メロンダウト

メロンについて考えるよ

おじさん差別と倫理の外体化について

久しく見てない感じの記事を読んだ

note.com

 

こういう議論は終わったものだと思っていたけれどまだやってる人がいるんだと思ってすこし嬉しくなった。書いてあることは旧来のフェミニズムが主張していたことである。おじさんは「肉体的圧迫感」があり「共感能力が欠如」していて「権力勾配がある」にもかかわらず「人生経験豊かであるため説教しがち」だというものでそれが「無自覚の加害性」を生んでいるのだという主張だ。申し訳ないけどジェンダーギャップ指数を持ち出していることからもフェミニズムにやられてしまった人という印象を受けてしまった。このフェミニズムの論説は常に批判されているのでそのあたりをすこし書いていきたい。

 

はじめに「初期設定としてのおじさんの加害性」であるが、これはシンプルに差別である。その人が持つ変えようがない属性をもとに人を判断することは紛れもない差別なのでやめましょうとしか言いようがない。仮に「黒人は黒光りしていて怖い」などと言えば差別主義者のそしりは避けようがない。おじさんが怖いという感覚も内心で思うのであればまだしもそれをおじさんに自覚させることで社会構造やコミュニケーションの様式に組み込もうとするのは差別を実装するという点で最悪の主張だ。

 

このような構造を作り出すことには明らかな弊害がある。

というのも現実におじさんは肉体的圧迫感があって共感能力が欠如していると生理的に感じる人がいるのも事実であるが、一方のおじさんも若い女性が怖かったりするのだ。僕もおじさんになったのでわかるけれどおじさんからすれば若い女性を雑に扱うとハラスメント扱いされ大変なことになる可能性があるので慎重になる瞬間がある。フェミニズムによって女性の権利が向上したのと同時に若い女性を雑に扱う危険性も周知された結果、女性や若い人を採用するのに躊躇している人が僕の知人(個人経営の飲食業者)にもいたりする。アメリカでもmetoo運動の時期にやはり同じように若い女性を採用するのは危険だとしてフェミニズムが逆流していたことを思い出す。

ようするに女性がおじさんを怖がるのと同じようにおじさんも女性が怖いと感じることがある社会になったということだ。その結果どうなったかというと社会の空気を読んだり女性の気持ちを汲んで話すような「良きおじさん」はそもそも女性へハラスメントを働く可能性がある場所に行くことは少なくなり、それがフィルタリングとなって女性に接近するのは冒頭記事で指摘されているような「共感能力が欠如していて人生経験が豊かだと思って説教するおじさん」だけになったのである。

つまるところフェミニズムはマッチポンプであっておじさんは女性に近づくなという差別的アナウンスを行った結果フィルタリングがかかってしまい女性の前には無節操なおじさんばかり集まるようになり、その惨状に憤りを覚えたフェミニストが主張のトーンをあげてより厳しいおじさん差別を行い、さらにより強いフィルタリングをかけて以下ループというのが現代フェミニズムの歴史なのである。

おじさんや女性にかかわらず人と人は違うしそもそも他人は怖いものである。けど他人は怖いからといってコントロールし始めようとするとまた別の問題が起きてくるのでなんとかかんとかやりくりしようというのが人間社会の一応のお約束であるのでお互いすこしは我慢しようねという話にしか結局ならないのではないかというのが僕の見立てである。

 

 

それよりもこの佐藤二朗さんと橋本愛さんの件を見ていて思ったのは倫理の「外体化」である。外体化というのは造語であってこんな言葉はないのだが、普通は誰かとコミュニケーションした時に問題が発生したら当事者同士で話し合ってそれでも無理であれば第三者にとりもってもらい、それでも難しい場合には司法や警察に介入してもらうというのが一般的な手続きだと思う。そこには主体があって客体があって第三者がいるという形になるが、今の社会では加害被害という話になると主体や客体は無きものにされ一足飛びに主客の外に飛び出すことになる。今回の件で言えば佐藤二郎さんと橋本愛さんのコミュニケーションで大きな問題が生じたようには見えなかった。制作現場で橋本さんのトラウマのことを夫役である佐藤さんに伝えなかったことが唯一の問題であるように見えるが、似たような伝達ミスはどこでも起こり得ることなので制作サイドが両名に謝罪してとりもつのが最も良い解決手段なのではないかと思う。トラウマに気づかずに体に触れてしまったというミスはあったし被害もあったけど本来は謝罪して終わるような話ではある。ただ、それが外部に飛び出すと途端に加害被害という形で拡大解釈され、フェミニズムの贄となり、佐藤さんも自身の名誉のために言及せざるを得なくなり、なにか巨大な前提がそこに潜んでいるような報道のされ方をするが、現実には「単に知らなかっただけ」であってそこにフェミニズムやおじさんなどというキーワードを絡めるような話ではない。

