メロンダウト

メロンについて考えるよ

虚無と化したインターネットでそれでもブログを書いていく

前回の記事を読んでもらえればわかる通り、もうネットは虚無であるみたいな感覚に支配されていたのでブログを書く気力が湧かなかったのですが、このままにすると放置しかねないのでちょっと書いていこうと思います。

炎上クリエイターの増田がはてなにあがってきて読んだけれど、いよいよもうまともな議論ができる場所ではなくなってきてるんだろうね、ネットは。

関連して白饅頭さんや東浩紀さんも同じようなことを言うようになってる

www.youtube.com

 

炎上クリエイターやネットニュースの件に関してはクリエイトしてもしなくてもたいして変わらないんじゃないかな。もともとネットで出回ってる情報の9割(特に政治的なことに関して)は影響力のある人から発信されるもので、市民はそこに賛意を示すだけになっていて、その情報がどこからきたものなのかは、はっきり言ってしまえばどうでもいいんですよね。

炎上目的のニュースにしろインフルエンサーの発言にしろたいして違いはない。キノコの山とタケノコの山程度の違いでしかないわけで。市民の声を拡散してインターネットが民主主義をアップデートすると言われてからもう10年以上経つのかな。実際はメディアやインフルエンサーの釣り針に引っ掛けられて大漁のPVを集めるだけの「数字」=「いいねを押す機械」と化しているのが僕達であり、そしてその数字を集めるのに躍起になっているのがインフルエンサーが支配するいまのインターネットとなっている。

僕達はそれに釣られてキノコの山とタケノコの山のどちらが美味しいかなんてことをいつまでもやってて、ようするにすべてが虚無なんだよね。いまさらすぎる話で、たぶん3年前ぐらいにも同じようなことを書いたと思う。

 すべてが数字に収斂していくのは昔から変わらなくて、昔で言えばアフィリエイトサイトのSEOやコピーライティングにアルファブロガー、アルファツイッタラーが今のYoutuberやインフルエンサーに変化しただけで、ネットの構造そのものは変わってない。つまるところ提供されたプラットフォームにいかに戦略的に適応するかのゲームをネット民は一生やらされていて、それが政治的議論をも飲み込んでしまったのが今起きていることなのでしょう。

なので何をいまさらという感が強い。古来からしてネットは数字に支配されていて、たとえば自分のブログみたいな「市民の声」が政治的影響力を持つことは永久にない。そのようなインターネットは昔から変わらない。インターネットは市民が声を上げる権利は保障されていても、それが影響力を持つかと言われたら昔からなかった。数字および数字を持つ人間の指先三寸ですべてが先導されていくインターネットが市民の声を拾うことは事実として無いのである。

このへんの虚無感みたいなものがネットの表には表れてこないんですよね。理由は明白で、数字を持っているインフルエンサーにとって見れば今のような状態のほうがむしろ好都合ですらあるのでネットそのものを批判しようとはしない。それは炎上クリエイターであるメディアも同じで、見せかけの道徳に発火するだけの市民は数字として計算しやすいので資本的に望ましいのである。だから誰も虚無だとは言わない。

しかし僕みたいな泡沫ブロガーから見える景色はだいぶ違う。インターネットは政治的な意味で言えば昔から虚無そのものである。このへんの認識はいわゆる議論めいたことを書いているブロガーが共通して感じるものなんじゃないかな。穏当な記事を書いても読まれることはほとんどなくて、ちょっと違うことを書くと炎上してPVが伸びる。それに味をしめたブロガーが誤って炎上記事ばかり書いてしまうようになることもある。

つまり炎上させなければ読まれず、炎上させなければ市民の声としての機能を果たさない以上、炎上させるのが戦略的に正しいとなっている。そうでなければ個人の意見になど誰も興味がないわけで、ようするに炎上させなければ虚無で、炎上させても虚無なんので市民レベルで言えば政治的議論におけるインターネットはどちらにしろ虚無に着地する。もちろんブロガーと言っても意見を書いている人は限られているので、日常を綴っているブロガーはその限りではないけれど、意見や議論といった事に関して言えばもはや虚無に飲み込まれるしかない。そして意見や議論が虚無である以上、市民がそれを行う「メリット」がないので無党派層が多くなり、意見や議論の結果としての政治も虚無に飲み込まれていく。そしてその無党派層の数を論拠にして数をあつめるインフルエンサー

