メロンダウト

メロンについて考えるよ

ロックンロールの消滅、主体の消滅、適応の始まり

「ロックは反権力の象徴であったけれど、それは大きな物語の対立軸として存在していた」といった旨のツイートを見た。定説としては正しいと思うけれど、ロックは反権力のものではないと思っている。確かに反権力といった側面もロックにはあるけれど、それはロックの本質ではない。そんなことを書きたくなった。

 

ロックを思想的に分類するのであればそれはもちろん保守でもないし、あるいはリベラルでもない。ロックは政治的な意味での自由とは別の自由に基づいたものだった。リベラルとしての自由ではなくフリーダムとしての(と言うといささか語弊があるかもしれないが)自由がロックなのだろう。その自由が「時に政治的に響く」のであって、本来のロックは政治的な意味での自由とは異なる。リベラルの言う解放としての自由とは異なり、個人を政治や社会の外に連れ出してくれる自由がロックだった。その意味でロックは反権力のものではなくむしろ「非権力的」なものだと言える。「権力とかなんとか知らんが勝手にやってろ」と言うのがロックのそれであることは片足でもロックにつっこんだことがある人にはピンと来るはずであり、そのようなスタンスは非権力と呼んだほうが適当だと考えられる。

ロックは権力や政治などとは別領域のもので、学問的な分類としては文学に近い。文学がそうであるように、政治的なものからむしろ人を自由にすることで、それが逆説的に政治性を帯びるという構造として捉えたほうがより正確だと考えられる。ロックが大きな物語の対立軸として存在していたというのは誤りで、ロックは常に個人を自由にするために「そこで響いているだけ」なのだ。仮にロックが政治的に聴こえたとしても、その多くは結果的なものとして捉えたほうが良いであろう。ロックの本質は決して政治ではない。たとえそれが結果的に政治性を帯びようとも、である。

 

 とはいえ。明らかに政治や社会を意識して歌われたものもある。Radioheadの『Fake Plastic tree』、ジョンレノンの『imagine』、ピストルズの『God save the queen』など社会や政治を念頭に歌われた曲も数多くある。最近だと『うっせぇわ』などもそうかもしれない。ロックではなくとも欅坂の『サイレントマジョリティー』などもそのひとつとして数えられる。しかし、そのどれもが意図して歌われたものであることは留意すべきであろう。社会への風刺を歌ったものだけをロックだとして限定的に捉えることは、端的に言えばもったいないのだ。本来のロックンロールは社会の外、政治の外、法の外にあるものだ。それをむりやり政治的に位置づけるとするなら大きな物語とやらの対立軸となるだけであろう。すごく簡単に言えば、偶然そうなっただけとも言える。そのような対立軸上のロックであれば、ロックは死んだと言える。

 

このような話は文学は死んだ問題にも近いけれど、その理由を一言で言えば、まさに大きな物語が拡張しすぎた結果、個人の自由が失われたことにある。「自由という全体の規範」が行き渡り、それが支配的になると、社会の外側にあったロックや文学までも自由という規範が侵食することになった。そしてロックは死んだ。それが正確な認識だと思っている。大きな物語がなくなったからロックが対立軸として機能しなくなったのではない。むしろ逆である。自由という「大きすぎる物語」が、皮肉にも個人が自由でいることを許さなくなったのだ。ロックが死んだとするのであれば、それは社会の外側の自由(フリーダム)を許さなくなった政治的自由(リベラル)に原因を求めることができる。リベラルは政治思想であるため、一定の規範や道徳を自由と紐づけて考えている。自由には責任が伴う。それが正しいリベラルである。それは政治的に考えれば当然であるし、そうでなければ政治思想としては成り立たないであろう。しかしながらリベラルがロックの自由を規定しようとすると、政治的規範をもロックに紐づけようとし、結果的にロック本来の自由は失われることになる。一見すると相性の良いはずのリベラルとロックが相反する理由はそこにある。つまり、自由という大きすぎる物語を拡張し過ぎた結果、個人が個人でいるための自由=ロックは事実上死んでしまったのであろう。それは実社会やインターネットで起きていることにもかなり重なる部分があることはもはや説明するまでもない。自由な個人はリベラルに発見され、時に社会の表舞台から退場させられる。自由は自由として規定された瞬間に自由ではなくなる。それがリベラルの功罪だ。

