メロンダウト

メロンについて考えるよ

高速化するコミュニケーション、ファストジャーナリズム、キャンセルカルチャー

以前、「コミュニケーションが高速化している」という記事を書いた。ずいぶん前に書いた記事で、思ったことをそのまま書いただけの雑文ではあるのだが、最近のインターネットを見ていると案外的を外していなかったように思える。

高速道路化するコミュニケーション - メロンダウト

SNSに関しては特に顕著だ。「ある話題」に関して即応的に書くことで耳目を集める「ファストジャーナリズム」とでも呼ぶべき態度が瞬時に社会を塗り替えていく。
小山田圭吾氏が辞任したかと思えば次の日にはのぶみ氏が辞任し、オリンピックが始まれば開催前の騒ぎが嘘であるかのように盛り上がっている。すべてが高速で流れていく。そういった即時反射的な態度を批判したのが小山田氏のことをフラットに捉えようとした以下記事であったが、なにもかもがあとの祭りとなっている。

いじめ紀行を再読して考えたこと 02-90年代には許されていた? | 百万年書房LIVE!

 

すべてが高速で流れていく世論にたいしては謝罪も解任も高速化していかざるを得ない。民主主義の落とし穴とでも呼ぶべきだろうか。一気に着火して炎上させればファクトチェック・事実関係・物事の背景・時代性等をすりぬけて当該個人を解任できる。炎上という方法は世論が高速化すればするほど威力を発揮するのだ。高速でコミュニケーションをとり、高速でそれに適応していくことはつまり「熟議そのもの」を吹き飛ばすことになる。今回の件で明らかになったことはそれだけであろう。小山田氏が悪人であるかどうかなど原理的にわからない。僕達は炎上という「方法論」の威力がいかなるものか、それを再確認しただけである。それにしてもこの「高速コミュニケーション」はどこまで加速するのであろうか。最近はそんな懸念を強く抱くようになっている。

もちろん、このブログもファストジャーナリズムを助長している点が少なからずあるわけであるが、そうした世論の高速性についてせめて自覚しようと思ってはいる。僕があまり具体的なことに関して言及しないのは即時反射的に具体的なことを書くと思わぬ落とし穴が待ち受けていることがあるからでもある。(単に抽象的に書くのが好きだという理由もある)

抽象的に書けばそこまで的を外すこともない。抽象的に書くことは逃げ道を用意した文章である点で卑怯ではあるのだが、早とちりしてデマを書くよりかはずいぶんマシではあると思っている。厳密に言えばインターネットで検索したぐらいで「特定個人の人格をとらえきること」など到底できないのだから、抽象的に書くしかあるまい。インターネット、いや情報それ自体が厳密には不完全なのだ。あるいは対面してすらその人のことなどわからないというのに。


高速化していくものは世論だけではない。一般的なコミュニケーションにおいても例外ではない。上記記事で書いたLINEの件がそうであるように、現実におけるコミュニケーションの速度もあがっていっている。ハンコを廃止したりオンラインで会議を行ったりと、すべて効率的に動くようになってきている。そうした社会のありかたを受けて労働形態すらも流動性をあげ、高速化していっている。派遣やギグワークと呼ばれるものからノマドフリーランスなど労働市場の高速化にあわせて人々も加速度的に再配置されていくことになった。あるいは流行の音楽や漫画なども例外ではない。鬼滅の刃が流行ったかと思えば呪術回線、東京リベンジャーズなどが流行り始める。音楽についても同様だ。YOASOBIやAdoが爆発的にヒットしてチャートにはいっていったのも社会の高速性ゆえだろう。爆発的にヒットし、高速でシェアされる。そのような高速性がポジティブに機能したのがYOASOBIや鬼滅の刃などの文化産業であるが、ネガティブに働いたのが小山田圭吾氏の解任だった。すべてが高速で流れていくことは文化的な意味では商品の流動性を上げ、新陳代謝を繰り返していく点でポジティブなことである。しかしながらそのような社会のありかたは政治などの別領域においては大きな影を落とすことになる。このような意味で文化、そして政治は表裏一体のものであり切り離せるものではない。高速性という意味において同質なのだ。文化を発展させようと消費速度を加速させていけばコミュニケーションそのものも加速するようになり、結果として政治的な熟議をも吹っ飛ばすことになる。それが今の社会の実像なのであろう。社会のダイナミズムをあげ、コミュニケーションを加速させることは流動性をあげる点において資本主義にとっては都合が良い。しかしながら時にそれはトレードオフなものとして私達の現実にたちあらわれることになる。

