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平等からの逃走?とリベラルの瓦解

リベラルは差別を嫌い平等を掲げる政治思想というのが一般的な認識だが、ここ数年のリベラル勢力の発言を振り返ると攻撃的な物言いが少なくない。

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直近の例では東大教授の本田由紀さんが皇族の方を指して「遺伝的要因の恐ろしさ」とSNSで発信したことが記憶に新しい。この発言に関しては麻生太郎さんへの婉曲的批判だというのが本田さんの主張ではあるが、遺伝的要因というのは言葉として強烈すぎるため、どのような形であれ人にたいして使うべき言葉でないことは確かだ。

 

今回の本田さんの発言のように政治勢力としてのリベラルは狭量で攻撃的であることはあらゆるところで言われている。それが選挙結果にも表れているのでもう日本のリベラルはこのまま萎んでいくのだろうなと個人的には思っている。なので政治勢力としてのリベラルは誰が何を言うまでもなく、中道改革連合が解体したように、もう勝手にいなくなると予測しているので数年前のようにここでリベラルを殊更強調して批判してもしょうがないと考えている。ただ、終わりつつあるリベラルを見ていると「そもそも人間にリベラルという高邁な政治思想は耐えられるものではなかった」のではないかと、そんな思いを持つようになった。

 

リベラルが高邁だと書くとそれだけでそんなことはないと批判されそうだが、リベラリズムがひとつの目指すべき社会像を提示してきたことは間違いない。誰もが自由を体現し、平等で差別のない公正な社会が正しい社会だというのはおそらく多くの人が同意するところである。但し書きをするのであれば差別をしない人間がいない社会はありえないし、横並びの平等には耐えられないし、公正に見える権力だってそのうち腐敗してしまうと付記すべきであろうか。

 

自由に耐えられないと書くと思い出すのがエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』である。すごく簡単に内容を紹介してしまうと人間は自由になると孤独になり孤独になると極度な人間関係であるマゾヒズムやサディズムに堕ちると書かれていた。人間は自由へと逃走し、自由からも逃走する。人間の深奥を突く名著である。

思うのは、平等にも似たような側面があるのではないかということだ。人間は平等になると自分が自分である必要性(アイデンティティー)がよくわからなくなる。誰もが平等であるとは言い換えれば自分と他人は等価であるからだ。自分と他人が等価であるということは入れ替え可能だということであり、入れ替え可能な存在であるということは別にいまここにいるのが自分でなくてもかまわないという実存的不安に常に晒されることになる。

ましてや資本主義社会での平等は誰もが「平等な競争」に晒されることになるので能力やスペックが重要になることでより強い不安を伴う。つまり平等を社会に実装するとアイデンティティーが揺らぎ、実存的基盤が消失し、平等な競争に晒されるようになるので言葉にならない閉塞感が蔓延するようになる。

不平等な社会であれば仮に自身が不遇な立場に置かれていてもどこかに原因があってそれを取り除けば生活はよくなるかもしれないと考えることができるが、平等な社会における平等な競争の中では自身の不遇は自身が招いたものであると考えるしかなく、そこでは口を噤みながら、不安に耐え、努力するしかなくなってしまう。映画のように、不平等な環境に置かれた個人が敵(不平等)を打倒するために戦うというのはもうあまり現実的ではないのであろう。敵などいない、だがしかし、よくわからないが不安である。そして、自分が不安であること、その原因のなさに耐えられなくなると、たとえば出生にその原因を求めたり、陰謀論を駆使して無理やり政治に原因を求めるようになったりと、今度は不平等へと逃走するのである。結論として人間は平等が徹底された社会でたちあがってくる自分が自分である必要がないという不安に耐えられないのであろう。リベラルが掲げる平等はそうした人間の感情や実存と結果的に衝突することになった、というのがここ数年でのリベラルが失敗した一因ではないだろうかと愚考するところである。

 

しかしながら当然、不平等にだって耐えることができない。誰かが不当な利益を得て悠々自適に暮らしていれば嫉妬するし出自や立場ひとつで人間としての格が決められるような社会に耐えることだってできやしない。経済的な格差に怒りを覚えないことも不健全である。だからみな表面上は平等¥を肯定する。