こうした構造から考えるに、時に人々が「ロックは死んだ」と感じるのは、リベラルを内面化した私達の精神が無意識下においてロックを拒絶することに起因するのであろう。

 

こうしたリベラルと私達の構造は、前回記事でとりあげた朝井リョウさんの『正欲』にも書かれていることであるし、千葉雅也さんが最近ツイートしていたことにも接続する

ひとつのツイートだけを拾って意味を解釈するのは難しいのだけれど、千葉さんの普段 のツイートを見るに、リベラルが多様性を標榜し、マイノリティーを包摂しようとすることに強烈な違和感を覚えていることは想像に難くない。

自由とは、時に別領域で展開されてこそ自由である。それらをすべて政治的なものとしてジャッジすること自体が過干渉で、ベタに言えば余計なお世話なのであろう。千葉さんのように「政治的な正しさの判断を個人の嗜好にまで入れ込むこと」に違和感を覚えている人はかなり多い。そして、その違和感を見事に描写していたのが朝井リョウさんの『正欲』だった。

 

このような「自由と自由の相反」はロックスターと呼ばれる人の発言を見るとわかりやすいかもしれない。

たとえば、 マリリンマンソンは「あなたの曲を聴いて自殺する人がいるかもしれない」と尋ねられ、「そんなバカは死んで当然だ」と答えたり、「精液でも飲んでろ」などと発言している。トムヨークも「パパラッチは全員交通事故に遭って死ねばいい」と言った。リベラル的な正しさという基準で判定するならともにアウトな発言であるが、大事なのはこのような発言ができる「外の空間」がかつてはあったということであろう。もちろんこのようなある種の粗暴さは手放しで容認できるものではない。しかしながらこういう発言をしうる自由な場所が政治的な闘争とは別に存在していたことは確かである。そして、そのような空間があったからこそこうした発言が容認できていたし、そこにロックは存在できていた。政治的なレベルで発言の妥当性を問いもしない空間。ロックが歌っていたのはそのような非政治性だったのだ。

翻るに今の社会において、こうした発言が政治的自由たるリベラルのキャンセルカルチャーによってパージされうるのは一目瞭然である。すべてが政治的判断の餌食となってしまう。非政治的なものの存在が許されなくなると外の空間はなくなり、主体的自由は毀損される。もはやこの世界の条件的にマリリンマンソンのような発言を僕達はできないでいる。発言したとしても人々がリベラル的価値観をほとんど自明のものとして内面化してしまっているために、そのような発言をしても狂人としてしか見られないであろう。

こうした現象は最近ことさら話題になっている適応の問題にもつながる。情報化社会によって政治が市民レベルにまで侵食した結果、すべてが政治的に判断される世界において、個人はそこに適応するかしないかの二択となる。かつてロック(やそれを聴いていた人々)がそうしていたような主体的自由は政治的自由に侵食され、適応するかしないかのゲームが始まったのだろう。人々が主体として持ちうる自由は多様性が届く範囲のみで、その外にいることは難しくなった。多様性の内側において「精液でも飲んでろ」と言う自由はないことは周知の通りである。

このような状態を振り返るに、ロックが死んだと言われ始めた時期と人々の適応がはじまった時期は重なりはしないだろうか。

主体的自由は消え去ると子供が公務員になりたいと言ったり、損得勘定キョロ充と言われる人々が出てきたり、若者が暴走しなくなったり、物分かりのよい若者が増えたと言われた。このような適応の時代でロックはその存在感を失っていった。ロックが死んだと感じるのはこうした社会の趨勢と無関係ではないであろう。

客観的かつ政治的な適応によって自由に再配置されていく人々はかつてロックが歌っていた自由とはむしろ逆である。主体性を排除し、社会へと適応していく人々にとってロックは必要となくなった。そのような文脈で言えばロックは確かに死んだのだ。

 

こうした状況を鑑みるに、ロックは反権力ではなく、むしろ非権力及び非政治的なもの、あるは社会の外側の主体として考えられるべきであろう。

「ロックが非政治的である」と言うと「ロックは幼稚で無責任なものだというのか」と批判されそうであるが、そうではない。ある種の幼稚さや無責任さを持っているからこそ、個人を自由へと開いてくれる。ロックや文学は無責任なものだからこそ政治や社会から距離をとれるものとして機能する。村上春樹さんがエルサレムで「私は常に卵の側に立つ」と言ったけれど、それを無責任だという政治的批判とは別領域で展開されるもの、それがロックであり文学なのだろう。それを政治的なものとして権力なのか政治なのかそうでないかと判断することがそもそもの間違いである。仮にロックを政治的なものとして扱うのであれば、ロックは最初から死んでいる。そもそも政治的なものではないのだから。

