メロンダウト

メロンについて考えるよ

僕達は訓練されすぎたのではないか〜AIと少子化について考える〜

AIで人類が滅亡するのではないかとそこかしこで聞くようになった。

毎日のようにハッキングのニュースが流れていてこの前はお昼に松屋に行ったらアプリが使えなくて困ってしまった。GMOにも口座を持ってるしタイムズも利用したことがあるし無印もアプリを入れているので僕の個人情報はきっと流出してるのだと思うが、そんなことよりこうした事態が続いていった先にどんな未来になるのかのほうが気になってしまう。

 

豚が肉屋に注文するみたいな話だがChatGPTに聞いたところAIで人類が絶滅する可能性はないわけではないとのことだった。可能性がゼロではないという話で煮え切らない答えだったので今のところよくわからないという話なのだろう。

 

人類が絶滅するかどうかはともかくとして、それ以前にもうすでに僕達の社会ではAIに絶滅させられなくとも加速度的に人口が減っている。このまま行けば80年後には6000万人まで減少する見込みなのでAIがどうこうしなくても今の半分ぐらいまでは「どうせ減る」ことになる。それから100年もすればまた半減するかもしれない。あるいはどこかで人口減少がピークアウトするのかもしれない。わからないが、AIで人類絶滅の話を聞いていると思うのはもうすでにネット社会になって以降、人類は減少しているではないかということである。

 

対面性がないため摩擦が少なく匿名でコミュニケーションがとれるブログやSNS、手軽に見れるショート動画やポルノ、好きな相手とだけ繋がれるマッチングアプリ、どこにでも道案内してくれるGoogleマップ、好みの音楽を教えてくれるスポティファイ、画面をタップするだけでご飯が届くウーバーイーツ、Amazon、ネットフリックス、etc

 

そうしたサービスが出てきて以降、人と(性的にも感情的にもコミュニティとしても)繋がる必要性がなくなってリアルのコミュニケーション頻度が減少したことで出会いが減り、恋愛する人が少なくなり少子化の一因になった点ではインターネットは人口減少装置であったと言うこともできる。隣の部屋に住む人に醤油を借りたことをきっかけに結婚した人もいただろう。道を聞いたことをきっかけに結婚した人もいただろう。そうした雑多なコミュニケーションを自己完結できるようにした結果、リアルのコミュニケーションは純目的的になり、雑念や雑談によって生まれる「機会」が少なくなっていった。

つまり現在危惧されているAIで人類絶滅の話より前に僕達の社会では技術により人が(生まれてくる前に)死ぬ事態が起きているということだ。

これからフィジカルAIが出てきてリアルの仕事が必要なくなる可能性もあるみたいなのだが、今起きていることだけ見るとGoogle検索で調べていたことをChatGPTに聞くようになっただけでやっていることはあまり変わらない。もちろんChatGPTやGeminiを使えばプログラミングや資料作成に画像生成までしてくれる点では威力としてまったく違うものだが出力にかかる手間及び量と正確さが違うだけで本質的にはあまり変わらないと感じている。

昔であればおばあちゃんの知恵袋に頼っていたところをGoogle検索を経てChatGPTになっただけで人間に作用する現象、つまり「コミュニケーションを技術で代替すること」に限定すればAIとインターネットに大きな違いは今のところない。

 

もちろん今言われているAIによる人類絶滅のプランはもっと凄惨なもので、AIがなんらかの目的を達成するための過程(例えば人間がビルを建てる時に地中にいるアリのことを考えないような)によって絶滅すると言われていて少子化とはまったく違う形になると言われている。しかしながら人が減っていくという意味では大枠として変わらない。

そしてなによりも問題なのは僕達がこの事態、少子化をどこか甘んじて受け入れているということだ。人がいなくなる。社会にとってこれほど重大な事態はない。にもかかわらずこれだけ発展した社会では当然の事態であるとすら思っている。実際に少子化には打つ手がない。政府があれこれ政策をやってみてもほとんど効果がない。みんな少子化を危惧してはいるもののそれが今の社会だという形で半ば諦めかけている。人が(生まれてくる前に)死んでいるにも関わらずだ。

