困窮は「どこからくるのか」といったことに目を向けなければいけないように思うのだ。困窮とはつまり孤独のことであり孤独とは個人のことである。そして個人でしかいられなくなった社会にこそ困窮の原因があるのではないだろうか。そうした問題を政治へと還元することはたやすいが、それでどうにかなるような世界では、もはやないのである。
それを自覚するためのヒントがゲンロン0で書かれていたことのように思う。僕達の政治、上半身はバラバラであるけれど個人としての欲望、下半身はグローバルに繋がっている。下半身という個人の欲望は資本主義の赴くままに動くけれどそれを制御できるだけの上半身を僕達はもはや持てない、というのが今の世界の条件なのだろう。
個人の欲望を肯定するという自由、リベラリズムは「下半身にとって快適である」。しかしそれによって生じた問題を上半身である政治へと還元することは時にキャパオーバーとなる。欲望は際限がないというとあまりにも陳腐であるけれど、際限がなくなった欲望はどこかで緩衝しなければならないことも確かなのだろう。無限に増殖していく資本主義下における僕達の欲望にたいして政治という上半身はあまりにも脆弱すぎるのだ。
保育園に落ちても困らない関係がある社会をどう実装するのかというのは、政治の問題であると同時に、「こちら側」の問題でもあるはずだ。なればこそ政治も場当たり的な政策ではなくグランドビジョンを模索することが可能になるのではないだろうか。理想論に過ぎないかもしれないが、政治が政治として屹立するため、投票以外に何ができるのかを引き受けて考えてみても良いような、そんな気がしているのだ。
投票も大事な政治活動だけれど「投票だけして政治に丸投げ」し、事が起きたら「日本死ね」という態度はあまり望ましいものとは言えないだろう。悪政が社会を逼迫することがあるように社会が政治を圧迫することも時にある。
投票だけが政治なのではないと、選挙前だからこそそんなことを書きたくなりました。