 

ロックにかかわらずこうした政治的ジャッジを個人の内面にまで敷衍した結果、いまや誰もが適応競争に参加する事態となった。「僕達は適応できない」と言う弱者男性や、「男女平等に適応しろ」と言うフェミニズム。国への過度な適応を果たしている右翼界隈。そして多様性やメリトクラシーなどに過剰適応しているリベラル。あるいはもっと広く言えば都市に適応する都民、インターネット作法に適応するネット民、Z世代。

すべてが適応のもとに位置づけられる社会においてこそ必要なのがロックが歌っているような「社会の外の主体」であるのだけれど、最近になってそれは復活してきているような気もしている。『うっせぇわ』もそうであるし、若者に支持されているヨルシカも見事にこの社会の外側の主体を歌い上げている。

みなどこかで気づいているのだろう。適応などしていてもどこかでドン詰まることに。現実的には適応しないわけにはいかないのだが、適応とは時に極めて危険であり、社会や政治とは別領域の音楽や文学(あるいは友人や恋人)に身を寄せてこそ「戦う」ことができるのだと。

その意味でロックは死んでなどいない。政治や社会の外側で生きていくためのロックは復活しつつある。それはすごくポジティブなことだと思っている。

 

『正欲』感想

朝井リョウさんの『正欲』を読んだ。

マイノリティーとマジョリティー、多様性という言葉がとらえきれない世界、マジョリティーの存在的暴力、重力に負けた人の巨大な諦め、正でもなく性でもない生。爆弾のような小説だった。この社会の正しさの裏で密かに錬成されつづけているマイノリティーと呼ばれもしないマイノリティーの激情。僕達の想像の埒外の人々を文学によって投射することにより、同時に僕達の内面の醜さをも浮き彫りにする。衝撃的の一言であった。「読んだあとにはもう以前の自分には戻れない」という本の帯そのものな内容だった。

 

この社会、人間、男、女、そして、水。我々の社会がどのような螺旋を形成し、どのように連関しているのかを考えざるを得なくなる作品であった。

僕のように社会への懐疑論を書いている人にはドストライクの小説であったけれど、むしろこの社会に安住して日々を暮らしている人にこそ読んでもらいたい作品であった。この社会の当たり前がいかに暴力的なものたりえるかみたいなものは多くの人が獏として感じるものであるけれど、誰しもが抱える「得も言えぬ違和感」にたいし、輪郭を与え、肉づけることに見事に成功している。これは社会学などの分野では難しいのではないかと思う。文学だからこそではないだろうか。個人の内面を徹底的に描写する文学だからこそ、逆説的に今の社会の在り方を克明かつ残酷なまでに浮かび上がらせることができたのでしょう。読んでいない方にはものすごくおすすめです。

 

※以下ネタバレありです

 

 

 

 

 

 

 

 

個人的に好きだったシーンは大也と八重子の舌戦だった。八重子は大也に好意を寄せていて、ことあるごとに近づこうとするのだけど、異性にたいする恋愛感情がない大也はそれをうっとおしく思っていた。そのような関係の中で、お互いが所属するゼミの合宿を大也がドタキャンしようとするところに八重子が居合わせてしまう。八重子は大也を理解しようと努め、合宿に行こうと説得しようとするが、噛み合わない。そこから舌戦が始まる。八重子は大也のことをゲイだと勘違いしているが、それ以上のマイノリティーである大也は怒りを露わにし、八重子にたいして「勝手に人を理解したつもりになってんじゃねーよ」と言う。これまで蓄積されていたマイノリティーとしての苦しみがまさに八重子に向かって爆発していた。これだけでも衝撃的なシーンであった。しかし僕が個人的に感動したのがマジョリティーである八重子がそれでも大也を理解しようとすることだった。マイノリティーの人が苦しいと言えば、それは全面的に理解されるべきみたいな風潮がある昨今であるけれど、八重子はマジョリティーの立場で、「言ってくれなきゃわからないよ」という反論を展開する。大也から拒絶されようとも、「私のこともつながりのひとつとして数えておいてね」と言う。おそらく、筆者である朝井さんは多様性のもとにマイノリティーを放任する風潮をも揶揄していたのではないかなと思っている。マジョリティーとしての対話の重要性を示唆していた八重子の反論は個人的にすごく印象深かった。

