メロンダウト

メロンについて考えるよ

僕達はなぜ不安なのかについて考える

僕達はなぜ不安なのだろうか?という決定的な問いがある。経済的なデフレ、老後、就職、病気などすべてに通底しているのが不安であり、不安だけが唯一重要な社会問題と言っても過言ではない。現状、不安は「発見され治療される」のが良いことだと考えられている。個人が不安になれば個別に対応し、社会保障費などを使いこの社会のスピードに対応できるように治療を施すことになる。それ自体は良いことである一方、この不安を永久に温存したまま社会は続いていき、治療され適応していったものもまたこの社会のスピードを加速させる構成員となっていのが今の社会であるように見える。それは資本主義として自明のものである一方、この自明性が精神の奥底まで浸透してしまい、心に余白が存在できなくなってしまったのではないだろうか。
 
なにか「心」などと書くとそれだけでどう読まれるかと不安になってしまう、そのぐらいの社会であるように感じるのだ。
事実に立脚したファクトベースで語るべきである一方で「心」を語る言葉はスピリチュアルな響きを持ち、敬遠される。あるいは心で語っているとしても事実に寄せて語るのが論理的だと考えられている。直接的にいま私は心で喋っていますというと「n=1」でしかないという具合に寸断処理されてしまうのが今の言論風景ではある。それは心が確かなものではないからなのだろうけれど、
しかし「確かなものを積み上げていった結果なぜかみな不安になった」というのが今起きている事態のように思えるのだ。
僕達の社会は確かなものや確かな価値観で溢れている。時刻表通りにくる電車やバス、労働時間の厳守、コンプライアンス、マニュアル通りの接客を行うサービス業、偏差値、あるいはもっと単純に言えば「料金」。すべてこちら側の期待に沿うよう、既知で事実的なものにより社会は設計されている。価値観も例外ではない。公正性、平等、ファクトベース、論理一貫性など一般に知的な態度として見られるものも事実に立脚している。
社会の様々な「物」「人」「サービス」における確実性、価値観における客観性。今の社会にありそうした事実がおよそ支配的であるけれど、そうした環境にあって出てきたのが親ガチャという「カウンターファクト」なのであろう。
 
社会が事実に覆われているその一方で人の不確かな心や感情は社会から居場所を失くしてしまったのが僕達が今置かれている「心のありか」なのだと思う。心は陰謀論や宗教として隔離され、事実だけが詰みあがっていく社会で僕達は心をどうするかという最も根源的な問いを蔑ろにしてきたのではないだろうか。陰謀論やQアノンといった主観でしか物事を見れない人々は単に「狂っている」のだというのがおよそ大多数の意見であるが、個人的にはそう単純な話ではないと思っている。この社会が事実でしか物事を語れなくなった結果、それにうんざりしている人々が「逆に振れた」のであろう。
こうした問題はなにもアメリカ特有の話ではない。たとえば松戸市Vtuberに全国フェミニスト議員連盟が「衣装が性的だ」として抗議した件に関しても同様のことが言える。なぜフェミニストが性的という「事実に見せかけたお気持ち」を毎度のように持ち出すかと言えば、事実に見せかけなければそれが説得力を持たない社会だということと連動しているからであろう。「私は性的であると感じた」以上のことは言っていないのにそれを事実に粉飾しなければ政治性を持たないのが事実に覆われた僕達の社会のありかたなのだ。粉飾とはつまり「ガワを被る」ということであるけれど、そのガワが何かと言えば事実に基づく客観的意見というエビデンシャリズムなのであろう。本来はお気持ち、つまり心でしかないものを事実に見せかけるというのは事実だけしか語れない社会だからということに立脚している。フェミニストの抗議をお気持ちだと批判することは簡単であるけれどお気持ちだという批判には言外に「事実ベースで物事を語れ」という論旨を含んでいる。それは客観的な議論のありかたとしては至極妥当である一方、客観的批判を行えば行うほどに事実でしか語れない環境を強化していくことになり、よりお気持ちは事実に粉飾して語られることになる。そんな「不安」があるのだ。
 