 

なのできっと、僕達はAIにたいしても同じように甘んじるだろう。なにせ今訓練されているからだ。人がいなくなっても技術は不可逆であり失くすことはできず社会はそのまま進むしかない。核から始まりデジタル革命にインターネット、そうした技術の波に揉まれた人類が獲得した処世術が技術の必然としての諦念であり、AIにだけそれが適用されないとはとても思えない。そして仮に人類を絶滅させようとするAIが出てきたらそうした人間の習性を突いてきて少子化のような形で間引くことを画策するのではないだろうか。なにせ今、僕達は別に自分以外が、死ぬのは許せなくても、生まれてこないことに関してはそれほど心を痛めることはないのだから。

アガサ・クリスティの小説のように、孤島に集められ、みんなで必死に推理しても全部無駄で、そして誰もいなくなる。そんな事態にならなければ良いが、すくなくとも僕達はありとあらゆることに「慣れすぎる」のだと思う。孤島にも、少子化にも、ネットにも、松屋のアプリにも、そしてなにより、人と話をしなくても良いことに。

フランスのデモとスケープゴートにされる移民

フランスで物価高騰などの生活苦を背景としたデモが各地で行われ延べ50万人が参加、そのデモに参加した人々の一部が暴徒化し略奪を働いたり駐車中の車に火をつける事態になっている。

 

今回のフランスもそうだがアメリカのブラックライブズマターやオキュパイウォールストリートの時にもやはりデモに参加した一部が暴徒化していた。古くはフランス革命だって結局のところ暴力によって王政を打倒したことを振り返ると革命には暴力がつきものだと考えることもできる。しかしながらそうした論調はしばしば批判を呼ぶ。暴力に訴えることは近代市民社会、すなわち民主主義の否定であり、政権を打倒するのであれば選挙を通じて国民の理解を得ることが「正しい」というものだ。したがって今回フランスで起きたデモに関してもやはり否定的な意見のほうが多い。ニュース番組を見ても暴力に訴えるのはやりすぎだというのが論調としては強い。

 

めずらしく論点を整理するとこの議論には3つの論点があると考えられるのでまずそれを確認したい。すなわち「暴力は有効か」「デモで社会は変わるのか」「略奪行為を働いているのは移民か」の3つだ。

 

暴力は有効か

結論から言えば「残念ながらYES」と言わざるを得ない。日本では安倍元総理を白昼堂々銃撃した山上徹也が犯行動機としていた旧統一教会への復讐は解散命令という形で事実上成功している。フランス革命もやはり暴力によって成った。ただ、かつての左翼セクトや革丸派が失敗したように必ずしも暴力によって革命が成功するわけではないことにも注意したい。いずれにせよ成功した例はいくつもあるので大枠としての暴力は有効である場合があるのだろう。

ただ、フランスで起きたデモで問題になっているのは略奪や放火のような暴力が機能するかどうかである。これに関しては「今のところわからない」としか言いようがない。デモに乗じて略奪行為を働く個人だけを見れば悪であるが、行為としての悪が結果としてデモを成功させる可能性がないわけではないからだ。略奪された店のオーナーや店主がデモが起きた原因である政治にたいして異議申し立てをすることがあれば結果として略奪行為はデモに寄与したことになるだろう。放火や、あるいは殺人だって政治を変えることがあるのを安倍元総理の件から僕たちは知っている。そして日本で行われていたような財務省解体デモやSealsによる安保法制反対デモのような穏当なデモでは何も変わらないこともまた知っている。なので暴力は有効かという問いにたいしては「残念ながらYES」と言わざるを得ない。

 

 