けれど、その一方で頭のどこかでは平等ではないもの、自分が自分であるためのよすがや他人と比較不可能な価値を求めている。だからみな恋愛をしたり家族をつくったり友情を育んだり、仕事をしたりする。けれどいまや恋愛も家族も仕事も平等な競争の上に成り立っていて、自分と他人が入れ替え可能な存在として交換されるかもしれない不安と常に隣合わせになっている。そのような不安を超克するためにみな建前(平等な競争)が本音(実存的基盤)になるように並々ならぬ努力をしている。それどころかどうやって平等な競争を克服するかの作業、仕事に人生のほとんどの時間を使っている。そうしていつしか建前と本音が混ざり合ってどうでもよくなることをもってして「大人としての成熟」と呼ぶのであろう。けれど、おそらくはそのような果てのない作業を繰り返していてもどこかで薄っすらと、自分と他人が平等に比較されたら「自分よりもっと良い人がいるのではないか」「自分よりもっとできる人がいるのではないか」「自分がここにいる必然性は実のところないのではないか」という一般的には未熟と言われる観念が消えないのである。



ところで、子どもか大人か、という問いは実にくだらない。大人になってわかったことは大人はみなカギ括弧つきの「大人」でしかないからだ。ただ、リベラルがいうところの大人は成熟した理性的個人という意味を含んでいる。差別をしない自由で公正な個人とはようするに大人のことであるからだ。そのような意味で大人という言葉を使うのであればおそらくリベラルが失敗した原因は誰もが大人になる社会を目指しすぎたことにある。僕達は大人になってもどこか子ども心を持っている。いわんや平等な社会というのは大人になるための実存的基盤を獲得することに苦労する社会である点で童心をひきずりやすい社会とも言えるのだ。昔はそれこそ武士が15歳で元服して大人として扱われ、後宮では10代前半で仕える人も珍しくなかった。一般家庭でも多くの子どもは働き手として期待され生を受けることで現代のようにアイデンティティーの形成に苦しむことはそこまでなかったと推測される。もちろんこれらは現代の価値観では児童労働にあたるため虐待であるが、それでもただ一点、早く大人にならなければならない社会では自分が何者であるかに戸惑うことは今よりも少なかったのであろう。

そうした悪しき慣習から抜け出し、すくなくとも日本ではまがりなりにもみなが自由で平等な社会に生きているわけだが、翻ってみるとそうした社会では大人になりきることが難しい。

それに苛立ったリベラルはみな早く大人になれと言う。しかしながら元服を迎えた武士が両親に求められるのと違い、大人になれと発するリベラルと僕達との間には関係性がなにもない。親でもないし友人でもない人間に啓蒙される筋合いはないのである。リベラルがSNSやメディア上または講演会などで「大人になれ」と言っても「いや待てお前誰だ」となってしまう。

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つまり単なるアナウンスによって人は大人になることはできないし、リベラルの理念である自由や平等は人間の本質と衝突する困難を抱えているのでリベラルはSNSで発揮するその切れ味の良さとは裏腹に社会にリベラルを実装することは果てしなく困難なものなのであろう。

日本のリベラル勢力が先の選挙でそうだったようにほとんど半自動的に自滅しているのとは別に、リベラルという政治思想そのものにガタがきはじめているのが世界でも日本でも起こっている。それがこれからどうなるかわからないけれど、個人的にはいまの日本社会のような「生半可なリベラル」が平和という意味では良いと考えてはいるものの、それも今後どうなるか、僕のような子どもには、正直なところ、よくわからない。

人新世の黙示録を読んで思った違和感〜ハイエクに向けた批判をマルクスに向けないのは何故か〜

斎藤幸平さんの新著『人新世の黙示録』を読んだ。

 

軽く要約すると

前著『人新世の資本論』を発行した時よりも気候崩壊は進んでいて現在はソフトランディングすることが不可能な「危機のフェーズⅡ」に突入しており、国家のシステムに踏み込んで社会を変えることが必要な段階に入っていると示されていた。そのような前提の上に立ち、現在みなが内面化しているハイエクの呪縛(自由市場擁護論)を解き、マルクスのプロレタリアート独裁を再考することで「エコロジー独裁」を導入し、コロンビア・エクアドル・第一次大戦前のオーストリアのような社会主義を実装した国からヒントを見つけて「暗黒社会主義」を進めるべきとの主張が書かれていた。

 

前著では脱成長コミュニズムが最終的な結論として書かれていたが、今回はさらに踏み込んで国家の役割を抜本的に見直すことでよりラディカルに気候危機に対応しなければならないとの見解が示されていて斎藤さんの危機感がより強く伝わる本になっている。

 

