メロンダウト

メロンについて考えるよ

パパ活はカルトと同じだからやっちゃいけない

なんでパパ活してはいけないのかって記事だけど

倫理的な側面から言えばパパ活がやっていることはカルトと同じだからやっちゃいけない。パパと女性との関係を考える時にパパ側のことを考える人は多くないけど、パパ側こそがパパ活においては被害者なのではないか。そんなふうに見えている。

パパ活においてパパ側のことは単に需要としてしか捉えられていない。しかしそうではないだろう。若い時に女性と恋愛してこなかった思い出を取り返そうと思っていたりもっと言えば単純に寂しかったりそういうどうしようもない感情のすえに女性を買うことになる。女性とデートするのに何万円もお金を払うことは、はたから見たらわけがわからないけれど感情の底にある欠乏感を埋めるためには他にしようがないのだろう。そういう寂しさとか欠乏とかがあってそういう人に救いを与えて対価としてお金をもらうのはカルト宗教や麻薬のそれと似ている。

カルト宗教も麻薬のディーラーも悪人とされるのにパパ活をする女性が悪人扱いされないのはけっこう不思議で興味深い現象である。

理由は若い女性の無謬性によるところが大きいのだろうけど、無邪気さによって免罪されているだけで本質的にパパ活はカルト宗教が弱者に救いの言葉を並べるのとなんら変わりはしないと僕は思っている。

仏教やキリスト教のようなものとは違い有償で嘘の言葉を言って対価をもらったりあるいは嘘の体験によって慰めたりすることは悪と断じていいものだ。えてして人間の感情は高く売られる。それがどうしようもなければどうしようもないほど価格は高騰していく。カルトにはまって財産をまるごと失ったなどありふれた話であるがパパ活においてパパが女性をわけのわからない値段で買うのもその感情のどうしようもなさゆえだろう。人間の感情の価格は高い。カルトはそれを意識的に操作しようとするがパパ活は無意識にやる。自覚がないぶんたちが悪いとも言える。

 

その女性がどれだけかわいくてどれだけ無邪気でも関係がない。その関係性が嘘である以上、その行動は悪なのである。倫理は実存に先立ってこそ倫理としての意味がある。その点で無邪気さは明らかに悪性である。無邪気さが許されるのは実存的に力を行使しえない赤子だけであり若い女性であることは力であり加害性を持ちうるものだ。

パパ活において当然のごとく女性は男性の感情を拾おうとはしない。単に役割をはたしてお金をもらう以上のことではないみたいに考えているがそんなコンビニバイトみたいなものではないはずだ。関係性を買う一部の男性は体験を通して心の欠乏感を埋めるために安くないお金を払っている。その価格は理性的に判断された価格とは言い難いだろう。

大人であろうと男性であろうと女性であろうと誤った判断をして誤ったものに吸い込まれていくことはよくある。それに大枚をはたくこともよくある。

カルト宗教にはまる人だったりキャバクラやホストもそうだしもっと言えば不倫や犯罪、お酒なんかもそうかもしれない。

大人が行動する時そこには一定の責任が伴うけれどだからといってその行動が理性的な行動かと言い切れるかというとそうでもない。人間は自分の感情の前には服従するしかなくそれを埋め合わせてくれるものを目の前にしたとき理性が機能しなくなることがある。

パパ活においてパパ側は被害者の側面を持つ。加害したのは誰か?といえばパパ活する女性ではない。パパの過去の経験だったりその人の感情の歪さだったりもっと抽象的に言えば金でしか恋愛できない境遇だったりそういう諸々の人間的ゆがみが現実になって出てくると馬鹿みたいに価格が高騰して市場に陳列されることになる。

それは別に新しいことではない。そういうものに目をつけたビジネスはごまんとある。書いたとおりカルトもそうであるし占いも麻薬も酒もたばこもそう。そういう人間の感情的な弱みにつけこんだビジネスは儲かる。感情的な穴を埋めるために人は無尽蔵にお金をつぎ込むので儲かる。儲かるけれどなんでそれをやっちゃいけないのかといえば