ようするにこの件でなにが問題だったかといえば主客の外で喧々諤々議論し始めついには一般化しはじめて自身の主張の媒介とすることそれ自体である。そこに社会的前提が横たわっているのであればみんなで議論することも必要だと思うが、今回の件に関しては本来当事者同士で解決しうる問題に社会的前提を無理矢理ねじ込もうとしているようにしか見えないのである。それは問題が主体からも客体からも離れ外対化しているとでも言うべき現象であって、こうした当事者になりすまして問題を粉飾し、拡大解釈する動きはこれからも続いていくはずである。とはいえ過度な一般化なのか適度な一般化なのか見分けることは困難であるし、見分ける意味も動機もこちら側には特にない。したがって結局はすべてが「声の大きい方に吸収されていく」ことになるがそれはあまり喜ばしいことではないように、個人的には思うのであった。

ネットの虚数化について

こんにちは。生きてます。ワールドカップを見ていたらいつのまにか7月になっていました。

 

SNSのいいねやインプレッションを稼ぐための「農場」があるという記事を読みました。

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/2763724

以前からまことしやかに言われていたことで中国ではスマホを並べて人力でいいねを押していく「工場」があるというニュースを見たことがある。

日本の選挙戦でも海外のアカウントが「火付け役」となって扇動していたことがニュースになっていた。古いところで言えばDappi問題もそうだった。また、先の選挙で高市総理のPR動画が一億再生されていたこともだいぶ怪しいと思っているのだが、中傷動画問題を含め最近の政局はSNSに振り回されていてなにが起きているのかわけがわからない状態である。

もはや虚実が綯い交ぜになっていてなにを信じて良いのか、なにを信じてはいけないのかSNSでは判別がつかないので情報収集ツールとしては終わったのかもしれないなどと思ったりする。ツイッターを覗いても青バッジの投稿が目立つだけで生の情報を得るためのツールとしては使えない。かといってGoogleで検索しても今はまともな情報にたどり着かないので共同通信などの大手マスメディアの情報をもとに判断するしかなくなるという形になるが、そうなるとテレビを流していたほうがマシなのではと思ったりしないでもない。自分で調べて信用に値する発信元や書き手を選ぶのもひとつの手であるが骨が折れる。なにより自分自身が選んだメディアは自分が選好するものの域を出ず、偏ってしまう。そうなるとやはり工場にも農場にも資本にも汚染されていない「はてなブックマーク」が最良のメディアなのか?なんて思ったけど私はBANされているのでコメントが書けないのであった。そろそろ解除してもらっても良いのですよはてな運営さん(今度メールするのでお願いします)。いやでも真面目な話、今のSNSの惨状を見ているとはてブは思想的には左に偏っているけどだいぶマシなほうなのではないだろうか。インターネット老人の最終処分場なんて言われるはてブだけどインターネットがちゃんとインターネットしてるという点においてはてブはまだちゃんとネットメディアとして機能しているように見える。

 

類似する話としてイギリスやオーストラリアでは未成年のSNS利用を禁止する法律が制定されたりといよいよSNSの弊害について世界がまともに向き合う時期にきたのかもしれない。農場や工場の問題もそうであるけどもっと端的にYoutubeなどのSNSを見ていて思うのは端的に中毒性が高すぎるのだ。特にショート動画である。一分にも満たない動画に情報、物語、ハプニング、感情的フックが詰め込まれていてすぐ見終わるのでまあいいかと見ていると気づけば次の動画を見始めていて、30分経ち、なにか得るものがあるわけでもなく、結果として「何も覚えていない」のである。ツイッターのタイムラインを見ても同じような感覚になるけれどショート動画はツイッターの比ではない。ここまで濃密かつ虚無な時間は他にない。