「なぜ市民は投票に行かないのか、このままでは自民党の一党支配ではないか」

と批判するのをここ10年以上やっているのがネット上の政治的議論となっている。

つまりネットで政治に関して議論するというのは市民レベルで見た時には、もう数字をいじくりまわして党派性に酔う気持ちよさを追求するだけの遊びでしかなくなっている。影響力を持っている人はそれがわかっていないのだと思う。なぜ僕達が政治をやらないのか、議論をしないのか、なぜ無党派層が多いのかを説明すると議論をしてもメディアやインフルエンサーが行使する数字に圧されて実効的な意味を持たないほどにネットが開かれてしまった以上、議論をすることや投票することの価値が喪失していて考えることすら「馬鹿馬鹿しい」からである。よく無党派層のことを平和ボケという誤った認識をしている人がいるけれどそうではない。民主主義下における自らの票の価値がネットの動員という数と比較して価値がなくなっているので、単に政治が馬鹿馬鹿しくなっているだけである。

しかしこういうのも数を持っている人から見れば好都合な話になる。いいねを押さない人間を必要としないインターネットが虚無だと考え、議論から退出していく市民が増えれば増えるほど党派性に縛られた勢力及びそれを先導するインフルエンサーの影響力が強くなる。

じゃあなぜおまえはこんなブログを何年も書いているのかという問いがきそうなので答えておくと

そういうのが馬鹿馬鹿しいと内心で思いつつも、たまにこうやってブログを書くのは自分にとってみれば思考整理であり、それ以上にもはや「業」なんですよね。

西部邁『虚無の構造』がインターネットを語るうえでかなりの名著だった件

亡くなられた西部邁さんが書き残した『虚無の構造』を読んだのだけど思いがけずインターネットのことについて書かれていたので紹介がてら何か書いてみたい。

著書の中ではインターネットという単語すらほとんど出てこない。著書の主題は虚無、ニヒリズムについてである。ニヒリズムがいかにして我々の生や主体を覆っているのかについて書かれている。その構造が昨今のインターネットを取り巻く「雰囲気」を見事に説明しているのだ。ほとんど予言していると言っても過言ではない。

 

はじめに我々の生がいかにして虚無にさらされているのか著書の内容を紹介してみたい。

インターネットでも実生活でもそうだが、生き方や価値観が相対主義という地平にさらされると自己を確立することが難しくなりすべてが平面化されていく。その意味で自己の確立をみな諦めてしまう。そうした自己の喪失=消極的ニヒリズムに社会は覆われていると書かれている。相対主義とは最近ことあるごとに言われている多様性などがそれにあたるかと思うが、自分と他者の価値を比較することをせずにすべては個人の経験による偶然に過ぎないと結論づけ、価値の確立や比較を放棄する様だと著書では書かれている。普通、自己を考える時には他者との比較のうちに自己を見つけざるを得ない。しかしそれが許されない。男性と女性を比較することもできず知と無知を比較することもできないどころか善悪を語ることさえも時に許されない。すべては相対であり他人には他人の価値があり自分には自分の価値があるのだという理想的空想の中に生きているかぎりニヒリズムからは逃れようがない。それが相対主義によるニヒリズムであり、他者を通した価値の模索をあきらめて自己を自己の中に頽落させれば虚無に飲み込まれるしかない。価値を語れなくなった時にすべては無である。

というのが著書の主題であるように、僕は読んだ。

相対主義 - Wikipedia

 

この話がなぜインターネットの話に接続するのかと言えば相対主義こそがまさにインターネットで語られる「正義」と完全に合致しており、その正義ゆえに人々がニヒリズムへ誘われるという構造になっているように読めてしまうのだ。

たとえば著書に以下のような箇所がある。引用したいけれどページ数を忘れてしまったので覚えている範囲(というか読書をしてる時に書くメモの内容)で、およそ次のようなことが書かれている。

統計的に水平化された他者の価値のうちに自己を投射するのは極めて受動的であるのに、それが能動的な社会へのかかわり(アンガジュマン)かのように偽装されているのである。

適応の作法とでも言うべきものであるが、僕たちはほとんどが実際のところの差別だったりを知らないで生きている。とりわけ人種差別には日本人のほとんどが無縁なまま育ってきた。であるにもかかわらず、誰かから言われた知識や価値観および理性によって差別はいけないと僕たちは考えなければならない、とされている。差別のようなものであれば理性が支配的であってもかまわないし、そうあるべきだが、しかしもっとベタなもので考えればどうだろう。相対主義によって社会適応しすぎた結果自己を見失い虚無に飲み込まれている人間は思いのほか多いのではないだろうか。理性的な選択として恋愛しない人であったり、もっと一般に加害性そのものへの強烈な嫌悪がこの社会を覆っているのは間違いないことであり、その意味で無=虚無が正義となっているのがネット的言論の源泉にある。