デモで社会は変わるのか

これに関しては日本に限って言えばおそらく何も変わらない。今も憲法改正反対のデモが時々行われているがニュースにもなっていない。大声を出して大通りを散歩するのは気持ちよさそうだなぐらいにしか思われてないのではないだろうか。フランスは民主革命の成功体験があるためデモに期待する人が多いけれど、そもそも日本の民主主義は戦後レジームの一環としてアメリカから輸入されたものであって日本の大衆が自らの意志で民主主義を獲得したことはこの国では一度もないのである。言い換えれば日本の民主主義は外付けのシステム、すなわち装備品でしかないため、機能しなくなれば「メンテナンスする」のが専らだ。そのため、フランスのように命がけで民主革命を起こすことは難しい。したがってデモを行っても安保法制反対デモや財務省解体デモの時のように上滑りするだけで多くの国民は「そんなことしても何も変わらない」と内心で冷笑するだけになる。民主主義の権利であるデモをおこなっても心の底から民主主義が大切だと思っている人は日本にはほとんどいないので、デモで社会が変わることはない。正確に言えばデモで社会が変わる民主主義的素地が日本にはない。

このような戦後レジームからの脱却を目指したのが安倍元総理だったのを思い返すと、彼が銃弾に倒れたことはとても意味が深い事件だったと思わざるを得ない。

 

略奪を働いているのは誰か

今回のフランスで起きたデモを巡って略奪を働いているのは移民であるとSNSでまことしやかに言われている。後進国から来た移民がデモに乗じて略奪や放火のような犯罪に手を染めており、この事態を日本の移民政策にあてはめ排外的主張の論拠とする人が散見される。

まずフランスで略奪行為を働いている人が移民である割合だが今回のデモではまだ判明していない。しかしながら3年前のデータはある。2023年にフランスでデモが行われた時にやはり今と同じように略奪行為を働いた人々が逮捕されている。逮捕され有罪判決を受けた人のうちフランス国籍を持っている人の割合は78%、男性である割合が91%、25歳未満である割合が73%となっている。これだけ見ると自国に済む若い男性が略奪行為を働いているように見えるが、フランス国籍を持っている移民もいるので一概に略奪行為を働いた人の大半がフランス人と言うことはできない。ただ、逮捕された人のうち78%がフランス国籍を持っていることを考えると「略奪行為を働いているのは移民である」と言うことは到底できない。フランス政府も2023年のデモで逮捕された人の大半が移民の出自を持つという風聞を公式に否定している。

それよりも逮捕された人のうち25歳未満が73%であることを考慮すると金銭を目的とし、混乱に乗じて略奪する人が多いと考えたほうがまだ的を射ているのではないだろうか。

いずれにせよ略奪行為を働いている人々が移民であると言うことは2023年のデータを見ると風評被害である可能性が高い。

 

ーーーーー

 

フランスで起きているデモの原因は物価高騰や年金政策が原因と言われていて、略奪を働く人の多くが若者であることからも経済的な問題が大きいようだ。日本でも物価高騰が続いていて年金制度も最近は話題にならないが破綻するのではないかと長年言われていてフランスと同じ問題を抱えている。それでもなんとか仮初めの平和や先進国としての矜持を守るために自分達が苦しい原因を外部、つまり移民に求めている。そうして「自分達は大丈夫である」と自己催眠をかけながら氷上の平和を信じているが、水面下ではやはりフランスと同じように生活が苦しい人が増えている。その原因は決して移民ではない。それどころかコンビニや1次産業の現場では移民に助けられてさえいる。生活苦が原因でデモが起きるような社会情勢でありながら移民にその原因を求めることが事実上のガス抜きになっているばかりでなく経済情勢としても日本人がやらない薄給の仕事を移民が下支えしている。つまりSNSで流れてくる移民の瞬間的悪事を見ていると勘違いしがちであるが、移民の役割は思いの外大きいのであろう。

だから移民を際限なく入れれば良いなんてことを言いたいわけではないが、すくなくとも「存在しない移民」をスケープゴートにすることは、日本人の最も重要な文化であるところの「礼の精神」に照らし合わせると失礼に値するのではないかと思うのである。端的に言って、もうみんな大丈夫、なんてことはないのだから。