その動画群も人の意志とは無関係に錬成されているものが混ざっていて虚無を見る虚無な時間というわけのわからない状態になっている。AIで錬成するにしてもだいぶ電力を消費するだろうし人類は何をしているのかなどと遠大なことを考えるぐらいには無意味な仕事に無意味な時間と無意味なエネルギーを投下しているように見えてしまう。

 

農場の問題もそうであるしSNSが使い物にならなくなった問題もそうであるがインターネット全体がだんだん虚無に近づいていることは多くの識者も指摘していることでこのような惨状を受けてかはわからないが、ツイッターの牧歌性を懐かしんだり資本に左右されていなかったインターネットが恋しいみたいな意見もよく見るようになった。僕も同意見であるし多くの人もそう感じているのだと思う。しかしながら、ここ数年の選挙や社会の実勢を見てわかるように年々インターネットが社会に及ぼす影響は強くなっている。つまりネットが虚無化するのと同時に実社会への影響力が高まっているのだが、突拍子もない例を出すと、思い出すのが『転生したらスライムだった件』である。僕は最初にアニメを見て面白い作品だと思ってその後、小説をすべて読んだのだけど、終盤ですこし冷めてしまった。終盤で主人公であるリムルが自分だけがアクセスできる「虚数空間」なる場所から無尽蔵にエネルギーを持ってくるようになったからだ。転スラでは種族ごとに扱えるエネルギーや権能の種類が異なっていて階級分けがされている。下位のエネルギーは上位のエネルギーにたいしてほとんど無力であることがほとんどであるのだが、終盤では主人公のリムルだけが「虚数空間」にアクセスできてすべてを無きものにする虚無のエネルギーを使って敵を蹂躙しはじめたことが「チートが過ぎる」と思ってしまい最後はあまり楽しめなかった。

しかしながら今思い返してみると虚無をエネルギーに変えて現実の問題に対処するというのはいかにも現代的であるしインターネット的である。農場で錬成されたものでも100万インプレッションは数として100万であるし、1万個のいいねも1万人から集める必要はなく、農場もとい虚数空間から引っ張ってくれば良いのである。そうした数が注目され、ひとたびバズれば人の耳目をあつめ、虚無としての100万が1万人の聴衆を呼ぶことになるのでマーケティングとしてはそれで成功なのだ。

 

ただ、そうしたものをはたから見ると「なにやってんだ感」が否めず、それに振り回されるのは紛れもない徒労であったりする。

昔、インターネットから離脱する人が増えていくのではないかという記事を5年前ぐらいに書いた覚えがある(どの記事かは忘れた)が、農場のニュースを見ているとあながち間違いではなかったと思えてくる。最近はAIでアカウントを運用しているなんて話も聞くのでそのうち青バッジがたいした動機も持たずにAIが書いたものを垂れ流して農場のいいねを稼いだものが実社会へ間接的に作用するみたいなことが起きるようになるのではないだろうか。いや、すでになっているのかもしれない。Youtubeの対立煽りを真に受けた分断は現に起きているけれど投稿している人はそこまで深い動機を持っていないことは選挙になるたびに出てくる政治系動画を見れば明らかである。

本来は人と人を繋ぐコミュニケーションツールだったものがいつのまにか人と人っぽい虚無を繋ぐものに化けていく。そしてSNSでは身体性がないため人と人っぽい虚無を判別することが困難である。さらに最近の人っぽい虚無は虚数空間(AI)から無限にエネルギーを引っ張ってくるので人が太刀打ちできるものではなくなっていく。それでも太刀打ちしようとしてみなが虚数空間にアクセスしはじめ、無限にエネルギーを引っ張ってくるようになるのだが、そうなると電気代がばかにならない金額になるのでやめてほしいところである。

 

 

 

 