 

こういった「虚無の理性」によって人々の思考が均されていくと状況適応主義とでも呼ぶべき判断でしか人は物事を判断できなくなる。状況に即した意見、状況に応じた振る舞いを要請され、それに従うことで人格的な主体は失われていってしまう。その意味でインターネットの理性主義、状況適応主義、世論主義が支配的になればなるほど人々は自己を失い、もっと言えばニヒリストになるしかないのである。

こうした構造には続きがあり西部さんは次のように書かれている(れいのごとくページ数を忘れてしまったのでおよそです)

適応主義を実践すると価値分裂症になり人格的一貫性は失われニヒリストになるが、これにたいする対処方法は「忘却」である

社会の価値基準がめまぐるしく変化しようとも我々は忘却することで時代にコミットし続けている。インターネットのそれと完全に合致する言説のように僕には見えてしまう。

ネットの人々は忘却することで歯車を回し続けている。ツイッターはてブもブログもマスメディアも過去の投稿が見られることは極めて稀である。インターネットは忘却することでその虚無を埋め合わせ、めまぐるしく回転しつづけている。

このような事態を西部さんは「記憶喪失」と書いている。人々は記憶をなくすことで虚無の記憶をデリートしつづけているのだと。それにつづけるかたちで、記憶喪失になると人々は不安になると続けられている。そして不安をなだめるために新奇の情報に触れようと躍起になる。さらに記憶喪失の人間ほどニヒリズムに侵されているため、より政治的な行動をするようになる。と結論づけている。

こうした言論はまさにネットそのものである。幸福になった人間が政治について語ることをやめるというネットの風景そのものだ。最近も似たようなツイートがされていた。

 

 

また、西部さんはつづけて技術的なことについても触れており、以下のように書いている。

現代は事物の技術的連関による革新を加速させることでその不安に目くらましをかけている。不安という大海を漂流しているニヒリストはその技術的革新が高度情報化社会による希望のゆらめきだと勘違いしている。光が揺れているのではなく揺れているのは不安な海を渡っている自分自身だと気づくこともないままに。

これも新奇の情報に触れようと躍起になるニヒリズム的な不安の埋め合わせに近いものなのだろう。

 

ようするに相対主義的な価値分裂症により自己が無くなると適応しか残るものがなくなるけれど、適応とは不安の裏返しに過ぎず不安をなだめるために、より強く適応しようとする。それは技術であったり、情報であったり、社会であったりするけれど、それらは自傷行為でしかないのだと。自分自身のことを鑑みるにあまりにも正鵠を射すぎているような気がしてしまう。

 

こうした虚無の構造に我々はあまりにも無自覚ではないだろうか?僕自身もそうであるが、あまりにも他者や社会というものを杓子定規として持ち出してしまいがちである。差別を反対するにしても僕たちは自分自身の言葉を持っていないのでどこかからひっぱってきた価値観をもって反論する。しかしそれは誰かの言葉の引用に過ぎない。僕たちがやっていることはニヒリズムの断片を言外にまき散らしているだけである。僕たちはことあるごとに多様性だヒューマニズムだ絆だなんだと言っているけれど西部さんに言わせればリベラルの言う多様性やヒューマニズムは表玄関に飾る表札に過ぎず、その裏で鎮座する内実たるニヒリズム取り繕っているに過ぎないのである。

 

こうした思考(自分自身の経験よりも先だって他者の価値を引用する)のことを先験主義と著書では書かれているけれど先験的な思考がいきすぎると実在も当為(なすべきこと)もなくなり、自己が完全に破壊されてしまうことを西部さんは次のように危惧していた。

我々は相対主義や先験主義によるニヒリズムにより実在について想うことを忘れ、当為について考えることを禁句とした。これによりニヒリズムは加速する。

なぜそれが差別なのかを語れないインターネットの在り様と完全にリンクしているように見えてしまう。僕たちは考えることをやめた。自己についてであれ自己と関連した当為であれすべては相対に過ぎず個人は個人なのだという結論にすべてが吸収されていくのである。そこには自己や生にたいする戦慄もなければ他者への緊張感もなく、すべては平面化されていく。人々は個人でありながらもテクノロジーのうえにおいて緩く繋がり、本来の意味の孤独を忘れている。

