イラン戦争が始まってから一ヶ月が経とうとしていてどう考えたものかよくわからないでいた。イラン前政権下では反政府デモに参加した3万人余りの国民をイラン政府が虐殺していたので誰かが止めなければならなかった。ただそれが他国からの爆撃というのは明らかに国際法に反しているため安易に賛同できるものではないというのが大方の見方ではないかと思う。実際にトランプによるイラン主要閣僚の殺害に賛同する人はイラン国民をはじめ少なくない。手段はどうあれアメリカによる介入はイラン国民に望まれていたものなのかもしれない。しかしながらその結果、ホルムズ海峡は閉鎖され、国際情勢はより難しいものになっていき、国際法が機能しない世界へ近づいていくことになった。
あの爆撃から一ヶ月経ってトランプは様々なことを言っている。そのほとんどがその場しのぎや口からでまかせの単なる嘘で報道をまともに受け取るのがばかばかしくなるものばかりである。そうした報道を見ていると、老人の虚言に付き合わなければいけない虚脱感と戦争の悲惨さが釣り合っておらずどうにもしっくりこない。戦争はその事態の重大さゆえに真面目に考えなければいけないと思っていたが、最もまともに考えなければいけない人間が何も考えていないように見える。いったいなんなんだこのズレはと思ってしまうのだ。
それもこれもトランプが再選したことに直接の原因がある。再選した理由としては「リベラルが嫌い」というのがあるのだが、嫌いという幼稚な理由でトランプを当選させた結果が「このザマ」である。
リベラルの欺瞞はいくつもあって多様性や進歩史観によってSDGsのような巨大な物語をつくり、上から目線で人々に道徳を説く啓蒙主義や知性主義によって市井の人々をないがしろにしてきた。その結果、リベラルは人々から傲慢とみなされ、支持をなくし、選挙で負けてきた。そうした分析は日本の選挙でも定番だ。日本でもアメリカでも、あるいはヨーロッパでも同じことが起きている。リベラルは支持を失った。そして右派政党が台頭してきてトランプの支持母体であるMAGAに代表されるような自国ファーストの動きが先進国でも見られるようになった。とにかく「リベラルは理想主義的でエリートによる統治機構そのものであっていけ好かない」と考える人が近年増え続けてきた。ここ10年の動きを見ているとリベラルがそのような評価になるのもよくわかるし、僕もリベラルを批判してきた一人ではある。
しかしながら、その結果が「このザマ」である。
リベラル社会への爆薬としてというカタルシスによって愚かなリーダーを国のトップに置いたら国際法を無視して戦争を始め、サプライチェーンを破壊し、報復として他国が巻き込まれ、自分で始めた戦争にも関わらず落とし前をつける気もないまま勝利宣言だけは声高にアピールする後期高齢者が誕生しただけだった。
このような惨状を見ているとリベラルの傲慢さはトランプの愚かさよりもマシだったと思ってしまう。もうそのように結論を出してしまって良いだろう。事は単純だ。アンチリベラルは成功した。しかしながらその結果、女子児童が大勢死んだ。戦争という事態の重大さに比べればリベラルが嫌いという感情のなんとくだらないことか。リベラルの欺瞞はわかる。しかし今思えばそれは政治として飲み込むべきものだったのかもしれない。我が身を振り返ってそう思う。
アンチリベラルだけではない。トランプを支持する加速主義者や新反動主義者も同じである。社会構築主義的に民主主義を再構成しようとし、スクラップ&ビルドをするためにトランプを支持した結果、大勢の人が死亡した。民主主義は機能していないという話で止まるのであれば理解できるが、それ以上先にいって民主主義を一度壊して再構築しようとする加速主義者は今回のような犠牲が出ることを想像できなかったはずがない。愚かなリーダーを選んで社会全体に「気づき」を与えれば人が死ぬ。それを支持する加速主義者は戦争で犠牲になった遺族からの「まずお前が死ね」というシンプルな問いに答えることができない。
ポピュリズムの話だって似たようなものかもしれない。市民の素朴な好悪感情、そこに民主主義の票田がある。政治家はそうした有権者のニーズに答えることが求められる。それがポピュリズムの論理である。実際にMAGAはラストベルトの大衆感情を集めることで支持母体として大きくなり、大衆感情からwokeした左派は支持を失ったことでポピュリズムは民主主義の条件となった。そこにSNSが加わったことで大衆の反応に敏感な政治家が支持を集めるようになった。しかしながらその結果として政治は複雑なものという前提は失われ、大衆の反応に聡いその場しのぎの嘘をつく人物がリーダーとして選ばれるようになった。そして人が死んだ。
