メロンダウト

メロンについて考えるよ

努力ガチャとプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

シロクマさんが徳島スタンフォード事件や努力ガチャの問題を書いていて
 
読んでたらプロ倫(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)を思い出したのでそのあたりのことについて書いていこうと思います。
 
『プロ倫』に書かれていたことはようするにカトリックの敬虔な信仰心が「逆説的」に資本主義の合理性を召喚し、「結果として」経済成長を促してきたということだった。
私もうろ覚えなので調べながら書いていきたいのだけど
当時のアメリカを中心としたキリスト教文化圏において支配的だったのがカルヴィニズム(プロテスタンティズム)という宗教体系で、カルヴィニズムにおいては専ら予定説(カルヴァン予定説)を採用していた。予定説とは神によって救済される人間は予め決定されており、俗世での振る舞いによって神が差配することはないというものである。
仮に善行を積んだり教会へ寄付をするといった行動によって救済される人間が選ばれるというのであれば神の絶対性を侵すことになる。そのため、神は誰にも忖度しないという予定説・決定論が当時支配的であった。
このようなキリスト教の予定説は例えば仏教のように因果や業を中心とする宗教とは一線を画すものである。仏教は善行を積めば相応の果報があるという建付けになっているが、プロテスタンティズムにはそのような因果関係は存在しない。神は絶対であり、そこに一切の「情け」や「果報」や「縁起」はない。善人も悪人も等しく救済されうるというのがキリスト教を支え、神の不可侵性を守ってきた。
しかしながら俗世での振る舞いをすべて無為なものとしてしまえば人々は絶え間のない恐怖や緊張に晒されることになる。
そこで召喚されたのが『私が救済されるような人間であれば救済されるような行動をとる「はず」だ』という因果関係の逆転であった。善行を積めば救済されるのではなく、結果(自らが救済されうる人間であるという確定的な前提)から行動(俗世での善行、敬虔な信徒)を逆説的に呼び出していたのである。
ようするに本来であれば非合理の塊とも言える予定説が合理性を生み出していたのだ。そうしたキリスト教の敬虔さ・倫理が勤勉で禁欲的な労働者をも生み出し結果的に資本主義を発展させたというのがプロ倫に書かれていたことであった。
 
 
前提がすこし長くなってしまったけれど、結論から言えばプロ倫に書かれているように今は「因果関係」が消滅、あるいは逆転してしまっているのではないだろうか。人間観がプロ倫化しているとでも言えば良いのか。
 
かつて僕達は因果にもとづく縁起の上に社会を形成していた。それこそ働いて家族を養うようなサラリーマンという生き方であったり、善行を積んで友人をつくり世の為人の為に働くことで幸福になるという「因果的人間観」は仏教における果報に近い考え方であった。しかしながらそういう真面目な労働者が富を得ることができるというのはここ数年で否定され続けてきた。
経済的にはそれこそピケティが言うように労働分配率は資本収益率を下回っており、能力的にはサンデルが言うように出生という運によって実力が決まるというのが現在支配的な考え方である。ピケティやサンデルを知らなくとも現実に労働することによって富裕層の仲間になれるかというとそんなことは無理と答える人が大半であろう。
 
貧困家庭に生まれ真面目に労働をし、それを資本が適正に評価してくれるという物語は完全なる幻想になり、産まれた時に知能や学力には格差が存在し、それは労働分配(経済成長)という勤勉さによって覆せるものではないという事態になっている。
言い換えれば社会や経済は「決定的」になっているということである。そしてこの「決定的」という言葉から思い出されるのがプロ倫であるのだ。
社会は予め決定されているという、身も蓋もないプロ倫的な価値観がここ数年大変な話題になっているのはこのブログにも何度か書いてきたので今更説明する必要はないのであるが、今一度思い返すべきなのは「なぜ」親ガチャやメリトクラシーといった言説に僕達が得も言えぬ魅力を感じているのかということである。
端的に言えば僕達はかつてプロテスタントが辿ってきた道をそのままなぞっているだけなのではないだろうか?
 