これに関してp57~58に次のように書かれている

 人々のかかわりは、その本来的な相としては、あたうかぎり希薄になっている。それにもかかわらず彼らは群をなして動いている。テクノロジーおよびシステムが彼らにグリゲアリアスネスつまり群居性を与えているのである。彼らの表情は非本来的な相貌を示している。つまり技術的体系の上に張りつけになったものに特有の、孤立感と寂寥感を見せつけている。しかも、その孤立と寂寥の模様が彼らにあって、同一なのだ。彼らは、「問い」という孤独な作業をなすことをやめたのである。

……[略]……

「生」に肉迫するには、「生」を凝視しなければならず、「生」を凝視するには「生」から距離をとらなければならない。そして、そこに孤独の感覚が生まれる。世人・大衆は孤独を知らずに、たとえば自由・平等・博愛といった観念の雑草を食みながら「牧場の幸福」(ニーチェ)を楽しんでいる。しかしよくみれば、彼らの表情には、本来は自分らのものでないはずの群居性になぜ自分らは従っているのか、という不安が漂っているのである。

 

この文章が特に耳が痛い話だと読んでいて感じた。というかまさにインターネットのことでしかない。問いという作業をやめてすべて検索する人種が僕たちである。しまいにはライフはハックできるということまで言い出す。そして判を押したように誰もが自由や平等を叫び、当為について考えることを禁句とし、従わないやつを理性の炎で燃やしていく。

インターネットを俯瞰するにはかなりの名著だと思う。おすすめです。

しかし西部さんはすごいよ。

「観念の雑草」て、どうやったらそんな言葉が出てくるようになるのだろう・・・

たぶん、というか絶対に自分には一生無理だろうな(ニヒリズム

森喜朗の発言を批判する人々による老人差別のほうが深刻だ

なんかまたこういうタイトルにすると逆張りとか言われそうだな。

森元総理が女性蔑視発言をして批判されている。

問題となった発言は「女性がたくさんはいっている会議は時間がかかる」となっている。公務に携わる人間としては論外だけど本人は何が問題かわかってなさそう。

この発言は後に続く文章に「~から女性は会議にいれないほうがいい」となり政治の現場に女性はいらないという主張に接続するから問題発言となる。

この発言にたいして思うことはそれだけで、トップにたつ人間としては不適格だとしか言いようがない。もう政治にたずさわるのはやめたほうがいい。以上終了と思っていたのだけどこの発言にたいして高齢者を持ち出して論を展開するとんでもない増田があった。

老人に価値観アップデートを求めすぎるのもなぁ

賛同するコメントが多いけど完全にミイラ取りがミイラになってる。なんで誰も批判しないのこれ。

老人は価値観をアップデートできない(ので政治から退出するべき)

女性は話が長い(ので政治に参加すべきでない)

のふたつはまったく同じにしか見えない。

個人の資質として政治に参加すべきでない老人もそりゃいるだろう。森のように。それとまったく同じ論理でもって政治に参加すべきではない女性、男性もいる。至極当たり前の話でしかない。政治的資質は個々に判断するべきであって、それを年齢や性別に求めることは完璧な差別である。

老いは政治的資質を判断する材料として持ち出してもよく、性別を持ち出すのが差別だと言うことは矛盾している。おそらくこういった矛盾を矛盾ではないと考えている根拠に「老いると判断力が鈍る」があるのだろう。

しかしそれって女性は話が長いと言うのと何が違うのだろうか。実際に女性のほうが話は長い。良く言えば女性のほうがコミュニケーションをたくさんとる傾向にあることは広く知られている。コミュニケーションに性差があるというのは事実そうである。しかしそれを女性一般の話にして政治的資質として判断するのは間違っている。

老いに関してもまったく同じである。老いると価値観をアップデートできないというのは事実そうなのだろう。まわりの老人を見ていればわかる話で、生理学的な条件ではありそうだ。しかしそうではない人々もいる。老人でもよく考えている人はたくさんいる。なので「老人は価値観をアップデートできない」と言うことは老人にたいする差別である。

老人は女性みたいにハッシュタグつくって騒がないので殴り放題なのだろうけど、こうして見ると森元もはてな民もツイッター民も変わらないな。

女性は殴ってこない時代を生きてきたので女性を殴る森元

老人は殴ってこない時代を生きているので老人を殴るはてな

#わきまえない女とかいうハッシュタグをつくってわきまえない老人を殴るツイッター

 

前々から言ってるけど、結局いまのリベラルは具体性をあげつらってるだけで差別問題になんか興味ないんだよ。過去の人達が女性問題に興味がなかったのと同じで。人間20年30年でそこまで変わらない。価値観をアップデートとか偉そうなこと言っても単に殴る対象が変わっただけ。