それは人間のセンチメント、つまり倫理に反するから以上のものではない。それがわからない人は非道い人だと思います。

慈悲的差別と差別感情の哲学

慈悲的差別の記事読んでなるほどなあと関心しました。

note.com

同時にこういう逆説的に差別を論じてその表裏がいかに危ういかを論じていた本があったけどなんだっけか考えていたのですが

中島義道さんの「差別感情の哲学」がそれだと思います。。

この本以外にも「善人ほど悪い奴はいない」などにも同様の内容が書かれています。中島さんの哲学を通して語られていることは善と悪の二重性でありすべての物事には表と裏があること。そしてその表と裏は一体であり、表が善で裏が悪であるといったような感覚はすべてその面を眼差す側が立っている場所によってのみ決定されうる。感覚的善性を論理的に批判することが中島さんの本に書かれていることでした。

ずいぶん昔に読んだっきりなので具体的内容は覚えていないのですが抽象的な言い方をすればそのようなことが書かれていたと記憶してます。

中島さんだけでなくこのブログで書いたフーコーも狂気と理性の関係において狂気は狂気のみであらわれることはなく理性側の眼差しによってのみ現前するのだと書いています。

SNS社会とミシェル・フーコーと理性の逆流 - メロンダウト

 

 

慈悲的差別もそういう類いの話なのかもしれない。読んでいてそう思いました。

いわゆるミクロに正しい行動がマクロに正しい行動とはならない。ミクロに正しいとされる慈悲的行為はマクロには差別を生む土壌となりうる。その通りだよなあと。

 

愛情なども典型的でミクロに誰かを愛することはマクロには誰かを愛しえないと決定することになります(論理的には)

例えばアイドルが結婚した時にファンはショックを受け茫然としてしまうといった事態がよく見られます。そのような事態をひきおこすのであればアイドルは結婚しないほうがマクロには正しいはずです。何万人といるファンの落胆を総量として見積もったら結婚した2人の幸福の総量よりもファンの落胆のほうが大きくなることは間違いない。マクロな視点で功利的にのみ考えればアイドルは結婚すべきではないと言えてしまい、これも合成の誤謬と言える。けれどそれが同時にいかに馬鹿馬鹿しい言説かも僕達は知っている。

 

ミクロに正しい行為がマクロには正しくない行為となる。合成の誤謬のもともとの意味で言えばミクロな個人は貯金したほうがいいけれどマクロではみんなが貯金すると経済が回らなくなる話もそのひとつと言えます。

 

こういったミクロな行為が意図せずにマクロに悪影響を及ぼす話は特段珍しいものではないような気がします。というかめちゃくちゃある。

 

たとえば「夢」も差別構造を生み出している

やりたいことを見つけてやりたいことをやりなさいといった常套句があるけれどミクロには夢を見つけた個人は彼の人生を良い人生にしうる。しかし夢を見つけることが大切だといった言説が流布されると同時に夢を持たない人は駄目だといった差別感情を生むことにもなる。つまり誰かが「夢は大事だ」などと言った瞬間にそれは差別であると言える。

他にも結婚しているかどうかもそうだしもっと言えば日本人であることを誇りに思うといったナショナリズムにも差別をつくる土壌がある。あとは可愛いなんかもそう。

例をあげつづければキリがないけれどすべての価値観やテーゼといった種類の言葉はすべからく差別的であるとすら言えてしまう。

 

慈悲的差別が問題としているのもまさにそういう構造上の問題と捉えることができます。

親切心からくるミクロな善行がマクロには差別を生み出していることを慈悲的差別と呼んで女性は駄目だといった個人による絶対的な心理的差別を敵対的差別と呼んでいるけれど

敵対的差別もまた慈悲的差別によって起きていると考えることができます。

ミクロな善行がマクロな差別を生みマクロな差別的言説が流布されるとミクロな個人に「差別的思想」を与える。つまり差別感情は還流するのであってそれは善と悪といった表裏が存在する限りなくなりはしない。