以上のような批判は、私がオリジナルに考えたものではなく、長らく保守が言ってきたことでもある。保守が最も重要視する理念に「漸進」というものがある。社会が高速化していく時に棹をさす何か(歴史、伝統、常識、通念、生活等)を探し、社会を「緩やかに」推移させようというものだ。保守とは変化を嫌うという意味で使われることが多いけれど、個人的には漸進こそが保守における最大の理念だと考えている。変化には相応の「速度」が必要だというのが漸進性の理念的な意味であるが、このような保守の理念はインターネットによってすべてが加速していく時代においてこそ重要なものになりつつある。いわゆるネトウヨのような急進的なものを保守と呼ばないのは「漸進性」がないからであり、リベラルのような「棹を指すものがない思想」とも保守は対立する。


五輪前の政治的ゴタゴタ、そして五輪開催後の文化的熱狂。これらは一見すると対立するものに見えるが「高速性」という点においては同一なのだ。五輪が開催された時に即時反射的に熱狂することと即時反射的に小山田氏を解任することは高速性という点においてその源泉が同一であり、それらはまとめて批判されるべき態度だと言える。それが保守主義者のあるべき態度であろう。五輪賛成対五輪反対という対立で見るべきではない。どちらも高速的にコミュニケーションをとっている点で同相であり、批判されてしかるべきなのだ。もちろん五輪への賛成反対は自由に表明すれば良いものの、時流に乗って高速的に消費しにかかる態度だけは批判されるべきであろう。政治も、そして文化すら本来そのような形であるべきものではない。。政治は消費財として扱われるべきではないし、文化も消費財としてのみ扱うのは間違っている。


こうした「表裏一体の高速性」について僕達はあまりにも無自覚だったのではないだろうか。冒頭の記事でコミュニケーションの様相を高速道路に例えたけれど、高速道路は確かに便利なものである一方、高速道路だからこそ起きる事故も当然ある。あるいは高速道路だからこそ整備が行き届いてなければいけない。しかし私達のコミュニケーションのありようはどうであろう。コミュニケーションを高速化させる一方、はたしてどこまで整備されているのであろうか。

そうした中で起きたのが今回の小山田氏の件だった。一番はじめに出てきた小山田氏に関するブログ記事を読んで批判した人が正解なのか間違っていたのかなど言い合っているけれど、そんなことは本来どうでも良いはずだ。最も重要な問題は「僕達がそれに飛びついた」ことだろう。いじめに関する事実がデマではなかったとはいえ、解任されたあとに出てきた記事を読む限り、小山田氏が極悪人であるという評価は完璧に間違っていた。

それにたいして「僕が当たってた」、「僕が間違ってた」、「誰々にブーメランが刺さった」なんていう論争は実にくだらないものである。僕達は彼を極悪人と評して解任した。それが唯一残った事実である。このような事態になったのは高速的にニュースを読んで炎上させた人々すべての責任であるし、仮に読みが当たっていたとしてもそれは偶然に過ぎない。したがって真に批判されるべきは「高速的にニュースを読む態度」、あるいは「高速的コミュニケーションという社会のありかたそのもの」にある。
すべてを瞬間的に峻別し、善いものは善い、悪いものは悪いという論理によって振り分けると新しい変数を代入しただけでプラスとマイナスがひっくりかえったりする。そのような論理に社会を委ねるのはあまりにも危ういものであり、キャンセルカルチャーなど言語道断だと言ってかまわないだろう。小山田氏を「犠牲」にしたことで得る教訓といえば唯一それくらいのものでしかない。