老人、犯罪者、芸能人、有名人、なまぽ、パチンコ、タバコ、カルト、不倫などなど。これらは殴ってもOKなので全力で殴りにいきましょう。いまのところヴィーガン反捕鯨団体なども殴ってOKですがこれからどうなるかわかりませんので注意しましょう。女性とLGBTは触れるとハラスメントなので殴るのはご法度です。丁重に扱いましょう。これがアップデート()された価値観です。老人はこれだけ覚えておけばOKです。考える必要はありません。みんな考えていないので。

 

森元の発言自体はとてもつまらないと思ってたけど諸々の批判を見ているといろいろなものが見えてくる。最もメタな視点から言えば人間なんて時代の駒みたいなものでしかないんだろうなというのが最も大きな視座だと思っている。

戦後復興からの高度経済成長期やバブル期には猛烈サラリーマンが讃えられてて、その時代の要請に応えるように男性が身を呈して働き詰めてたと聞くけれど、その働き方に女性はあわなかったのだろう。だから女性蔑視の価値観が醸成された。

一方で今のような少子高齢化社会かつほとんどの組織の上に高齢者がいて、保有資産も高齢者に集中している社会では高齢者が社会的コストになっている。だから老人を排除する価値観が形成される。

逆に社会から排除されていた女性はサービス業などが台頭してくると、その時代にあわせて社会に出てくるようになった。そしてフェミニズムを代表とする女性の価値観が必要となった。つまるところ時代が価値観を要請するのであって人間個人がそれぞれの価値観を持っていると思うのは思い込みに過ぎないのだろう。おそらくは自分も「そういう社会」に生まれていれば「そういう人間」になっていたはずである。

価値観という代物はそのくらい疑ったほうがいい。ましてや具体性をあげつらってアップデートと言っている人々の言う価値観とはいつの時代においてもハリボテに過ぎず、それによって形成された社会も常に砂上の楼閣でしかないと

そのくらいに思っていたほうがいい。さもなければ次に老害となるのは間違いなく僕達だからである。

 

老人への差別発言がこれほどまでに許されている状況はかつてなかっただろう。

理由を考えるにすべてをネットで検索できる時代においておばあちゃんの知恵袋的な知識および歴史、風習には価値がなくなってしまったからが大きいように思う。昔はネットがなかったので老人だけが知っているやり方や生き方、教訓などがあって老人は共同体のなかで重宝されていたのだろうけれど、それらがすべて平面化され無価値なものとなると老人は社会的なコストでしかなくなってしまった。身体的な能力の低下については言うまでもない。

アクセルとブレーキを踏み間違えた老人を「老人だから」という理由で免許返納をうながす言論、価値観をアップデートできないと言って老人を一緒くたにする言論

これらの言論が許されているのは老人を重宝しなくてもよい世界になったからでしかない。その時代の許容度に甘んじて論を展開するのは、昭和期における女性差別とまったく同じものでしかないのだ。

言うまでもなく老人になると能力が低下するのは事実であるが、しかしそれを持ってして「老人は~~~」と言うことはまぎれもない差別である。かつて女性がそう言われていたのと同じように。

 

女性、老人ときて次はどうなるか考えるに次の時代には人間そのものをコストと見なすようになるのではないだろうか。合理主義及び理性主義は今ですら支配的だけれどさらに過熱して「人間に価値ってないよね」となっても不思議ではない。今の僕たちが老人を社会から排除するように仕向けた言論を展開するのとまったく同じフェーズでそう言われてもおかしくはない。

「人間は隠居しててください、資本的にも社会的にも価値はないので。生活するにはベーシックインカムを支給します。差別ではありません。人間の能力を適正に査定した結果、人間は生産性が低いのでかつての老人がそうしたように社会には出てこないでください。」

と、こんな感じの言論が展開されてもおかしくはない。そして今この瞬間に老人を社会から排除しようとしている僕たちはこれに反論する術を持ちえない。なぜならかつて女性や老人を排除した僕たちの価値観がアップデート()されただけだからだ。

今のうちにこうした馬鹿げた差別論にたいして免疫をつけておくべきである。価値観をアップデートというのはその意味でまったくナンセンスなものだ。ただ時代によって差別される対象が変わってきただけである。

つまるところ差別とは100%理念的にとらえなければいけない。さもなければ次に差別され、あるいは虐殺されるのは僕たちだからである。