メロンダウト

メロンについて考えるよ

システムの時代におけるリベラルについて考える

古い動画だけど大変興味深かった。個人と国家の話をされていて、聞いていたらシステムの話を書いてみたくなった。

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鮫島さんはリベラルメディアであるはずの朝日新聞が個人ではなく国家の側につくようになったことで朝日新聞を退社したと語られている。

朝日新聞をはじめとしたリベラルが権威主義的に振る舞うようになったのは様々なところで指摘されているとおりなのだろう。

しかしながらリベラルが国家の側につくようになったというのは少々疑問に思うところがある。僕の認識ではリベラルは国家ではなくシステムの側につくようになったように見えるのだ。

 

リベラルメディアといえば最近だとSDGsダイバーシティLGBTの包摂などを標榜しているものが多いが、これらはグローバル資本主義における道徳システムの一種であるとも言える。SDGsのような人類普遍の価値基準は単一国家では担うことができない抽象度の高い理念であるため、これらを掲げているリベラルは国家よりもより大きな枠組みに適合していると捉えることができる。

グローバル経済では人・物・金が自由に行きかうわけであるが、言い換えれば国家が一義的システムではなくなりその重要度が下がっているということでもある。投票率が低いことからもわかる通り、僕達は選挙権を奪われるよりもAmazonを使えなくなることのほうが困ってしまったりする。そして個人の欲望がグローバル経済というシステムによって囲い込まれると個人を尊重するはずのリベラルがシステムを尊重するという図式になっていく。

 

 

類似する話で近代は「汎システム化された個人の時代」と言われることがある。個人がシステムを使っているようでありながら、いつのまにかシステムのほうに人間が迎合していくようになるというものだ。スマホを使っているのかスマホに使われているのか、あるいはお金を稼いでいるのかお金に稼がされているのかという境界線が曖昧になり個人はシステムをシステムたらしめる部品になっていく、と言われる。

 

たとえば『ブルシット・ジョブ』でも「人は自らの仕事が薄々無駄だとわかっていながらクソみたいな仕事に従事している」というようなことが書かれていたけれど、市場システムが複雑になり労働が専門に分化されると自分が何をやっているのかという認識が曖昧になっていき、仕事を能動的にやっているのか受動的にやらされているのかという区別が磨滅していきよくわからなくなる。遂にはどうでもよくなり、職業差別はいけないみたいな道徳的システム論に仕事というフレームは回収されていくようになる。

労働だけでなく恋愛もそうで、マッチングアプリが隆盛を極めるようになってからシステムによってノウハウ化されたTPOやステータスなどを獲得することで恋愛する機会が増えるようにはなったが、そのような状態だと恋愛しているのか恋愛させられているのかといった意識は問題にされなくなり、恋愛しているという自分、その現実だけが肯定されるようになる。恋愛の定義を考えた時、お金を稼いでいるから、あるいは美人だから恋愛できるというのはその定義からは外れている。しかしながら現実的にはシステムに適応し自己研鑽に励むしかない。そしてみながその適応を自明のものとすれば、もともとの状態がなんなのかは問題にされなくなる。つまり恋愛ってなんだっけみたいな中二病的言説は棄却されていき、恋愛の原義から外れたマッチングアプリ的プレイグラウンドにたいし疑問を挟む人は出てこなくなる。システム化された恋愛環境において個人はシステムに同化するようになるし、同化しなければ恋愛することも難しくなるが、そのようなことをしているとだんだん恋愛をしているのかマッチングをしているのかという自覚や認識が薄れどうでもよくなっていく。果てには失恋が悲劇なのかどうかもどうでもよくなり、システムによって次へと駆り立てられることで感情は二次的なもの、つまりはマッチング上の単なる結節点に過ぎなくなっていく。

 

 

そしてこのような汎システム化の恐ろしいところはシステムをシステムだと切り離せないところにある。

通常、私的領域と公的領域の間には一定の境界線があり、そこでは個人と国家という二項図式によって線引きすることができるが、システムと個人は切り離すことができない。なぜなら、その個人が考えている価値基準が本当にその個人のものなのかは判然としないからである。たとえば誰かが政治的発言をしたとしてもそれはツイッターYoutubeのシステムにレコメンドされた結果内面化した単なる分泌物という可能性だってあるわけである。

 

ツイッターのようなSNSでもテーゼ(道徳)とアンチテーゼ(炎上)が繰り返し投稿されているが、システムが持つ目的(バズやインプレッション)に個人が迎合しているといったほうがいささか正しかろう、とも思っている。ハムスターが回転する滑車の中を走っているみたいなもので、ハムスターは主体的に走っているのと同時に走らされているわけであるが、そこでは能動と受動という区別は意味をなさなくなってくる。人間も同様で自らが走っているのか走らされているのかはよくわからないし、気にもしない。荒野を駆けまわるのをやめルームランナーで走るようになってもどちらにせよ走っているのだから同じだろう、となる。能動なのか受動なのかはついぞ問題にされなくなる。それが汎システム的近代における個人の、なんというか「両動性」ではないだろうかと思うのだ。