 

平等からの逃走?とリベラルの瓦解

リベラルは差別を嫌い平等を掲げる政治思想というのが一般的な認識だが、ここ数年のリベラル勢力の発言を振り返ると攻撃的な物言いが少なくない。

b.hatena.ne.jp

 

直近の例では東大教授の本田由紀さんが皇族の方を指して「遺伝的要因の恐ろしさ」とSNSで発信したことが記憶に新しい。この発言に関しては麻生太郎さんへの婉曲的批判だというのが本田さんの主張ではあるが、遺伝的要因というのは言葉として強烈すぎるため、どのような形であれ人にたいして使うべき言葉でないことは確かだ。

 

今回の本田さんの発言のように政治勢力としてのリベラルは狭量で攻撃的であることはあらゆるところで言われている。それが選挙結果にも表れているのでもう日本のリベラルはこのまま萎んでいくのだろうなと個人的には思っている。なので政治勢力としてのリベラルは誰が何を言うまでもなく、中道改革連合が解体したように、もう勝手にいなくなると予測しているので数年前のようにここでリベラルを殊更強調して批判してもしょうがないと考えている。ただ、終わりつつあるリベラルを見ていると「そもそも人間にリベラルという高邁な政治思想は耐えられるものではなかった」のではないかと、そんな思いを持つようになった。

 

リベラルが高邁だと書くとそれだけでそんなことはないと批判されそうだが、リベラリズムがひとつの目指すべき社会像を提示してきたことは間違いない。誰もが自由を体現し、平等で差別のない公正な社会が正しい社会だというのはおそらく多くの人が同意するところである。但し書きをするのであれば差別をしない人間がいない社会はありえないし、横並びの平等には耐えられないし、公正に見える権力だってそのうち腐敗してしまうと付記すべきであろうか。

 

自由に耐えられないと書くと思い出すのがエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』である。すごく簡単に内容を紹介してしまうと人間は自由になると孤独になり孤独になると極度な人間関係であるマゾヒズムやサディズムに堕ちると書かれていた。人間は自由へと逃走し、自由からも逃走する。人間の深奥を突く名著である。

思うのは、平等にも似たような側面があるのではないかということだ。人間は平等になると自分が自分である必要性(アイデンティティー)がよくわからなくなる。誰もが平等であるとは言い換えれば自分と他人は等価であるからだ。自分と他人が等価であるということは入れ替え可能だということであり、入れ替え可能な存在であるということは別にいまここにいるのが自分でなくてもかまわないという実存的不安に常に晒されることになる。

ましてや資本主義社会での平等は誰もが「平等な競争」に晒されることになるので能力やスペックが重要になることでより強い不安を伴う。つまり平等を社会に実装するとアイデンティティーが揺らぎ、実存的基盤が消失し、平等な競争に晒されるようになるので言葉にならない閉塞感が蔓延するようになる。

不平等な社会であれば仮に自身が不遇な立場に置かれていてもどこかに原因があってそれを取り除けば生活はよくなるかもしれないと考えることができるが、平等な社会における平等な競争の中では自身の不遇は自身が招いたものであると考えるしかなく、そこでは口を噤みながら、不安に耐え、努力するしかなくなってしまう。映画のように、不平等な環境に置かれた個人が敵(不平等)を打倒するために戦うというのはもうあまり現実的ではないのであろう。敵などいない、だがしかし、よくわからないが不安である。そして、自分が不安であること、その原因のなさに耐えられなくなると、たとえば出生にその原因を求めたり、陰謀論を駆使して無理やり政治に原因を求めるようになったりと、今度は不平等へと逃走するのである。結論として人間は平等が徹底された社会でたちあがってくる自分が自分である必要がないという不安に耐えられないのであろう。リベラルが掲げる平等はそうした人間の感情や実存と結果的に衝突することになった、というのがここ数年でのリベラルが失敗した一因ではないだろうかと愚考するところである。