吉本隆明と小山田圭吾に見る時代性への私見

吉本隆明『貧困と思想』を読んでいてこんな一節を見つけた

 

(戦中の心理を振り返る段にて)
国家のために死ねるかという問いにたいして、国家のためというのは僕には軽すぎて、命と取り換えるところまではいかないのですよ。それなら国家のためというのを自分の家族の安全を守るためと言い換えても、それで命と取り換えられるかというと、どうにも軽い。そこは考え詰めたのです。というのもどうせ死ぬと思っていましたからね。徴兵検査が済んだら兵隊へ行って死ぬのは決まっているのだと。先輩達がそうでしたからね。だからそこのところを解いていないと、どうにも自分が定まらないのですよ。自分は徴兵検査して、兵隊に入ったら死ぬのだ、ということ以上の命を考えることは無駄だと思っていましたから、考え詰める。しかしどうしても国家のためとか、家族のため、同胞のためというのは軽すぎるので、どんどんと突き詰めていくと、宗教としての天皇、現人神としての天皇に到ったのです。これとならば命を取り換えられるというのが、僕の戦争中の立場でした。

 

 


今の僕達には理解し難いが、戦中において天皇はある種のリアリティーを持っていたと書かれている。歴史的にも語られることが多い天皇であるが、どうにもしっくりこないところがあった。僕達の今の感覚からすれば天皇と戦争が関係してるのは想像し難い。尊皇攘夷のような話も歴史の出来事としては知っていてもなぜ尊皇なのかという心理に関しては腹落ちしない部分があった。しかし、吉本のこの文章はストンと理解できる。軍部や政府に命を預けるのは嫌だとしても戦争に行かなければならない。そのような現実が先にあり、どうせ死ぬ命なら誰のための命であるべきか考えた時に出てくるのが天皇だったと。天皇は宗教的な存在でありながらもある種のリアリティーをもって人々の象徴だった。吉本はそのように書いている。
似たような話はいくつもある。「どうしようもない現実を宗教が掬う」という心理を持ったのは吉本だけではないはずだ。それぞれの時代に命を賭けるべき価値観が存在していたのだろう。ヴァルハラや輪廻転生のような死後の世界にたいするものから武士道まで、一見して狂った思想に見えてもその時その時代を生きていた人々にとってはリアルな価値判断だったのかもしれない。
それぞれの時代ごとにそれぞれのリアリティーがある。時代が変われば価値観も変わる。手垢がついた言葉ではある。そんなことは誰もが知っているよと言われるかもしれない。しかし、この言葉の意味を我々はどれだけ理解しているのだろうか。あるいは積極的に忘れようとすらしていないだろうか。

最近の小山田氏のいじめ問題を見ていてもそんなことを思う。人間はどの時代においても時流から逃れられない生を帯びているに過ぎないのではないかと。むろん、吉本のような戦中の話と小山田氏のいじめ、及びサブカル露悪系などを並列に語ることは無理筋の議論である。しかしながら誰もが抗いがたい時代の中を生きているという点においてのみは共通していると言ってもかまわないだろう。あの吉本ですら天皇主義者になるしかなかった。それと同じように学校という閉ざされた環境におけるサバイバルが子供たちの中に先にある。はじめに環境がある。時にそれは人にとってどうしようもないことなのだ。
戦時中の日本人が戦争に駆り出されればアメリカ人を殺したように加害行為そのものに焦点をあてたところで何も見えてきはしないだろう。吉本にとって戦争という現実が先にあったように、子供たちにも学校という閉鎖空間が先にある。いじめっ子の考えを理解できないものとするのは、戦時中において天皇が命を預けるべき存在であったことを理解できないのとまったく同じ思考でしかない。理解できないものに蓋をして切断しても何も変わらない。誰がどのような環境の中で生きていて、そこでどのような行動が誘発されるのかと考えた時に見えてくるものがある。まずそれを考えるべきではないだろうか。