構成としては気候危機の状況を総括し、現在は恒久的戦時経済であるとの見方を提示し、そのためには資本主義を制約する方向に向かわなければならないとして本書は展開されていく。次に資本主義にブレーキをかけるためにはハイエクの呪縛を解く必要があるとの見方を示す。そこでハイエクの欺瞞(計画経済が全体主義を招くというハイエクの認識は、資本の専制が全体主義を招いている今の状況からは乖離している)を指摘し、かつての経済計算論争が時代遅れであると喝破し、現在の技術力をもってすればデジタル社会主義は実現可能であると展開していく。そこで社会主義や独裁を再考するよう読者に促す。独裁という言葉が持つ恐ろしさを脱臼させ、本来の意味の独裁には「限定的正統性」があることや中央集権型ではない民主的独裁の可能性を提示した後期マルクスの「プロレタリアート独裁」を引きながら「エコロジー独裁」への道を探っていく構図になっている。



斎藤さんも最後の章で書かれているように今の先進国で社会主義が可能かと言えばかなり疑わしくはある。社会主義が実現可能かどうか問われれば極めて難しいと言わざるを得ないと思う。ただ、気候崩壊をどうするのかという問題意識はみなが持つべきものであることは間違いない。最近ではネパールの土石流が温暖化の影響だと言われていたり各地で気候崩壊の兆しは見え始めている。なんにせよ人々が政局に囚われ左翼だ右翼だとやっているうちに地球環境がまずいことになっていくのは避けようがなく、そのためにできる方策を考えなければいけないと思わせる本だった。



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もうすこし細部に立ち入ると『人新世の黙示録』では資本主義の「直線的進歩」が終わりつつあると書かれていた。資本主義には段階があるというのだ。斎藤及びマルクスによると資本主義は産業→商業→金融→レントの順に進歩していく構造になっているという。時代が進むにつれて資本の中心は移動していき、産業革命からフォーディズムを経てポストフォーディズムになり金融市場がその中心となった果てに今はGAFAMに代表されるデジタルプラットフォーマーがレントを徴収する時代であると書かれていた。

そしてそのレントの時代に資本主義の直線的進歩は終わるというのだ。

実際、新しい産業はかつてよりも生まれにくくなっているし資本主義が単なる椅子取りゲームのようになっているのは感じることがある。労働者ほど馬鹿を見るためお金を持っていることの正当性はもはや誰も信じていないのではないか。グローバル企業がレントシーキングを進めることで労働者にしわ寄せがいき、エッセンシャルワーカーの給料は変わらない現状を見ているとたしかに資本主義の直線的進歩は終わりつつあるのかもしれない。特に日本は失われた30年と言われていたように新しい産業が出てくることはほとんどないまま停滞した末にみながNISAで投資しているのを見ると資本主義はある意味で終わったのかという気がしないでもない。

いずれにせよ斎藤は今の資本主義はレントを徴収することが主たるものであって本来の意味での資本主義、つまり市場競争によってモノやサービスの質を上昇させていく機能は低下しており、レントによって格差を拡大させていっているに過ぎないとの見解を示していた。実際にS&P500の内訳を見ると有名なテック企業の株価が上がっているだけで他は横ばいになっている。

つまり資本主義は実体経済として見ればその役目を終えたというわけだ。ただ資本主義を内面化している僕達は社会主義が実現可能かなんて考えもしない。ましてや資本主義が終わるなんて考えを持つことは、到底現実的ではない。

その考えを基礎づけているのがハイエクの『隷属への道』であると斎藤は指摘する。ハイエクは計画経済や社会主義が隷属(全体主義)を招くとして新自由主義や市場原理主義を擁護している。その理由として社会に必要なものを実物計算するという社会主義の構想は不可能であるというのがハイエクの言説である。しかしながら斎藤は現在のデジタル技術であれば社会に必要なものを実数として割り出すことは可能であるとの見方を示す。個人的にここが本書で最も気になった箇所である。

 

私には今のデジタル技術で社会に必要なものを実物計算できるのかどうかはわからない。実際には可能なのかもしれない。ハイエクの時代になかったデジタル技術が今はあるのでハイエクが社会主義を批判する論拠となった経済計算論争は時代遅れと言わざるを得ないのも確かだ。ようするに斎藤は「かつてなかったものがある」という論理でハイエクの市場擁護論を批判したのである。ここに本書の隙がある。

というのもハイエクを批判した次に斎藤はマルクスのプロ独という概念を呼び起こすのであるが、マルクスを引用する時には過去と現在の違いがほとんどと言って良いほど勘案されていないのである。マルクスのプロ独はフランスの民主革命であるパリ・コミューンに端を発するものとして紹介されており、民主的独裁の可能性を提示するものとなっている。しかしながら読んでいると民主主義が単に人々の自発的政治活動ぐらいの意味にしか捉えられていないのではないかと思ってしまった。