サンデルやピケティの言説は富裕層を叩くためのこん棒として痛快である。しかし一方でサンデルやピケティのような「予定説」を採用するのであれば富裕層は僕達の生活と分離した場所で不可侵の神として独立して存在するということになる。
 
産まれが良いから能力がある、金を持っているから金が回ってくるというような話は身も蓋もなさすぎるのであるが、しかし一定程度事実なのも間違いない。
そうした分断は政治による再配分であったり、社会運動や学校教育などで変えることができる可能性はあるものの、出生という側面からすでに格差が存在しているという言説を採用するのであれば、能力や文化資本のようなものは覆しようがないと認めることと同義である。
それはつまり資本が不可侵の神になっていると言いかえることもできる。そして「神を呼び出した世界」がどうなるかを書いているのがプロ倫であるのだ。
具体的には前述したように「プロ倫的世界」においては現世での振る舞いをほとんど無為なものとしてしまうので人々の緊張が高まることになる。ものすごくベタに言えば労働しても「富」を得られるわけではないので将来が不安という人々がたくさん出てくる。そのため、鬱病神経症といったものが増加する。かと思えば一方で人々は神のお告げにたいし忖度するようになり、極度に合理的かつ倫理的な振る舞いを行うようになるという二層構造を形成するようになる。
こうした構造はかつてのプロテスタントと非常によく似ている。神はいる(資本はあるところにはある)けれどそれに干渉することはできないという諦観が社会を貫いた時、人々は緊張と合理と倫理を同時に召喚するようになるのである。
 
たとえば恋愛に目を移して見てもプロ倫的な世界が極まれば極まるほど、恋愛することに極度の緊張をともなう非モテを生み出し、かと思えばマッチングアプリのような合理的恋愛も同時に流行するという事態になる。
また、努力は努力できる環境に生まれたに過ぎないという徳島スタンフォード事件にまつわる様々な議論も、彼女を批判している人の内面にあるのは「それが予定されたものに過ぎない」という決定論なのであろう。努力は無意味、物語も無意味、善人も悪人も等しく「偶然≒神」に差配されているに過ぎないという諦念が彼らの「主義」であるのだ。努力して、物語を紡いで、それで「だからなんだ」という批判はけだし宗教的なのである。
あるいはインフルエンサーであるひろゆき氏に目を向けて見ても、彼の言説は誰にたいしても平等でどこか神っぽい雰囲気がある。極度に論理的な氏の言説が支持されるのも、かつてのプロテスタントのような非合理が生み出した合理主義の帰結だと言えはしないであろうか。
 
プロ倫の内容を思い出すとわかるのは、様々な資本(能力、経済、文化)が神として不可侵になればなるほど僕達は逆説的に神に認められうる存在になろうとすることである。
かつてのキリスト教徒は「神に救済されうる人間はこういう行動を取るだろう」という逆算によって勤勉な労働に励み倫理的な振る舞いを行っていた。もちろん神が差配することはないのでそうした善行は無駄と言えば無駄である。それでも彼らは信教に準じていたのである。
それを現在、資本が分離され神となった社会に当てはめてみるとわかるのは、僕達は資本に救われうる振る舞いを「無駄とわかっていながら」行い、より倫理的になるということである。資本のガワを被ると言い換えても良い。
資本家であれば健康であろうという逆算から健康ブームになったり、安倍総理であればこうしたほうが喜ぶだろうという忖度が問題となった森友問題もとどのつまり逆算の問題であるのだ。
あるいはもっと思い切ったことを言えば近年「可愛い」という価値観が支配的になった理由も、僕達の社会で資本が分離された結果、資本に愛されるということがとりわけ重要になった社会状況と連動しているという仮説も一考の余地があるように思われる。
 
資本家や政治家といった神と同一化し、神ならばこういう行動を取るだろうという無限の逆算はここ数年事を欠かないことでもある。
インターネットでもたびたび炎上が起きて騒ぎになっているのも、誰か事件を起こした際に炎上させている極度な倫理観は神からの逆算によって持ち出している倫理観と言えるであろう。神からの倫理であるので、そこに現実世界の文脈は考慮されず、言葉狩りやポリコレといった「形式」によって炎上したりする。対話ではなくお告げのようなものに見える時がある。
 
いずれにせよ『プロ倫』に書かれていることと僕達の社会はかなり酷似している部分があるように思われる。近代にはいり神は死んだなどと言われ、無神論者が多い日本にあってカルヴァン予定説みたいなものは関係ないものだと切り捨てられるのかもしれないが、だからこそ僕達は自分達が何を信じているのかを自覚しないまま生きているとも言える。
しかし何を信じているのかわからないまま同時に神を呼び出そうともしているのだ。それはものすごく危険なことであるように感じられる。
近年話題になっている親ガチャや努力ガチャという言葉はけだし神っぽいのだ。それらの言葉がいかなる「逆説」を「結果として」産むかということには、注意を払ったほうが良いのではないだろうかと、そんなふうに思いました。