大前提としていじめは耐え難い仕打ちであり、精神的な殺人である。それはどんなに時代が変わっても言い続けなければならない。いじめは凄惨であり、厳然たる事実として被害者の精神に刻まれる。それだけは絶対に忘れてはならない。しかしながら被害者の救済という部分に焦点をあてすぎると、どのような構造を持ってして加害行為が行われたのか見過ごすことがある。小山田氏の件に関しても、当時のサブカル論壇の空気などを背景として擁護するような言説は無碍にされ、加害性にのみ焦点があてられている傾向にある。当時のインタビューもその露悪性ばかりが取り沙汰されている。いじめの加害性についても同様に、当時の時代背景や子供という未熟な存在であったことを考慮せず、現在の小山田氏と人格的に連結させる意見ばかり言われる。個人的にはそうではないだろうと思う。当時の小山田氏と現在の小山田氏は地続きではあるものの、同じ人間ではない。人は変わるし、時代の中で価値観も変わる。そうした時代の遷移の中で「彼が現在は高い倫理観を持って仕事をしている」ことも、可能性としては充分にあるだろう。もちろん、このような言説が彼の罪を無きものにすることなどない。犯した罪が消えることはない。そして彼が贖罪することなく今日まで有耶無耶にしてきたのも事実である。そこには一定の苦難が生じてしかるべきであろう。小山田氏の犯したいじめは文章として読んだだけでも凄惨を極めるものであり、行為それ自体を擁護することは到底できない。それでもなおそこになにがしかの背景を見ようとすることはできるはずだ。もちろんそれは他人である我々が知る由もないが、戦時におけるリアリティーのように、あの時代におけるなにがしかのリアリティーがあった。それは容易に想像できることであろう。なぜなら、今の僕達だってネットリンチなどと言いながら一個人を糾弾する時代を生きているのだから。見ようによっては露悪系などが跋扈していたころよりも歪んでいる。なればこそ時代の蓋然性に思いを馳せることができやしないだろうか。そんなことを思う。

 

僕達自身もまた時代が生んだ価値観の中で生きている。それは時に過去の行為や発言を非難するまでに正義として信奉されているし、顧みられることはほとんどない。みな完全にそれを内面化しているし、自分がどのような価値観のもとで発言しているのかを考える人もほとんどいないのだろう。SNSに流れてくるものを見てもそうであるし、コロナ禍の言説を見ても同様である。自らの価値観にたいして自覚的な人はほとんどいないように見える。
価値観が最も顕著にあらわれているのがSNSであるが、価値観が暴走し、実質的にはほとんどいじめのようになっていてもこの指が止まることはない。むしろ年々苛烈になっていくふしさえある。あるいはそうした数の暴力が正しいことだと思っているし、小山田氏のような悪人をスクリーニングしていくことで世界は良くなっていくんだと勘違いしているふしさえある。それが時代だと言えばそうなのかもしれないが、しかしそれって「戦争に勝てば日本は良くなる」と信じていた戦時中の人々と何が違うのだろうか。SNSによって悪人を排除していくことと、戦時における敵愾心はそこまでかけ離れたものではないだろう。もちろんSNSによって実際に人が亡くなるケースは少ない(木村花さんの件なども事例としてはある)ものの、仮想空間における領土争いのような形ではもはや戦時中と言っても差し支えないような事態になっている。
自由が大事だと叫び続けることでいじめのような「人の自由を毀損するような所業」にたいしては烈火のごとく炎上させるようになり、逆説的に人々は他人の自由意志を毀損しないように日々セキュリティーを張って生きていかなければならなくなった。そんな時代にありながら、なぜ時代性を無視し、時間軸を問題にせず、人と価値観を直列で連結させるような言説を疑うことなく言うことができるのだろう。時間を連続的に直結させた場合に牙を向くのは小山田氏よりも、デジタルタトゥーが残る僕達ひとりひとりのほうであるのだ。
僕達もまた時代の蓋然の中を生きているに過ぎない。端的に言って「戦時中に生まれていれば人は誰しもが人を殺す」。言ってしまえば人とは単にそれだけの事でしかない。今この自由の時代を生きている我々は自由の敵である対象を見つけては自由の業火によって滅却していっている。
厭世的に書いているように見えるかもしれないが、そうではない。むしろとても良い時代だと個人的には感じている。人が死なないでかまわない時代は歴史的に見ても稀有な時代である。ここでは単に時代の蓋然性について述べているに過ぎない。