想像力とは塚に置かれた花である

花束を見た。先日のことだ。東京から山梨に向かって車を走らせていた途中、富士山の麓にある水ヶ塚公園に立ち寄った。公園の駐車場から遊歩道を抜けた先には富士山を一望できる腰切塚展望台がある。周りは木々が生い茂っている中、腐れかけた木製の階段を100段ほど上がっていくと展望台が現れる。その展望台の下、富士山を望むように花束は置かれていた。青く美しい花だった。写真におさめようとしたが手が止まった。きっと誰かが誰かを思って置いた花だったからだ。ただ地面に花が置いてある。それだけのことなのに、いろいろ想像せずにはいられなかった。誰が誰を想い置いたのか、その花が持つ物語がなんなのかを。

富士山を望むように置かれていたことから、登山中に滑落して亡くなった方の遺族が置いたものかもしれない。自殺の名所として知られる樹海が近いのでそこで命をなくした方に向けて供えられたものなのかもしれない。バイクで峠を攻める人が多いところでもあるので事故に遭って亡くなられた方へのものなのかもしれない。あるいは、富士山を信仰している人が置いたものなのかもしれない。

 

人はただ単に地面に花束を置いたりしない。無造作に捨てられていると考えるにはあまりにも場違いで、美しい花だった。

思えば誰かの物語を想像するということを長い間、忘れていたような気がしている。言語化の波に押しやられたのかわからないが、人それぞれに物語があって、それは軽々と人前で話せるようなことではなかったり、簡単に言葉にしないものであることは容易く想像できるはずなのに言葉にしない物語への畏敬の念を忘れていたような気がしている。塚に置かれた花はそれに気づかせてくれた。

僕達は誰かを想像する時、言葉が届く範疇でしか表現することができない。それが言語化の限界であり、その限界があるがゆえに言葉を尽くされた表現はその切実さゆえに人の心を打つのだ。ただ、どうしても言葉にならない感情を持つ時が人にはある。それを想像することが想像力のほとんど唯一と言ってもいい役割なのだろう。人が泣くのを見て手を差し伸べる、人が言葉に詰まった時にこそ共感してあげる、塚に置かれた花を見て物語を想像する。

そうした非言語的解釈は言葉が氾濫する今の世界ではむしろ時代に逆行するようなものだ。それもそうで勝手に誰かの物語を想像したり解釈することは時に致命的な間違いになる可能性がある。わからないことには沈黙し、言及することも想像することも回避する。それがある種正しい態度として奨励されるのが齟齬を産まずにコミュニケーションをとる術なのだ。

しかしながらそうした事実への気遣いをするがあまり誰かを想像し、想いを馳せるという営みすらも回避し続け、ついには忘却していたのかもしれない。

誰かの物語を勝手に想像することは、そこに敬意があればそれほど悪いことではない。けれど日常のコミュニケーションがあまりにも「ジジツめいている」ため、塚に置かれた花にでも出会わない限り忘れてしまうものなのだろう。花を媒介にして見知らぬ誰かが誰かを思う物語を想像する。そうでなければ想像力を発揮する機会などほとんどなくなってしまった。言い換えれば人はなにかを想像する時、媒介が必要である。塚に置かれた花に出会った時、人は考えずにはいられないからだ。おそらくは宗教だってそうなのだろう。今より人が自然に近かった時代には多くの媒介があったことで様々な想像がなされ神や信仰が生まれていたのかもしれない。

そこまで大げさな話でもないのだが、想像力とはおそらくひとりでに立ち上がるものではない。もっと具体的な産物であり、想像力とは塚に置かれた花それ自体であるのだろう。



余談

腰切塚展望台はずいぶん綺麗な場所だ。周りには富士の樹海が広がり、歩いていると飲み込まれそうな雰囲気がある。そこに置かれた異物としての花束はひときわ目を引くものだった。展望台からすこし歩くと腰切塚噴火口があり、遊歩道を脇にそれた先に大きな穴が口を広げている。富士山特有の火山灰を含んだ土壌の荒々しさと、岩にはりつく苔の静けさがどこかアンバランスな印象を与え、訪れる人の息を飲ませる。さらに奥にはいると青木ヶ原樹海が広がっているため、ここから自ら命を絶っていった人がいたのかもしれないと想像せざるを得ない場所だった。風光明媚と言えるような場所ではなく、どこか物々しさが漂う場所であるが、だからこそそこに置かれた花束は一際目を引くものであった。