メロンダウト

メロンについて考えるよ

はてな民のために球技の意味について政治的かつ実効的に語りたい

anond.hatelabo.jp

 

誰か教えてくれ。

「体育の授業に球技を入れることに何の価値があるのか」ってことを

 

私はけっこう運動してきた人間で、だいたいの球技は人並み以上にできたりするのだけど、なぜか体育嫌いの巣窟であるhatenaにいるのではてな民のために運動について語っていきたい。

学校の授業に球技を入れることの意味について増田は疑問を呈しているけれど、球技以外で子供がやって楽しい集団スポーツを上げるとなるとかなり難しいと思うぞ。

球を使わない集団スポーツって実はかなり少なかったりする。体育の授業で行える球技ではない集団スポーツってダンス、綱引き、騎馬戦、団体行動、縄跳びぐらいじゃないかな。柔道や空手のチーム戦もあるけど今のご時世ケガしたら保護者からクレームがくるので無理だと思う。設備があればボートや自転車も楽しいけれど費用がかかるので一般的ではない。

となると何も設備がなくても可能かつケガするリスクが低い集団競技は陸上となるのだけど、陸上を体育でやるのはあまり賛同できなかったりする。駅伝やリレーなど走ることを子供は特に嫌うからだ。楽しくないと体を動かすこと自体嫌いになってしまう。ランニングやトレーニングは一般的に楽しくない。

大人になってランニングしてる人も心拍数を上げ、ストレスを汗をかくことによって流すのが気持ちよかったりする。ジムに行く人は筋肉がついたり健康になるのが楽しいわけで、もともと元気な子供に走らせても目的意識も発散するストレスもないので単なる苦行になってしまう。子供の時にマラソン大会が楽しかった人はほとんどいなかったはずだ。

 

よって球技以外にできる集団スポーツがあまりないというのが結論なのだけど、消去法的に球技以外にないと言うのでは増田の疑問に半分しか答えていないので球技をやることの意味についても書いていきたい。

球技から学べることは主に3つあってそれが「偶然性」と「冗談関係」と「ノンバーバルコミュニケーション」だと思っている。

 

そもそもなぜ僕たちは「球」に魅了されるのかというと「どこに転がるかわからない偶然性」にある。たとえば最も偶然性を直接的に見て取れるのがゴルフで、ホールインワンなどを目撃すればその偶然に僕達は驚嘆し、その確率を高めてきたプレイヤーの努力を称賛する。

ゴルフよりもボールが大きいサッカーであっても狙ったところに飛ばすのは至難の業だ。素人はもちろんプロのプレイヤーだって例外ではない。ワールドカップなど世界最高峰の舞台でもフリーキックは依然として偶然に支配されている。試合結果の番狂わせもよほどのレベル差ではない場合、球技ではしょちゅう起こる。サッカーも野球もメジャースポーツと呼ばれるものはその偶然性ゆえにやることも見ることも面白いのである。

逆に球技以外のスポーツはそのほとんどが鍛錬によって勝敗が決することがほとんどとなっている。柔道や空手など身体的接触を伴う競技ではオリンピックを何連覇もする人が出てくるし、陸上や水泳でも一番速いタイムを持つ人が勝利するのが常である。そこに偶然性はほとんどない。あっても当日のコンディションなどに限られている。(ゆえに精神的には極めて過酷であると言える)

球技のようにたまたま良いところにボールが転がった結果勝敗が決することはない。

「どこにボールが転がるか究極的にはわからないということ」

それが球技から学べることのひとつではあると思う。もちろん必死に走らなければゴールをあげられる確率はゼロに等しいけれど体育の授業レベルであればサッカーでヒーローになれる確率は誰の手にもある。

偶然をつかむために必死に走るのは楽しいということ。それを教えることは授業として意味があることではないだろうかと個人的には思うのである。

余談だけどプロ野球より甲子園のほうが見てて面白かったりするのはこの偶然性ゆえだと思っているし、昨今話題の親ガチャのような必然性の議論にたいしては球技によって得られる偶然性がその耐性をつけるのに一役買うことができるのではないかと思っている。一度きりの人生、フィールドにたっている限りいつボールが転がってくるかわからない。偶然があると思えることがつまり希望だったりするのだ。現実には決勝トーナメントに出場するチームがいつも同じであろうとも、である。