一般に、今の価値観で過去を切り取ることは時に礼を逸する可能性があるのだ。時代のあらゆる側面を事実としてのみ見た場合、吉本が天皇主義者となったような「心理」を見逃す可能性がある。吉本はそれを良しとはしないだろう。それこそ烈火のごとく反論されることは目に見えている。歴史の断片を単に事実として認識し、糾弾することは時に非礼だとすら言える。そのような躊躇があるのだ。それは小山田氏の件に関しても同様に感じるものでもある。
時に人は抗いがたい時代の中を生きている。そしていつしか時代は変わる。しかし罪は残る。それは清算されてしかるべきではあるものの、そこにほんのひとかけらの背景を見ようとしても、かまわないのではないだろうか。私見としてはそのようなことを思う。

自由の代価、漂白される社会、マッチングアプリ~保守すべき自由とはなんだったのか~

排除アートに類するものはもう何年も前から問題になっていた。開沼博さんが『漂白される社会』を書いたのは2013年。もう何年も前に読んだっきりなので細部までは覚えていないが、著書の中では売春島、ネットカフェ難民貧困ビジネスなどについて書かれていた。この社会が「漂白」され周縁に押しやられた人々が持つリアリティーに光をあてた本だった。排除アートも同様の構造を持っている。喫煙なども近年になり社会から漂白されたものの代表と言えるであろう。開沼さんだけでなく最近だと朝井リョウさんの『正欲』も同様の問題意識を持つ作品だと言える。

 

オウム真理教地下鉄サリン事件を原因として街中からゴミ箱が撤去され、公園で飲酒するような中年の日常も風景としてはなくなり、道路で遊ぶ子供もいなくなり、街はとても綺麗になった。一方で「アーキテクチャーとしての街」はどんどん不自由なものになってきた。一見すると清潔に見えても場所ごとにタグ付けされているかのごとくそこで行える人間の行動は時に極めて限定的であり、自由は制限されている。そのような空間の蓋然性は強くなっている。それぞれの場所が属性分けされて目的的なものへと変わっていった。東京などの大都市において特に顕著であろう。あるいは郊外の公園でもそうした趨勢は例外ではない。それぞれの場所において可能な行動は限定的になってきている。公園で花火をしてはいけないこと、路上に座ってはいけないことなど例を挙げればキリがない。明文化されているいないにかかわらずその場所が持つ属性が強くなることで規範も強くなり、そこで行える人間の行動は限定的なものになる。

 

そしてそれはゾーニングによって線引きされてきた。ゾーニングによって生み出す分断がどのような弊害をもたらすのか想像もせずに、である。

ゾーニングとはようするに統治の論理であり、排除アートのようなものは人々をコントロールするために作られている。しかしながらそうして排除された人々は社会の周縁部に押しやられ、不可視化されてしまう。それが開沼さんや朝井さんが書いていることであった。