 
こうした構造は何もフェミニストを取り巻く議論の現場だけではない。時刻表通りに電車が来なければ会社に遅れ、会社に遅れれば業務が遅延し、残業しなければならないかもしれないという不安。コンプライアンスを守らなければならないと思慮するあまり取引先と会うことそのものに感じる不安。受験に落ちればドロップアウトするかもしれないという不安。受験に落ちたら将来の収入が下がるかもしれない、しかし受験は偏差値という事実に基づいた公正な競争であるという事実、にもとづく不安。事実に基づいた社会はその事実と連関する他の事実に等比として連関している。かのマイケル・サンデルが大学受験はくじ引きで行うべきと書いたのも「等比の連関」からいかにして脱することができるかという問いからきているのであろう。くじ引きというアイデアは一見すると陳腐で身も蓋もないものだけれど身も蓋もないくじ引きだからこそこの社会のレギュレイションにイレギュラーを混ぜることができると、そう考えたのではないだろうか。
 
こうした「事実がどこまでも連関する社会」にあって心は単に心でしかない。実際に会社をサボったり受験をすっぽかすことも可能であるけれど、そうしたドロップアウトを飲み込むような社会にはなっていない。過去という事実にもとづく採用であったり、企業における実績や業務内容、財務健全性からバランスシート、インスタント・ガバレッジ・レシオなどなど事実にもとづく関係性により構築されているのが今の社会であり、それから逃亡したところで、より巨大な不安を抱えるだけになるはずだ。
 
そうした事実による不安の連関があるからこそ人はより強く勉強し、より強く適応するように促され、心は無用の長物となってしまったのではないか。恋愛という一事をとって見てもステータス的な恋愛が行われているのも心に意味などなく事実に重大な価値があるという社会と関係しているように思う。親ガチャ、収入、能力、格差、階級の固定化というこの厳然たる事実の前に心が自由でいられると説いたところでなんの意味があるのか、と多くの人が感じているし、それは実際のところ間違っていなかったりするのである。そうした事実ベースにもとづいた個人のコスパ重視の振る舞いを宮台真司氏は損得マシーンなどと批判しているけれど、「時刻表通りに電車がこない社会」をいまさら僕達が許容できるのかと言えばほとんど不可能に近い。
人間関係にあっても暴走列車(のような人)に好き好んで関わる人もいないし、そうしたものはYoutubeでネタとして消費され、一抹の慰めに資するだけになる。たとえばアル中カラカラ氏のような狂人が時に魅力的に見えるのも社会がレギュレイション化していることと関係しているように思う。彼は事実に覆われたこの社会の「政治的逆説」なのである。
 
 
話がとっ散らかりすこし長くなってしまったけれど、最も言いたいことは「事実という確実なものはその確実性により不安を持たせない理性的な言説である」という一般的な認識は重大な勘違いだと思っている。論理や合理と言い換えてもいい。僕達は事実により不安になるし、事実が強固であればあるほど事実の側にたち、事実のガワを被ろうとする。それは多くのものに見られる現象であるけれど事実より確かなものは「僕達が心を持つ存在」ということではないだろうか。赤は赤として存在するのではなく人に認識されてはじめて赤になる、というような古典的哲学論議をしたいわけではないけれどすくなくとも赤を赤と断定することは僕達の主観にいくばくかの不安を抱かせることは確かなのだと、そう思う。
人はこうした環境にあって社会の内部における事実と連関した不安が強化されればされるほど、それとバランスを取るかのように自由を叫ぶことになる。それが自由に先鋭化し、ロックダウンなどの設計主義を唱える「矛盾したリベラル」であるし、彼ら彼女らの中で設計主義と自由は別領域で展開されるパッチワークとして自然な振る舞いなのであろう。ちょうど僕達が事実と不安の関係を視認できないように、リベラルもまた自由とロックダウンの関係性を直視できないのかもしれない。事実も不安もロックダウンも自由もすべて別なものとして考えられ、別なものとして扱われる。そうした峻別が物事の関係性を隠蔽しているように思うのだ。
そして、その隠蔽の堆積量を超えもはや無視できないものとしてあふれ出してきたのがあらゆる騒動に通底している概念であるように思う。