 

作品は主に、水にたいして性的な欲求を抱く人々とそれを取り巻く「私達」によって展開されていく。

「人間は、いつもセックスの話をしている」。しかしそうではない人々がいる。セックスの埒の外にいる人間はこの世界の住人ではない。そうした疎外感のもとに、水フェチである大也、夏月、佳道の三人はそれぞれに孤立した生活を送っていた。正常な社会は、正常という圧力を以てして「そうではない人々」に烙印を与えることになる。水フェチという性癖は、LGBTQといった多様性によって包摂されるものではない。多様性という言葉が多様な個人を包摂しているかのように偽装された社会にたいして三人は違和感を持っている。そうした描写は三者三様な人生の文脈において、まさに呪詛として散りばめられており、それが社会にたいする痛烈なまでの皮肉になっているのだ。その言葉のひとつひとつが爆弾として炸裂している。

「自分が想像できる"多様性"だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」

「3分の2を続けて選ぶ確率が9分の4であるように多数派にずっとたち続けることは立派な少数派である」

「恋愛感情によって結ばれた男女二人組を最小単位としてこの世界が構築されていることへの巨大な不安が、そっと足のつま先に触れるのだ」

 

 

こうした社会からの疎外感情のもとでそれぞれに生活していた三人であったが、ある日を境に、夏月と佳道が巡り合うことになり、同じ性癖を持つ同士で「生き延びるために手を組みませんか」という合意のもとに生活を共にするようになる。夏月と義道による生活は一見すると不安定な繋がりだった。お互いがお互いを求めているわけでもない契約としての同居生活。恋愛感情のない男女による同居は「私達」の側から見ると不合理な生活にも見えてしまう。しかしその不合理な繋がりだからこその絆が社会への皮肉として最後の最後に炸裂するのだ。

作中後半で夏月と佳道は水フェチの人々で繋がりあおうと思い、SNSでオフ会を開催することになる。公園で水遊びをするという。そこに大也なども参加するのだが、そのオフ会の最中に裸の児童と一緒に水遊びしていた写真が警察に見つかり、児童ポルノ所持で捕まることになる。誤認逮捕である。その場にいなかった夏月は、逮捕された佳道の同居人(妻)として警察へ事情聴取に訪れるのであるが、夏月は聴取の場で超然とした態度を見せる。児童ポルノ所持で夫が捕まったというのに妻は落胆するわけでもなく悲しむわけでも怒るわけでもない。「ただそこにいるだけ」であった。それもそうである。夫の佳道は「水が好き」なのである。それにたいして、聴取にあたっていた啓希(正常側の主要人物)は驚きを隠せないでいる。普通、児童ポルノ容疑で夫が捕まったのであれば、「そういう反応」を見せるはずだが夏月はただそこにいるだけだった。そして夏月は夫である佳道にたいする伝言として「いなくならないから」と言い残して作品は終わる。

この最後のシーンは、私たちの普通の繋がりがいかに脆いかを象徴したシーンだった。夏月と佳道の「生き延びるための同居生活」は一見すると不安定なものだけれど、通常の恋愛ではないからこそ、その繋がりは普通には切れないものになっていた。夫が児童ポルノでつかまってもそのつながりは揺るがない。そのつながりが逆説的に、普通の恋愛がいかに脆く頼りないものであるかを浮き彫りにし、私達への痛烈な皮肉になっているのだ。

児童ポルノ所持で逮捕されたぐらいで離婚するのが私達である。普通の感覚としてそれは当然だと思うけれど、そのような当然の感覚が、当然だからこそ当然以外を排除する方向に、時に行きかねない。