この社会は自由が大事だと叫び続ける一方でゾーニングによって人々をコントロールしようとしている。個人の自由を犯してはならないというリベラリズムが支配的になればなるほどゾーニングアーキテクチャによって人々は分断されることになる。人権や自由を建前として使用すれば人に直接諫言することはできなくなるからだ。間接的に人の行動を制限するしか術がなくなる。ホームレスの方に直接言うことができないならばアーキテクチャを使い間接的にそのメッセージを伝えるのである。「おまえはここで寝てはいけない」と。

 

自由に縛られる政治

このような「アーキテクチャによる間接的な行動の抑止」と「排除される人々」はホームレスの方に限った話ではない。

政治的にも規範性(日本人、女性の人権、LGBT等)を根拠とし、それ以外を排除する趨勢は強くなる一方だ。実際に政治的規範性、ポリティカルコレクトネスによって退場させられる政治家は後を絶たない。

ポリコレと言うとリベラルの言葉のように聞こえるかもしれないが、自民党も例外ではない。むしろより強く体現しているとすら言える。ポリコレによって間違ったことを言えないため、答弁を煙に巻いて仮初めであろうともその威勢を保とうとする心性は菅総理からもありありと見て取れる。間違った発言をしないこと、批判なき政権であること、無謬性を保とうとする姿勢は安倍政権のころから連綿と続いている。ポリコレに迎合する政治家の姿勢は上述したような社会の趨勢と地続きであることはおよそ間違いない。ホームレスの方が排除アートによってゾーニングされるように、政治家もまたゾーニングされる。田中角栄小泉純一郎はそうした社会の趨勢からは自由であった。しかし、社会が漂白されはじめ、清潔で理性的な秩序が支配的になればなるほど発言することの危険性が増し、何も答弁しないことが政権の生存戦略となったのだ。

 

仮初めの社会

この社会を「あるべき姿」にデザインしようとすればするほど、そうでない人々は周縁部に押しやられることになる。政治家やホームレスの方だけではなく我々市民も例外ではない。あるべき社会が支配的になればなるほど「そこにいても良い人間」という証明が必要になるため体裁を整えることが重要になってくる。政治家も市民もみなが体裁を取り繕うため、ポーズを取るような社会になった。その結果すべてが仮初めに変わってしまった。

仮初めの政権、仮初めの風景、仮初めの自由、仮初めの日本スゴイ、仮初めの五輪、仮初めの平和という具合にすべてが外形性、つまり体裁を整えることが一義的なものになりつつある。直近で言えば五輪のボランティアにたいして「五輪開催の雰囲気」を生み出すために現地までユニフォームを着ていくのを要請したこともそうであろう。体裁を繕うために人間を配置していく。そうした蓋然性はすでに多くの場所にある。排除アートは氷山の一角に過ぎない。この社会はもう随分前から漂白を始め、仮初めを取り繕うことに終始し続け、あるべき社会へと移行しはじめているのだ。

あるべき社会、つまり「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」へと。

 

 

マッチングアプリという周縁
このような話と関係するもので、白饅頭氏のnoteに印象深いものがあった。

暗黒メモ「もうだめだ。俺は婚活をやめるよ」|白饅頭|note

マッチングアプリを始めて女性の傲慢さに嫌気がさし、田舎に帰った青年の話である。女性嫌悪になる模様がありありと書かれており、衝撃的ではあるものの、こうした心理はいまや珍しいことではないのだろう。このnoteに書かれている問題も上述したような社会と無関係ではない。マッチングアプリはまさに周縁に押しやられた人々の愛憎劇だからだ。
まずもってマッチングアプリがここまで流行っている理由のひとつにポリコレやそれに紐づくハラスメントを怖がる風潮があることは間違いない。社内で女性を誘うことが難しいために男性はマッチングアプリを利用するようになり、女性もまた男性に誘われることがなくなったのでマッチングアプリを利用する。ポリコレはまさに合理性そのものであるが、そうした合理性のもとに人間の欲望、性愛は社会の内部において漂白され、排除された人々がマッチングアプリを利用するようになった。つまるところマッチングアプリとは漂白された社会の周縁部なのである。
しかしながら社会の内部とは違い、周縁部ではいかなる社会性も所与のものではないために動物としての欲望が剥き出しとなる。女性がハイスぺ男性を望み、一方の男性は完全なる格差社会となっておりハイスぺ男性がヤリモクで利用してロースペ男性はマッチできない。それがマッチングアプリの現実である。マッチングアプリはポリコレという合理性によって恋愛を社会から漂白した結果生み出された地獄なのだ。白饅頭氏の記事に書かれている青年は漂白化された社会の被害者とも言えるであろう。そして、このような地獄はもはや誰にとっても他人事ではない。マッチングアプリに限らずともいつなんどき誰がどのような形でこの社会の周縁に押しやられてもおかしくはないからだ。僕たちは新しい緊張の時代を生きている。