当然ながら、資本主義が時代と共にその様相を変えていったり時代ごとに技術が進歩していったりするのと同じように民主主義もその様相が変わっていくものである。それは今の政治状況を見れば一目瞭然だ。SNSで政治活動するのが前提となっているため人々は自身の政治信条に近い集団同士で集まるようになってエコーチェンバーに陥っており、パリ・コミューンで行われていたような政治的連帯は望むべくもないというのが「現在の民主主義」というのが僕の認識である。

宮台真司の言葉を借りれば民主主義を民主主義たらしめる民主主義以前的前提が僕達の時代にはないのだ。お祭りで老若男女が無礼講で様々な話をすることもなくなり、論壇は消滅し論破が幅を利かせ、政治的対立は換金材料となり、床屋政談もなくなったうえに、現実ではそもそも他人と政治の話なんかするもんじゃないというのが僕達の民主主義なのである。困っている人がいたら役所に行けと言い、お金がなければ生活保護を受けろと言い、ストレスチェックに引っかかればどこの誰ともわからないカウンセラーに話をし、電車で弱者とおぼしき匂いがきつい人がいれば離れて座る。そのような生活形式で他者に共感しながらそれを政治の声として届けるという営みがどれほど遠いものであるかというのが現在の民主主義の最大の問題であるにもかかわらずそこには言及していなかった。

つまり「かつてあったものがない」のが今の民主主義の状況であるのだが、斎藤はハイエクを批判する時にはデジタル技術の有無という形で「かつてなかったものがある」ことに言及しながらマルクスを擁護する時には過去と現在の民主主義の違いに言及することはなかった。それが『人新世の黙示録』を読んでいて思う最大の違和感であった。

 

私にはハイエクが間違っているかどうかは判断がつかないし、ましてや革命を起こそうなんて勇気も持ち合わせてはいない。しかしながら本を読むことはできる。ハイエクに向けた批判がマルクスには向けられていない。それはすこしアンフェアではないかと思ってしまったことは否めない。

しかしながら気候危機の逼迫観、そして現在の資本主義の行き詰まりや社会主義は決して不可能なものではないことを知るためにはぜひ読むべき本である。

みいちゃんと山田さん騒動から弱者観の変遷を考える

騒動も収まりかけているが、みいちゃんと山田さんの炎上以降、弱者性という言葉を目にするようになってどうにも違和感が拭えないのでなにか書きたくなった。弱者というとかなりセンシティブな話題であるのでできるだけ注意して書いていきたいがうまくまとまるかはあまり自信がない。


まずこの弱者なる言葉だがずいぶん乱用されてきているので定義づけることが極めて難しい概念であることを確認したい。すこし前にトイアンナさんが弱者男性1500万人時代という新書を出されていたのだが中身を読むとコミュニケーションに難がある人、容姿にコンプレックスを感じている人、さらには3K労働者も弱者男性に含まれていて弱者とは・・・みたいな感想を持ったことを思い出す。本の中では弱者男性の定義を16項目に分けていてヤングケアラーや境界知能etcの方を弱者としてカウントしていた。しかしながらヤングケアラーや境界知能は全体として見ればそこまで多いわけではないので1500万人の内訳の多くがコミュ障や容姿のコンプレックスのようないわゆる「普通の男性」によって占められているというのがトイアンナさんの本に当時向けられた批判であった。弱者男性の定義はさておき、重要なのはコミュニケーションに難がある程度のことでさえ弱者の要件としてカウントするのはおそらく一般社会の感覚とそこまでずれていないということだ。お金がない男性をチー牛と呼んだり容姿が整っていない女性が恋愛対象に含まれないことであったりと一言で言えば弱者とは恋愛や結婚をはじめとした「人生における普通のシナリオ」を歩むことが難しい人々のことを指して使われる言葉になっている。


トイアンナさんの場合は、想像するに、自らのことを弱者と感じている人が定義から洩れないよう弱者の要件を広げたのだと思われる。それはひとえに彼女の優しさからくるものなのかはわからないが、いずれにせよトイアンナさんの定義も、そして一般的な見方としての弱者もその意味はかなり広義にわたっているということだ。

そしてこの「弱者の広義性」「ほとんどすべての人間を弱者としてカウントしなければならないこと」それ自体がまさに今起きている問題であるように、僕には見えるのである。

 

