メロンダウト

メロンについて考えるよ

嘘なのか正義なのか

良い記事だった。

digital.asahi.com

 

自分がブログをあまり書かなくなった、いや、書けなくなった理由も似たようなものかもしれないと思った。

リベラルどうこうという話もそうなのだが、言葉を尽くしても体を成さないみたいな感覚がけっこう前からある。記事にあるようにネット言論はそれぞれがエコーチェンバーの中に閉じこもりカルト化しているため、政治的なことを書いてもそれは消費されるだけ、という側面ももちろんあるが、それ以上に社会全体が巨大なフィクションの繭で覆われている印象を受ける。

星野さんがリベラル界隈にたいして「遠慮」していたことと同じことがありとあらゆるところで起きていて、誰も本当のことを話さなくなった結果として形式化したフィクションが場を支配している。それは政治に限ったことではなくほぼすべての場所でそうなっている。

すぐ思いつく例として、「出会いがない問題」がある。ハラスメントやコンプラといった規定により職場で女性に話しかけたり食事に誘うことが難しくなった。女性から男性でも場合によってはハラスメントになる。そのような環境の変化によりマッチングアプリで出会う人が増えた。けれどマッチングアプリはステータス競争になるため、職場での恋愛よりも多くのことを要求される。こうしたステータス競争にうんざりしている人は少なくない。しかしながら職場での恋愛が制限されている限り、マッチングアプリにつきあわざるを得ない。そして付き合わざるを得ない状況になるとそこでの勝ち負けが恋愛だという嘘(フィクション)が幅を利かせるようになり、マッチングアプリでの戦略が恋愛の戦略であるかの如く宣伝され、みながその環境に適応しようとして多数派を形成し、いつのまにか嘘(マッチングアプリの原理)が支配的となり、嘘の恋愛が通常の恋愛を超越し、取り換えられる。

リベラルの言論も同じ構造を取る。ある事件が取り上げられ、こんな男女不平等がありましたと特異な例をあげてハッシュタグデモを呼びかけるとその不平等の苛烈さに引き摺られ社会(嘘)は女性にたいして厳しいという認識が広がる。その刷り込まれた認識をエコーチェンバー内で反芻し、強化していき、いつのまにか嘘を全体化し、それを社会の真実だと思い込むようになる。

保守派も同じだ。クルド人がなにか事件を起こす~~~(以下略)

 

こうした倒錯現象がありとあらゆるところで起きていて、そうして出来上がったフィクションが上空を覆っている。

何故このようなことが起きているのか、というのは今の社会が自己肯定社会だからというのが僕の推察だ。なにもかも肯定する。批判よりもポジ出し。そうした風潮が嘘に拍車をかけているのではないかと。

かつての日本社会は自己責任社会と言われ、統計的にも先進国で最も他人に冷たい社会だった。それが個人の多様性を肯定するようになり、まがりなりにも社会が弱者のほうを向くようになったのは素晴らしいことである。しかし他方で多様性の弊害も起きている。

多様性を言い換えれば自己肯定に他ならないが、自己肯定とは個人の足元の多様性を肯定する態度を指す。現に今でも個人は多様であり、上述したようなわけのわからない恋愛のステータス競争や政治的エコーチェンバーから自由である人のほうが多いだろう。ただ、自己肯定が行き過ぎると社会的なことにたいして興味関心が失せていくようになる。上述したような恋愛・政治の変遷に関してもなにかわけのわからない人達がわけのわからないことを言っている、以上の感想を持たない。リベラルがどうしたとかマッチングアプリの社会的作用みたいな話などどうでも良いと考える人が多いだろう。

足元では自由に暮らしながら社会的には物を考えない無謬ならぬ無垢な人が「他方では」数多くいる。スタンスとしては単にリバタリアンとも言えるし、個人的自由主義かつ社会的アナーキズムとも言えると思う。いずれにせよ個人が自由であればそれで良いと考える人は社会への興味関心が薄いため弱者への支援も肯定すると同時にわけのわからないルールが敷かれていてもそれに適応するだけになる。

それが「嘘の横暴」を事実上肯定してしまっているのではないかと。

いや、もちろんこれはよくある話である。似たような話としては無党派層が多いから自民党が政権を取るみたいな陳腐な話に過ぎない。

しかしながら嘘が幅を利かすようになる比率がだんだん下がっているのではないかというのがここで書きたいことなのだ。自民党はまがりなりにも全体の3割の票を得ている。しかし社会を動かすような嘘を生成するのに1割もいらない。

よくインターネットで炎上に加担してる人は比率として見れば極めて少数であると言われる。

総務省|令和元年版 情報通信白書|誰が炎上に加わっているのか

 

現に社会を動かすのに100万人もいらない。10万人動けば社会は変化を余儀なくされる。10万人がリツイートし、メディアが増幅し、それをリバタリアンが肯定する。それだけで事は足りる。

不倫はダメ、みたいな形だけのフィクションもいつのまにかそれが基準になり、その基準に適応した人が勝手にスピーカーになってくれる。そうして増幅された嘘なのか正義なのかよくわからないモノがいつのまにか居る。

社会や弱者のガワを被った嘘が個人の煩雑さを吹っ飛ばし、平らにしていく。

それが普通になると、誰が始めたのかもわからないような観念にみなが踊り踊らされて右往左往するようになる。

僕がここでこうしているように、である。

結論:インターネットやめろ

 

 

ネットで社会は変わらないと言う人もいる。現に何も変わっていないと思えば何も変わっていない。リバタリアンとしての胆力さえあれば事実、何も変わっていないのだ。

しかしながらそう切り離して考えるべきではないように思う。そうこうしているうちにネットで醸成されたフィクションを無視できなくなる時がくる。それが早いか遅いか、あるいは自分か自分の大切な人に降りかかってくるかの違いであり、インターネットをやめたところで無駄と言えば無駄であるのかもしれない。