Welcome to a new kind of tension

youtu.be

 

 
自由には、必ず代価がある。

誰かの自由を守るために秩序を整え、ゾーニングすることによって私的な自由を守ろうとすれば公的な自由は失われることになる。場所ごとに秩序立てるようなゾーニングの論理は必ずどこかにしわよせがいくようになっている。自由にかかるリソースは有限なのだ。今までそれは社会の周縁部に押しやられて無いことにされてきた。しかし、いよいよもって自由や合理性の限界があらわれてくるようになった。それはコロナによってよりあらわになってきたし、マッチングアプリにも如実にあらわれている。
僕達は私的な自由を散々言ってきた。多様性を金言とし、個人主義御旗のもとにプライベートを至上のもととして扱ってきた。その一方で公的な自由を蔑ろにしてきた。「建前」「幻想」「コモンセンス」などそこには本来保守すべきものだってあったはずだ。

純愛という幻想、他者の存在という公共性、貧困というリアリティー、お金がすべてではないという建前、嘘も方便、ゲマインシャフトなどなど。

これらは保守すべきものであったが、自由の名のもとに廃棄された。ありとあらゆる公的な建前を廃棄し、社会の隅々まで「私的自由の空間」としてデザインするようになった。いまやベンチすらも目的のうちに定められ、誰にとってのものか、その利用方法はあらかじめ決定している。物だけの話ではない。すべてが目的的なものへと変化し、余白がなくなった都市の構造においてこのような限定性は我々の心までも捉えている。自分がどういう人間であり、どのような場所に属するのか、あるいはどのような場所に属してはいけないのか。自らの内面を自己批判的に判断して内面化している人は多い。

男性が結婚しないのは経済的理由を内面化しているから - メロンダウト

他者からの評価を自分自身で内面化する傾向というのは日本人は特に強いのではないかと感じている。日本ではよく「相手にたいして失礼」ということが言われる。しかしこの文章には続きがあり相手にたいして失礼だから「自己を整えよ」という文章が暗黙的に付記されている

 

自由の実勢

ゾーニングが実際の人間関係までをも侵食し、社会の内部における自由はそれを許された人の特権にすらなっている。それ以外の人々はあらかじめ排除されるか、もしくは実際にハラスメントなどを起こして事後的に排除される。どうあれ社会全体が規定されている以上、その枠に適応できない人々は排除される。ある人々にとって自由でいることは条件的に不可能なのだ。とにかく他人に迷惑なことをしてはならない。そして、他人に迷惑な存在であってすらならない。デザインされた街の風景に同和しなければ私的な自由は許されない。そうした空間が僕達の自由を脅かしてきた。物に属性を付与し、人間にも属性を付与し、逐一名前を与え、すべてを適材適所に配置されるべきものとして扱ってきた。それが多様性や自由の「実勢」なのだろう。

 