「当然以外」のことを僕達は理解できないし、あるいは想像することさえできない。児童ポルノで捕まった夫婦が離婚しないことも、水にたいして性的な興奮を覚える人がいることも僕達は理解できない。すべてが想像の外にある。それでも僕達は多様性などとのたまい、秩序を整えた気になって気持ちよくなっている。それが時に、いかに暴力的かも知らずに、である。自分が想像しうる範囲などたかが知れている。世界には思いもよらない考え方や性癖、文化を持って生きている人々がいる。それにたいし「こちら側のものさし」ではかることそのものが暴力であり、多様性という言葉もその例に洩れない。この社会の裏に眠り続けている不発弾は厳として存在するのであろう。それは社会によって漂白化され、多様性というお墨付きによって疑似的に包摂されている。その爆弾がいつ爆発するのかは知る由もないけれど、すくなくともこの社会を理解可能なものとして勝手に再配置することはやめたほうがいいであろう。そのようなことをした場合、「想像の外にいる人々」を見ることさえできなくなってしまうのだから。Lはここ、ヘテロはここ、Bはここ、弱者男性はここ、女性はここといった具合にカテゴライズすることは時に非情な暴力となってしまう。社会はカオスであればこそ社会であり続けられる。そこには本来、言語化しうるものなど、ないのかもしれない。

ぜんぶ資本主義が悪い~『人新世の資本論』を読んでの所感~

斎藤幸平さんの『人新世の資本論』を読んだ。

資本主義は限界を迎えており、格差や気候変動といった問題を資本主義による経済成長によって解決するのは、結論としてもう無理であると書かれていた。トリクルダウンのような無限の経済成長を前提とした格差の解消は失敗に終わり、資本の運動に身を任せて「成長」を続ければ世界が良くなるといったものは虚妄や神話に過ぎない。脱成長を目指し、社会のシステムを抜本的に再構築する必要があると書かれている。そのためにコモンズ(公富)によるレジリエンスが必要であると。ピケティなどの主張にも繋がる本だった。最近だとサンデル教授のメリトクラシー批判にも同様の主張が垣間見えるけれど、ようするにもはやこの世界は「公正」ではないのだとあらゆるところで書かれている。それが結論なのでしょう。いまやそれは当たり前の前提として共有されるべき話になっており、それをもとに政策を打ち出しているのがバイデン政権となっている。

 

この世界はもはや公正ではない。上位10%の人々が出す二酸化炭素排出量が世界の半分を占めており、富の格差に関してはそれ以上で、尋常ではないものになっている。それでも我々は労働者として経済活動を余儀なくされている状態を見るに、公正ではないということは肌感覚としても感じるものであり、論を待つ必要すらない。そういった「実地的感覚」がまさに斎藤さんの本が売れている理由でもあり、ピケティやサンデルの主張が支持されている土壌となっている。

ありていに言えば資本主義というOSはもはや限界なのである。

 

 こうした資本主義の問題は、ありとあらゆるところに溢れかえっている。再分配や成長といった経済的側面に限らず、資本主義による「査定」によって我々の人間性が歪められている場面は数知れない。

 たとえば最近ネットで話題となっている弱者男性問題も、そのほとんどが資本主義の問題と言って差し支えない。恋愛が取引となっていることは以前にも書いたけれど、そのような市場においては男性が「資本的能力」=収入や貯蓄といった側面で評価される事態となっている。このような事態は資本主義によるものだと言って間違いない。資本主義をネオリベ的に放任すれば格差が広がるのは自明であるが、男性の価値が資本価値と連動した社会においては、そうして広がった格差がそのまま男性の価値に跳ね返ってくることになり、そこで弱者男性問題が生まれる。こうした観点から見るに、弱者男性問題とはつまるところ資本主義の問題と言って間違いないであろう。

 あるいはこうした格差によって結婚できない個人が増えて少子化になっていることも勘案するに、少子化も資本主義が抱える問題だと言える。

さらに言えば、こうした資本格差の問題は男性に限った話ではない。女性のジェンダーギャップ指数や産休などの問題も資本主義によるものだと言える。単純な収入格差の問題にしても、言ってしまえば貨幣経済が原因と言える。資本主義的な競争において体力的に劣っている女性のほうが不利であることは誰しもが知っていることであろう。そのような資本主義のルールであるからこそ、女性にゲタを履かせようという社会運動=アファーマティブアクションなどが存在している。女性にとって資本主義は原理的に不利なルールだと言える。

 

あるいは、もっとベタに生活レベルで見た時にも資本主義的作法とでも呼ぶべき「 儀礼性」に僕達は支配されている。儀礼的無関心によって個人はバラバラになり、契約上適切な条件のもとに人間関係が成り立っているために自己責任社会となっている。人間関係すらが資本主義のもとに繋げられている。そのために、他者に踏み込むことが容易ではなくなり、すべての関係が目的的なものへと変化していく。それが資本主義による適材適所という原理であり、その意味で、適材である=人材であることが求められる。生活レベルにおいてもありとあらゆる場面で僕達は資本の運動の中に押し込まれていくのである。