 

しかしながら当然、不平等にだって耐えることができない。誰かが不当な利益を得て悠々自適に暮らしていれば嫉妬するし出自や立場ひとつで人間としての格が決められるような社会に耐えることだってできやしない。経済的な格差に怒りを覚えないことも不健全である。だからみな表面上は平等¥を肯定する。

けれど、その一方で頭のどこかでは平等ではないもの、自分が自分であるためのよすがや他人と比較不可能な価値を求めている。だからみな恋愛をしたり家族をつくったり友情を育んだり、仕事をしたりする。けれどいまや恋愛も家族も仕事も平等な競争の上に成り立っていて、自分と他人が入れ替え可能な存在として交換されるかもしれない不安と常に隣合わせになっている。そのような不安を超克するためにみな建前(平等な競争)が本音(実存的基盤)になるように並々ならぬ努力をしている。それどころかどうやって平等な競争を克服するかの作業、仕事に人生のほとんどの時間を使っている。そうしていつしか建前と本音が混ざり合ってどうでもよくなることをもってして「大人としての成熟」と呼ぶのであろう。けれど、おそらくはそのような果てのない作業を繰り返していてもどこかで薄っすらと、自分と他人が平等に比較されたら「自分よりもっと良い人がいるのではないか」「自分よりもっとできる人がいるのではないか」「自分がここにいる必然性は実のところないのではないか」という一般的には未熟と言われる観念が消えないのである。



ところで、子どもか大人か、という問いは実にくだらない。大人になってわかったことは大人はみなカギ括弧つきの「大人」でしかないからだ。ただ、リベラルがいうところの大人は成熟した理性的個人という意味を含んでいる。差別をしない自由で公正な個人とはようするに大人のことであるからだ。そのような意味で大人という言葉を使うのであればおそらくリベラルが失敗した原因は誰もが大人になる社会を目指しすぎたことにある。僕達は大人になってもどこか子ども心を持っている。いわんや平等な社会というのは大人になるための実存的基盤を獲得することに苦労する社会である点で童心をひきずりやすい社会とも言えるのだ。昔はそれこそ武士が15歳で元服して大人として扱われ、後宮では10代前半で仕える人も珍しくなかった。一般家庭でも多くの子どもは働き手として期待され生を受けることで現代のようにアイデンティティーの形成に苦しむことはそこまでなかったと推測される。もちろんこれらは現代の価値観では児童労働にあたるため虐待であるが、それでもただ一点、早く大人にならなければならない社会では自分が何者であるかに戸惑うことは今よりも少なかったのであろう。

そうした悪しき慣習から抜け出し、すくなくとも日本ではまがりなりにもみなが自由で平等な社会に生きているわけだが、翻ってみるとそうした社会では大人になりきることが難しい。

それに苛立ったリベラルはみな早く大人になれと言う。しかしながら元服を迎えた武士が両親に求められるのと違い、大人になれと発するリベラルと僕達との間には関係性がなにもない。親でもないし友人でもない人間に啓蒙される筋合いはないのである。リベラルがSNSやメディア上または講演会などで「大人になれ」と言っても「いや待てお前誰だ」となってしまう。

www.youtube.com

つまり単なるアナウンスによって人は大人になることはできないし、リベラルの理念である自由や平等は人間の本質と衝突する困難を抱えているのでリベラルはSNSで発揮するその切れ味の良さとは裏腹に社会にリベラルを実装することは果てしなく困難なものなのであろう。

日本のリベラル勢力が先の選挙でそうだったようにほとんど半自動的に自滅しているのとは別に、リベラルという政治思想そのものにガタがきはじめているのが世界でも日本でも起こっている。それがこれからどうなるかわからないけれど、個人的にはいまの日本社会のような「生半可なリベラル」が平和という意味では良いと考えてはいるものの、それも今後どうなるか、僕のような子どもには、正直なところ、よくわからない。