 

次に

偶然性から派生して、球技を競技ではなく体育として見た場合、それを集団で行う意味は関係性の構築にあると考えられる。よく言われることだけど一緒に体を動かすと仲良くなるのは間違いない。大人でも子供でも同じことで、特に球技ではその関係性が構築しやすい。

それは上述した偶然性ともリンクしていることだけど、球技が偶然に支配されてるとは言い換えればミスをするということだ。そのミスは「笑い」になるという効果がある。よく人が失敗することは面白いとお笑い談義で言われることであるけれどそれは一定程度事実だと感じている。大人であっても他者の普通は見せないようなポンコツ具合を発見したらそれを笑いに昇華し、そのミスを揶揄しあえるような関係になればコミュニケーションを円滑にし、良好な関係を築く手立てとなる。他者の意外な一面が自他の境界を溶けさせることで仲良くなるのは子供だって例外ではない。

たとえば普段はなんでもできる優秀な子供が体育の授業でサッカーしていた時に空振りして転んだりすれば、その子に近づきがたかった他の子供はそれをキッカケに仲良くなることができるかもしれない。つまりその空振りが関係性を構築するための冗談として機能することが期待できるのである。その冗談、ミス、ポンコツを創出するのに球技という偶然性の高い競技は恰好の材料なのである。

もちろんそのミスが冗談ではなくなり、いじめなどに発展しかねない点も注意しなければならないものの、コミュニケーションをとるためのキッカケとして体育でのミスはその軽さゆえちょうど良いものだと言える。コミュニケーション発達の機会としてこれ以上適切なものは少々考えずらいほどだ。

ゆえに体育で球技を行うことは「子供に適切なミスをさせ、冗談関係を構築させる授業」だと言える。

書いてて思ったけど冗談関係なんてそもそも必要ない、それはハラスメントだというのが昨今の風潮なので以上のような話は万象一切灰燼と為しそうではある(わかる人にはわかる表現)

しかし大人の社会がどうであれ子供に機会を与えるというのが教育だと思っているので、その機会を取り上げるべきではないであろう。取り上げるのであればメリットも判断してからにしたほうが良い。

 

 

最後に

ノンバーバルコミュニケーションについて書いていきたいのだけど

まず前提として僕達の社会は近年急速にデジタル化して、SNSも一般に普及するようになった結果、バーバルコミュニケーション(言語コミュニケーション)ばかりを注視するようになったことを確認したい。誹謗中傷やネットリテラシーなどの問題が顕在化し、子供の間でもLINEいじめなどが問題視されるようになった。そして「言葉の使い方」がことさら重要なものに変化しつつある。

しかし上述したようにハラスメント問題も同時に進行し、ノンバーバルコミュニケーションも問題になっている。

ようするに現実とSNS問わず言語非言語の両面でコミュニケーションがピーキーになっているのだけど、バーバルコミュニケーションに比べノンバーバルコミュニケーションはあまり教育されていないように感じられるのだ。日本人は欧米人に比べジェスチャーなども苦手だとされているけれど、他者と連動して体を動かすということは子供に限らず日本人全体の課題のひとつにあげられるのではないだろうか。

ノンバーバルコミュニケーションは時に言葉以上に重要なもので、たとえば英語を話せなくともジェスチャーひとつでコミュニケーションを取れたりすることもあるし、日本人同士でも上辺の言葉よりも身体的な表現でコミュニケーション強者になっている人もいたりする。

その問題を解消するのに球技が役にたつかはわからないものの、他者と連動するためにコミュニケーションを取り体を動かすことは無駄にはならないはずである。サインプレーなどとは言わないまでも単純に誰がどこにいて、こっちを向いてるからボールが欲しいのかなど「察する」ことについては学ぶことができるのではないだろうか。

 

結論としては

とりあえずフィールドに立っていればボールが転がってくる可能性があって、タイムアップまでになんとかしないといけなくて、敵味方入り混じっているという「感覚」は身体性が希薄になりつつある社会で、政治的・個人的問わず大事なものになっていると思わないでもないのであった。