ここでいう善と悪はもちろん女性差別のことであるが女性を差別するのは駄目だと言ってその考えに基づく善行を行った時にその善行はマクロな還流を経て別の個人が悪行として採用することになる。その還流した結果起きている事態にミソジニーがあるけれどそれが典型と言えます。

善行を行える余裕のある男性とその善行を受ける女性とその善行がいかに差別的かを眼差すミソジニストがいてそれはすべて同時に存在してしまう。

 

これは何も女性差別に限った話ではない。

ネット右翼ナショナリズムの負の側面にも同様のことが起きている。日本を誇るべきだといった善き考えがマクロには民族主義となりそれは容易にミクロに還流し嫌韓、嫌中といった事態を引き起こす。

 

「価値」として提出されるものにはほぼすべてに原罪としての悪性が付与される。

しかしその価値が差別構造を生むとしてもその価値全体を否定するものになるかは検討する必要がある。それを諦めるのか、それともそれと付き合っていくのかが唯一の選択であってそれが善であるか悪であるかは前段として間違っているのでしょう。事はそれほど単純ではない。それを僕達は知るべきだと言及記事は教えてくれた。

 

国家という概念が差別的な性質を持つことは書いたけれど僕達は国家そのものを否定したりはしない。それには様々な要因があるけれど社会保障や公共事業、年金など差別をおしてでも維持するべきと多くの人が選択しているからだと言える。

 

これが男女になると途端にややこしい話になってきます。女性が弱い存在で保護されるべきだといった考えは言及先記事でも書かれていた通り、女性を優遇し下駄をはかせるべきという結論になる。男性が女性に奢ったり優遇したりするのもこの保護的観点からなっている。しかし女性を優遇することは男性への差別だという問題も同時に出てくる。

そうなると女性に下駄をはかせなければいいではないかとなるが自然状態で男女が競争したら男性が支配的になる。

つまり女性に下駄をはかせるかはかせないかがフェミニズムにおける選択であるがそれは同時に男性差別をどうするのかこそが問題となってくる。女性を優遇することは相対的に男性を冷遇していることになるが女性を優遇しなければ男女平等とはならない。フェミニズムはそういうジレンマを抱えている。

 

しかし僕はこの問題は早晩解決するのではないかと楽観的に見ている。今の労働環境において男性に優位性がある職種はそこまで多くない。過去そうであったように自然状態で男性が勝つ資本主義の構造は遠からず終わるんじゃないかと思っている。

サービス業などでは女性のほうが労働者として優位性があるので女性に下駄をはかせる必要はなくなる。その女性の優位性が女性の身体的に不利な条件(生理、出産など)と相殺して男性と同程度の生産性を持つようになり労働環境における男女平等は勝手に実現するのではないかと。

仮に女性が優位になったらその時は女性は男性に食事を奢るなど優遇するべきとなる。女性は男性のように平等にふりまく性的な動機が少ないのでそうはならない気がするけれど。

しかしまあなんとか頑張って生きていこう(てきとう

 

長くなったのでまとめるとミクロな善行はミクロに留めておいてマクロには還流しないほうがいい場合もある。

結論を言えばアイドルは結婚を報告しなくていいってことですね

僕がはてなブログを書く理由

あざなわさんやシロクマさんがはてな村の言及文化について書いていた。

p-shirokuma.hatenadiary.com

azanaerunawano5to4.hatenablog.com

 

自分もけっこう長いことはてなにいるのですが「はてな村」という言葉を見るたびにそれはいったいなんだ?と困惑するところがある。

たぶんダイアリー時代を知らないのでそのころの風習がつくっていた空気のことを言うのかなと勝手に理解してたりする。なので自分がここで書くことはおおむねはてな村とは関係がない。ごく個人的に僕がブログを書く理由であるがそれは同時にはてな村的であったりもするのかなと思っている。

 