適応競争
そうした社会において何が始まったかと言えば「適応競争」である。

健康的で道徳的なものにデザインされた社会に適応することではじめて私的な自由が得られるため、適応が一義的なものへと変化した。どんなに才能がある個人であろうともキャンセルされる時代においては、まずはじめに適応することが必要になる。女性の自由を守り、LGBTの自由を守り、若者の機嫌を損なわないというロールプレイをもってしてはじめて人は自由になれる。「仮初めの適応証明」をもってして個人の自由は達成される。適応競争に打ち破れた人々はゾーニングの論理のもとに周縁部に押しやられる。まるで犯罪を犯したかの如く、自由という理念によって人は周縁部に収監される。この社会は自由が一義的なものではない。自由という規範が一義的なものなのである。

 

自由という儀礼

コロナが流行り始め、ソーシャルディスタンスが喧伝されてきたが、この社会はコロナより以前から人と距離を取らなければいけない空気が支配していた。会社の飲み会が若い人の間で回避されるようになり、ハラスメントを事前に回避するなど、他者にたいして侵犯しないことが正しいとされ、いまやそれは僕達の内心をも捉えている。

僕達は他人に干渉することをほとんどやめた。自由という理念が他人にたいして無関心になるお墨付きを与えたからである。自由という儀礼性を心理的な防壁とすることで排除された人々にたいして無関心でいられる。自分と他人は違う。多様な人々がいるなどと、すべてわかったふりをして他者と自己を分断し、自由へと頽落するのである。

 

保守という次善策

自由が生み出すこうした弊害にたいする「次善策」が保守の言う伝統だったのであろう。たとえば飲み会を開けば人間同士が衝突するし、めんどくさい場面にも出くわすが、それよりも一緒に飲むことで仲良くなることが「次善的」にベターであったのだろう。あるいは恋愛においても自由に恋愛することができればマッチングアプリという地獄に落ちる人も少なかったはずだ。もちろん飲み会にしろ恋愛にしろ諍いを生むことは当然あるけれど、それでもそれは「ありうべき衝突」だったのだろうなと、今になって思い返すことができる。飲み会や恋愛、あるいは「ムラ」などの共同体を通して自分とは全然違う属性を持っている人を知る。本来、そうして人間は人間のことを思ってきた。それがいまや人間関係すら目的を至上として再配置されている。

そうして再配置された人々は他者にたいする想像力をなくしてしまう。「自分が許容できる他者だけがカウントされるような社会」において、「そうではない人々」への想像力が培われることはない。そうした想像力の欠如がSNSに流れ込んでエコーチェンバーとなっているのであろう。

 

自由という閉塞

この社会は誰のための社会なのだろうか。そもそも社会の形みたいなことを我々は本気で考えてきたのだろうか。保守すべき自由とはなんだったのだろうか。けだしそんなことを思う。

欧米からリベラルを輸入して自由を一義的な価値とした瞬間に日本社会が失ったものもあるはずだ。それはこれまで漂白されつづけてきた。エロ本をコンビニからゾーニングするように人間すらもゾーニングしてきた。排除アートを見たホームレスが「我々は社会の一員ではないんだな」と思うように、僕らが直接言うわけでもなく彼らに自己批判を促すことで半自動的に社会の周縁部に押しやってきたのだ。似たようなことはありとあらゆる場面で起きており、誰もが身体感覚として感じたきたものであろう。それは時に閉塞感と呼ばれ、僕たちの自由に蓋をしてきた。

 


排除アートはこの社会を象徴しているに過ぎない。ものや人間にタグ付けし、事前の目的をあたえ、適応を存在条件とし、アーキテクチャーによって教育し、マッチングアプリのように再配置していく。それを多様性という金言によって肯定し、目を背けたくなる人を不可視化することに完璧に成功してきたのが日本社会である。
ホームレスの方だけではない。白饅頭氏のnoteに書かれていた青年が女性嫌悪になってしまったように、「自由な社会」の歪みは必ずどこかにあらわれることになる。

自由には、必ず代価がある。

そして、それを支払っている人々がいる。それを絶対に忘れてはならないだろう。