 

斉藤幸平さんは『人新世の資本論』冒頭に「SDGsは大衆のアヘンである」と書かれている。気候変動において本来見るべき問題(資本主義)を直視しないで、SDGsという一時的な痛み止め的に過ぎないものに逃げ込んでいる意味で、それをアヘンだと呼んでいる。このような構造はSDGsに限ったことではない。痛み止め的な「仮の処置」によって本来ある問題を先延ばしにしていることは、たとえば我が国の年金などもそうであるし、少子化もなにもかも、すべてを痛み止め的に処理することで、未来へ負債を積み上げている状態となっている。

つまるところ資本主義は痛み止めによって延命されつづけているだけであり、その痛み止めの副作用とでも呼ぶべき問題が各所で噴きあがってきている。結論としては資本主義はすでに限界であるため、抜本的に見直さなければならない。という論旨でマルクス資本論に還ることになる。それが斉藤幸平さんの著書で書かれていることだった。

 

ゆえんすべての問題は資本主義と連動している。資本の爆発的な運動によって環境が破壊されたことを筆頭に、年金、社会保障費、少子化、格差、政治の腐敗、ポピュリズムSNS、弱者男性女性問題などすべてが資本主義と連関したものであると言って差し支えないであろう。

それでも私達は資本主義をやめないどころか、完全に内面化してしまっているし、資本主義を自明のルールとして採用している。資本的に勝利した人間が実権を手にし、以下すべての人民及び労働者はその下で抜きんでたいと欲望し、それがさらに資本運動を加速させ、さらに資本家に富を集積させていく。もはや労働をしても抜きんでることはないという解答(r>g)がピケティによって提出されているにも関わらず、それでもなお我々は「無垢の歯車」としての労働を条件的にやめることができない。そのような条件下において資本的に不利な女性が資本を持つ男性に群がることは当然の事態であるし、そのような構造である以上、男性はさらに加速度的に資本の運動の中に埋没していくのである。 

こうした「資本の連関」にたいしてアヘンとして売れているのが慰め合いとしてのSNSであるし、現実逃避としてのフィクションとなっている。ニーチェは近代の大衆のことを「畜群」と呼称した。近代は大衆の時代であり、大衆はブロイラーとして飼育されている家畜同然であり、偽装された神(ここでは資本主義や貨幣)のもとに平等であり、その意味で大衆は「牧場の幸福」に耽溺していると書いている。そうした環境の中にあって、人は人を超えるしかないという意味で超人という概念を書いた。

こうした牧場的幸福がまさに斉藤さんが指摘しているアヘンそのものであり、資本主義下における畜群として我々は飼育されていると言ってしまっても良いのではないだろうか。もはや資本主義が限界であることは自明の前提として共有されるべき話となっている。個人単位での戦略ではいまだに、ニーチェ的な文脈において「超人化」することが最適解であるかもしれないが、個人が超人となり幸福になったとしても資本主義の問題は温存されつづけるままであり、何も変わりはしない。それは超人的に生きている現代のリベラルエリート集団を見れば是非もないことである。資本的に勝った人間は大衆が畜群であることを望む。革命など起こされては困るので牧場の幸福にいそしんでアヘンを打ってラリパッパしていてほしいのだ。

そういった意味で、リベラルエリートはSDGsといったアヘンに大衆を逃げ込ませているのであり、資本主義そのものが抱える問題に着手することはない。あったとしてもそれはヒューマニズム的観点による再分配に留まるものとなっている。

 

この世界はすべて資本と連動し、繋がれている。それがありとあらゆるところで問題をひきおこしている。それでもなお僕達は資本主義をやめようとはしない。あるいは僕自身もそうである。資本主義をやめてしまえばいいなどと大胆な提言をできるとは思っていないけれど、それもまた畜群的な無力感に支配されているだけなのかもしれない。

しかしながら、すくなくともこの世界が資本主義で覆われていることは自覚して生きていくべきであろう。そうでなければ、それがアヘンであることも気づかずにSDGsなどという観念の雑草(西部邁)を食みながら牧場の幸福に囚われたままになってしまうのだから。