 

 

長々と書いてしまったが、冒頭の保守が国家を語りリベラルが個人を語るという枠組みに話を戻したい。今のリベラルがなぜ個人を語らなくなったのかについてである。

結論から言えば恋愛や労働と同じように政治だってシステムに包摂されているからなのだろう。システムに満たされた世界にあってリベラルは個人の自由を代弁するように見えて個人と同化したシステムの代弁者になっている。

リベラルは人類普遍の価値基準である(と信じている)多様性やSDGsを唱えることが多いが、これらは個人の自由を擁護するようでいながらシステムを保守しているに過ぎない。

けれどシステムに満たされていない世界も存在している。

具体的に言えばSDGSを守ろうとして自動車のEV化を進める一方、電気自動車に必須の材料であるリチウムの採掘によって別の環境問題が起きている事例がある。

 

アタカマ砂漠の東部、チリ、アルゼンチン、ボリビアの国境が交わる部分は、「リチウム三角地帯」とも呼ばれているリチウムの重要生産地域で、塩湖や塩湿地、塩原でリチウムの生産が行われている。  しかしながら、塩湖かん水を濃縮する方法によりリチウムを生産する場合、大量の水を必要とするため、生産地域において生活用水や農業用水の枯渇を引き起こす。また、リチウムを精製する際に硫酸ナトリウムなどの副産物が生じるため、適切に廃水処理を実施しないと水質汚染や土壌汚染につながる可能性がある。  チリ、アルゼンチンなどの国にとって、リチウムの需要増は莫大(ばくだい)な富を得るための大きなチャンスだが、古くからそこで暮らしてきた人たちにとっては水不足や環境汚染の要因にほかならないのだ。  例えば、アルゼンチンのサリーナス・グランデスでは、先住民コラ族が 「リチウムにノー、水と生活にイエス」 と抗議活動を行い、ふたつの鉱山会社を塩湿地から追い出している。

「EV = 環境保護」の建前崩壊? バッテリー原料巡って各地で反対運動 「先祖からの農業つぶすな」の声に責任とれるのか(Merkmal) - Yahoo!ニュース

 

 

グローバル資本主義というシステムがEV化を促進すると後進国では生活世界の変化を迫られることになる。

 

同様の問題は『絶望死のアメリカ』という本にも記載されていた。黒人や女性へのアファーマティブアクションや包摂を行えば逆差別という形でひずみが生まれ白人男性の自殺率が増加する事態になっている。映画『ジョーカー』にも同様の社会背景が描かれていたように、つまり個人がたまたま目にしたシステムや正義を遂行すれば既存のシステムに生かされていた人々に犠牲を強いる結果になる。

無論、それでもSDGsを推進するべきだという考えもあるだろうが、南米諸国の環境や自殺率の件からもわかる通り、問題は目に見えないところにあらわれるため、システムの残虐さを知らないままシステムと同化した個人がそれを無邪気に推し進める形になるのは注意すべきだと言える。というのも自覚や認識があれば責任が生じるものの、システムに同化することで「これが目指すべき普遍的価値である」と盲目的になってしまうと責任を問うべき個人はいなくなり、そこにはシステムにくべられた亡骸だけが転がっているという状態になってしまうからである。

 

 

日本にあっても似たような事例がある。去年問題になった統一教会の件である。あれはいわゆるカルト宗教の問題だと語られることが多いけれど、別の側面として政治家がシステムの傀儡になってしまったことも無視できない事態だった。つまり、統一教会がかつて、いや近年でも反社会的な活動を行っていたことは明らかであったにもかかわらず、その被害者は外部化されていたため、政治家は統一教会を選挙システムの集票装置としてしか認識していなかったのであろう。これもまた政治家という個人がシステムの一部分になっていた事例だと言える。

 

 

いわゆる右と左、国家と個人という枠組みが陳腐化して役にたたないとはよく言われるものの、それ以上にシステムが全面化した結果、政治家を含め個人が「どこにいるのか」「何をやっているのか」「何をやらされているのか」がもはやよくわからない時代になりつつあるのだろう。「剥き出しの実存」や「砂粒化した個人」など様々な言われ方をするが、そのように脆弱化した個人が多くなればなるほど逆説的にシステムの作動威力や権威は強力になっていく。リベラルが啓蒙主義のようなスタンスに振れるようになったのもこうした時代背景と無関係ではない。個人の主体がどこにあるかよくわからなくなったうえ、システムに影響された個人の振る舞いがあらゆるところで確認される状況であれば、リベラルが大衆を畜群として捉え権威主義的なふるまいをするのも一定の蓋然性があるように見えるのである。