記事を読んでいると議論するプラットフォームがブログからツイッターに移り、それに伴い長文で言及しあうことが少なくなったと書かれていた。確かにそうなのかもしれない。僕はいまツイッターをやっていないのでいまのツイッターの議論がどのようなものなのかよくわかっていない。たまにはてなブックマークに流れてくるのを見ているとどうにも刹那的な印象を受ける。短文ゆえに言外の文脈を無視してツッコミを入れる人が多いのかなと。

 

個人的に思うのはツイッターのようなSNSはより現実のコミュニケーションに近い。実際、通信手段としてのみツイッターを使っている人もかなり見る。あとはそれぞれの仲間で話題について語り合うみたいな昔で言うmixiのコミュニティのように使われていたりもする。 

そうなるとよりコミュニケーションがネタ化していく。現実にもコミュニケーションは属人性に依存しているところがあり、誰々はどういう人だからこういう手段でコミュニケーションをとるみたいな相互信頼の上に成立している部分が大きい。

そういうネタ的なコミュニケーションは大事だと思う。僕もそういう仲間内で閉じた意味を持った言葉によるコミュニケーションは大事だと思うけれど、一方でそうではない場所が僕にとってのインターネットだった。

つまりコミュニケーションがネタ化しないフラットな世界が僕にとってのインターネットの原風景なのだ。

 

 

ツイッターのように仲間内で固まり繋がるのとは違い、はてなはてな村とは言いつつも村民意識がそこまでないように見える。実際、このブログもけっこう長いこと書いているけれど「友達」と呼べるような方もそこまで多くない。何名かはそう言えるのなかなと勝手に思っている方もいるけれど事実上、孤独にブログを書いてなんの積み重ねにもなっていないし瞬間的に読まれ瞬間的に反応があって瞬間的に終わっていくだけである。そして僕はそれでいいと思っている。

例えば僕がここで友人やはたまた恋人を見つけたとしたら僕は僕のブログをネタ化せざるを得ない。そうなればもうフラットに書くことはできなくなり、多少なり僕は僕の属人性に従属せざるを得ないだろう。

いやそういうものも僕は悪くないとは思っているのだよ。結局、自分なんてものは他人から与えられる以上のものではないし現実には僕は僕をやっていて僕が僕であることに不満はほとんどないのだけど

ただ同時に僕はそういうものとは「別」な場所としてインターネットを認識してしまっている。こういう考え方自体が古いのだろうけどインターネットが現実とは別の場所として認識する世代と現実を補填する手段としてインターネットを使う若い人がいて自分はどうしようもなく前者なんですよね。

 

その点ではてなのような属人性によらずいっさいの権威を認めないフラットなインターネットは非常に好ましくすらある。コミュニケーションはほとんどネタ化されず、権威主義的でなくそれでいて冷笑主義でもないネットコミュニティーって今ははてなぐらいじゃないのかな。

 

昔のはてな村は良かったぞと書いていてそうなのかなあと読んでいて思うんだけれど懐古とか権威とか積み重ねとかそういうものになんの意味も見出さないところがはてなはてな的であるところだったりするのではないか。

おそらくは、はてなのそういう部分に僕は吸い込まれていったんじゃないかとは自覚している。

ツイッターはアルファツイッターの時代からフォロワーが多い人間の発信力に依存していてひどく権威主義的で議論の場として向くとは到底思えない。それは140字という制限を抜きにしてもそうだし

フォロワー数の多い人の意見がトップダウン式に拡散する構造である以上、140字では一般の人のツイートは「反応」にしかなりえないように見える。それははてなブックマークも同じでまともに意見を書くときに140字で何か言えるとは思えないし仮に言っているように見えたとしたらその言葉は相当注意してみる必要があるように思う。そんなに単純化されて言えるようなことはそもそもそんなに多くないはずだから。

 

なにかまとまりがなくなってきたけれどそんなところです。反応といえばこのブログこそ反応の権化みたいなものかもしれませんがそれもまたネタ化されないコミュニケーションの世界では、どうでもいいものなのです。