リベラルが嫌いという話だけに留まらず、加速主義やポピュリズムのような嫌いという感情を政治的に正当化する言説が出てくるようになったことでその正当性にあぐらをかく形で人々は政治を政治として捉えることがなくなり、感情的な判断をしても良いんだと考えるようになった。政治はその専門性を失い、素朴な大衆感情を出力するだけの装置となった。
右も左もその地位を失い、民主主義は大衆のものであるという大上段の前提だけが残った。結果、「選挙に行きましょう、以上終了」というのが民主主義の形となった。政治参加だけが歓迎され、どの政党を選ぶか、どの有権者を選ぶかという判断は民主主義という聖域に守られているため、有権者は投票に責任を感じることはない。また、間違えることもない。つまり無謬である。個々人の投票行動が間違いであることはない。しかしながらその投票によって間違ったリーダーが選ばれることがある。その結果、遠い国の誰かが死ぬ。
思い出すのが丸山眞男がインテリと大衆の中間にある人のことを亜インテリと呼んでいたことだ。インテリほどの体系的な知識を持たず、耳で知った知識を話す人のことを亜インテリと呼んでいたようなのだが、亜インテリの是非はともかくとして当時はインテリを目指す大衆が一定数いたのだなと思ってしまった。今は大衆がそのまま大衆でいることが肯定される。けれどかつては違った。大衆のままでは駄目だと考える亜インテリが昔はいて彼らがキュレーターとして大衆に政治を説く役割を担っていたのだろう。そうした人々の自発的な政治性の輪の中で床屋政談のような議論する場所がつくられていった。そのような場所で考えるきっかけをもらったりと、動機づけが今より豊かだったのだろう。
今は情報化社会になって知識にアクセスする難易度は下がったけれどなにかに動機づけられることやコミュニケーションの中で自発性を獲得することは難しくなった。ネットを見ることは勉強の域を出ず、その勉強も誰かがPVを稼ぐためにつくった釣りを回避しなければ効率が悪く、動機づけに至ってはネットを見ることはほとんど役に立たない。かつては検索すればよくわからないサイトが引っかかって知らない考え方に触れることができたけれど今はGoogle検索をかけても商業サイトがトップに表示される。SNSもレコメンド機能によってエコーチェンバーが強化されるだけである。
ようするにかつてのような亜インテリと大衆が入り混じり話し合うような床屋政談のほうが政治的議論としては生産性が高いのではないかということだ。そこでは人の話に刺激をもらうことで動機づけられ、まったく知らないような考えに触れることがあっただろう。イレギュラーな他人と話すことが最も生産性が高い。それは今も昔も変わらないのではないかと思う。
すこし話がズレてしまったけれど書きたいことはシンプルで「愚かなリーダーをトップに据えると実際に人が亡くなる」ということ。その政治の重大さに比べればリベラルが嫌いという判断は幼稚なものだったと我が身を振り返って思ってしまう。リベラルに向けられる傲慢なエリートは現実が見えていないという批判はそうなのだと思うけれど、大衆感情はそもそも政治を政治として捉えずある種のカタルシスによって政治家を選んでしまう。その感情にお墨付きを与えたのがアンチリベラルであり新反動主義である。
リベラルの問題点は様々あると思うけれど、戦争の悲惨さを伝える報道を見るにつけ「できれば人が死なない世界を望む」という最もプリミティブな判断に帰っていかざるを得ない。
「議論によって仇敵をやりこめること」「右左の陣地争い」「言ってはいけないことを直言して承認を集めること」「うまく立ち回ってプレゼンスを高めること」
これらがいかにくだらないことかを突きつけられた一ヶ月だった。
日本ではまだアメリカほどの分断は起きていない。しかしながら早晩アメリカのように愚かな人物をトップに据えるようになってもおかしくはない。そうならないよう「政治の重大さ」というシンプルな問いを今一度考える時なのではないかと思う。