これだけ話題である弱者だが、現実に目を向けてみると、そもそも弱者という言葉だけが独り歩きしていて実際の生活では貧困や障害のようなわかりやすい弱者は表に出てこなくなっている。障害のある方は就労支援などの作業所で働き、貧困家庭はケースワーカーがケアしていて地域のコミュニティで包摂する必要がない。「見回り」なんて言葉もいまや死語である。真の弱者という言い方が正しいのかどうかわからないが本当に困っている人を見かけ助けるという経験は専門的な職に従事するでもない限りかつてよりも少なくなっていて一億総中流の時代よりも(実際には格差が広がっているが)社会は表層的には中流になってきている。そんな見せかけの中流の中では小さな差が社会を生きるためのハンデとして立ち上がってくるようになる。そこではかつてであれば単なるキャラや特性として数えられていた容姿の問題や難ある性格が弱者の要件、ようするに能力としてカウントされるようになったのではないだろうか。

(こうした傾向、容姿と性格の能力化はメリトクラシーの問題と関係していると思われる。おそらくメリトクラシーが進んだ背景には性格や容姿の能力化・数値化というのはかなり密接な関係があるのではないだろうか。)

つまり真の弱者を助ける機能が共助から公助へ移行して社会が見せかけの上では中流になるとそこでは小さな差を「新しい弱者性」としてカウントするようになるためほとんど全員が弱者になる。そうした社会では1500万人を弱者男性として数えなければいけなくなる。仮になにか問題を抱えている人がいたとして彼や彼女のことを弱者として数えなければ不平等だと批判されるのは目に見えているのだ。


もうひとつ特徴的なのは、今の時代における弱者とは現実的指標に基づく極めて具体的な概念であると言えることだ。弱者が誰かなのは即座に答えることができる。「青い花」という漢字を読めないみいちゃん、闇バイトに走る少年、教育機会を奪われたヤングケアラー、生活保護者、シングルマザー、あるいは単にお金を持っていない人など無限に数えることができる。そしてこうした具体的な弱者性はその具体性ゆえに陳列され、何が売れるか品評され、コンテンツとして出てくるようになる。みいちゃんと山田さんもそうした弱者の具体化現象のひとつという見方もできるだろう。

 


弱者の具体化と言っても昔からそうなのでは、と思われた方もいるはずだ。しかしながらそれは明らかに違う。というか弱者とはもっと抽象的な概念だった。僕が個人的に弱者や弱さを捉える時に最も先に思い浮かべるのは「人間は弱い」というシンプルな言葉だ。誰が弱者かではない。人間は弱い。具体的な属性によって誰が弱者であるかを判断するのではない。人間は存在として弱いものであるというのが弱さを捉える時には先に浮かんでくる。この抽象的弱者観とでも呼ぶべき考え方は様々な教訓を与えてくれる。誰がどんな弱さを持っているのかわからないので人のことはよく見たほうが良い、笑っていても心の中では泣いているかもしれないなど。

この抽象的弱者観が上述したような誰が弱者かを数える具体的弱者観と違うのは弱者を定義しなくても良いということだ。誰がどんな弱さを持っているかわからないし、そもそも人間は弱いものなのでいつどんな形で失敗するかわからない。失敗して弱さや困難を抱えてもそれでも人間みんなそんなもんだよというある種の絶対的共感を持つことができる。また、「人間なんかみんな弱い。だからこそ助け合ったほうが良い」という形で弱さをポジティブに解釈することができたりする。

いずれにせよ誰が弱者かという「話の仕方」はずいぶん危険なものでほとんど綱渡りのようなものだ。すこし言葉を間違えば誰かの感情を害することになる。また、具体的に誰が弱者かを語り始めるとその具体性ゆえに必ず比較論になる。どちらのほうが辛いか、男か女か、貧困かそうでないか、若者か高齢者か、今か昔か。それらを数字で見える形にして、SNSで共感を集め、誰が本物の弱者か論争が始まり、収拾がつかなくなる。

もちろん誰が弱者であるかという具体的弱者観は人を分類するには便利であるしそのような論説は切り口が鋭く論としての見栄えが良く、誰がどんな境遇にいるのかを理解して判断するには有用であるが、それが有用なのはどこにどれだけ予算を振り分けるかという政策上の話でしかないのだ。

実際の社会におけるコミュニケーションで大事なのは人間の弱さをお互いに埋め合うことであってそのためには弱者を分類するだけでは足りず、もっと抽象的で掴みどころがなく下手をすれば宗教的に見えるほどの観念が必要だったりする。人間は弱いというシンプルな言葉はその橋渡しをしてくれると確信しているのだが、ただ、今の社会では橋を渡った先に誰もいないということがなによりの虚しさなのかもしれないですね。