メロンダウト

メロンについて考えるよ

なぜいま脱成長論が売れているのかの考察

男女の非対称性が資本主義をブーストしてるみたいなことを最近考えている。

女性が男性にたいして経済力を求めることはあまりにも有名であるが、一方で男性自身はそんなに経済力を求めているのだろうか。資本主義に全力でコミットしている人と話をしても根っこにある動機が「女性にモテたい」が多く、男性自身が望んで経済力を求めているのかというと疑問が残る。あるいはワーキングプアと呼ばれている人も生活のためである。そもそも多くの人は働きたくないのではないか・・・

 

脱成長論、マルクス主義が最近話題だけれど男性の経済観念を解体すると資本主義を肯定している人は、驚くほど少ない。

 

日本はかつて「最も成功した社会主義国家」と呼ばれていた。分厚い中流層を抱え、ゲマインシャフトを充実させ、共同体自治をなした。ごく最近そんな時代があった。

しかしながら世界第二位の経済大国となった日本においても資本主義は目的ではなく、共同体や国家を守るための手段でしかなかったのだろう。会社という共同体、家族という共同体を守るために経済活動を行っていた。資本を稼ぐことが共同体を守るという結果につながる時代だったため、資本主義に全力でコミットしていた。それが昭和という時代なのではないだろうか。

その後、アーバナイゼーションが進み、地方が空洞化すると「動機としての共同体」は消え去り、仕事は仕事として考えられるようになった。資本と実存が切り離され、個人として生きる我々は失った自己を探しはじめることになる。「何者かになりたい」という実存がむき出しになったのは近代になってからの悩みで、それ以前は実存が共同体に包摂されていた。前近代では家族・共同体・経済は密接に連関しており、その中で人間は実存を考えずに済んだ。近代になると個人主義が人々をバラバラにし、会社が働くためだけの場所となり、実存の問題と経済の問題を別々に考える必要が出てきた。仕事以外の趣味を持つことや、家族を持つことがことさら喧伝されるようになったのは、実存と経済が分離した近代リベラル社会特有の問題なのである。

そして現代、僕達は「自分探し」「何者かになりたい」という問いをたてることをやめた。資本主義と実存を再結合することで実存の問いを解決しようと試みるのである。金を稼ぐことが実存を掬う手段であり、金を稼ぐことで家族を形成しようとする。そうした中でコスパを重視する人々が出てきて、婚活市場はむき出しの資本主義によって覆われ、我々は資本の運動に飲み込まれていくことになった。

そして、そうした資本の暴走とでも呼ぶべき時代に召喚されたのがマルクス主義、脱成長論、コミュニズム、マイクロ共同体なのであろう。

 

自由恋愛が盛んに喧伝されていた平成において恋愛はロマンとして扱われていた。「二人でいることが楽しい」「貧乏でも笑っていれば幸せ」などの物語がドラマ・小説・音楽などで盛んに書かれ、歌われていた。しかしそれらは資本主義と恋愛が切り離されていた時代における理想論に過ぎなかったのだろう。いまやそうした幻想は機能していない。マッチングアプリや婚活市場、あるいは婚姻率などのデータを見ても、ロマン主義的な恋愛が減少していることは明らかである。

前近代の家父長制社会をマチズモと呼んで非難するのが「理性的な市民」たる我々の主流意見であるが、しかし前近代の「共同体と恋愛を結合させていた時代」と、今のような「資本と恋愛を結合させている時代」の何が違うというのであろうか。男性は恋愛をするためにかつては共同体を守っていた。それが今は金を稼ぐことに変わっただけなのだろう。マチズモの行動原理が変わっただけで、その苦しみは変わっていない。いや、資本主義が格差と切り離せない以上、より暴力的なマチズモに支配されていると言ってもいい。

 

前近代:家族、地方、会社という共同体を守ることを動機として資本主義を動かしていた

近代:生活を実存のありかと規定し、資本主義の領分は仕事のみとなり、自分探しが始まった

現代:資本主義と生活が結合し、恋愛や趣味嗜好までも資本主義の領分となった

 

脱成長論、マルクス主義が喧伝されているのには理由がある。資本主義と恋愛が結合した時代の暴力性に晒されている我々であるが、近代でもてはやされていた自分探しが機能しないことも知っている。あるいは資本主義・共同体・家族・恋愛をすべて結合したような前近代を再現することは、もはや不可能である。ならば資本主義と連結しない別領域の共同体、コモンズをつくることで「共同体として恋愛を包摂する」ことが良い。こうした思考のもとにマルクス復権することになる。

斎藤公平さんの『人新生の資本論』に恋愛のことはほとんど書かれていないけれど、資本主義のオルタナティブをつくらない限り、「不可視化された資本主義マチズモ」は永遠に温存されつづけることになる。そのような危機感を生活のあらゆる場面で実感しているからこそ、斎藤さんの本があそこまで売れているのではないだろうか。

恋愛、性愛、あるいは直接的に言えば性行為は男性にとって極めて重要な問題である。非モテの苦しみは本来、無視できるものではない。しかしそれは自由恋愛の名のもとに温存されつづけてきた。非モテの苦しみは近年でもテロルとして事件になっている。にも関わらず議論されるだけに留まっていた。実際に自由恋愛を解体しようという試みが行われることはなく、玉虫色の結論に収斂していき、生活に戻れば元の木阿弥となる。これは現代にあってより加速し、非モテを苦しめている。

近代では「貧乏でもロマンがあれば恋愛できる」という幻想のもとに、恋愛格差の問題は表だってあらわれてはこなかった。しかしながらロマンが消失し、資本と恋愛が結託した現代にあっては、恋愛は個人で処理できるものではなくなり、社会の問題として認識されるようになった。非モテの議論が文学的な悲哀を語るものではなくなり、社会的な議論となっているのは、こうした時代の背景と無関係ではないであろう。今や恋愛は個人の問題ではなく社会の問題として語られる。そうした状況に一石を投じる可能性があるのがマルクスであり、脱成長論なのである。おそらく『人新世の資本論』で主題とされているSDGsなどに興味がある読者は実のところそこまで多くないのではないだろうか。資本主義がすべてを覆う現代。その暴力性がリベラル・メリトクラシーの名のもとに温存されつづけているからこそ資本主義のオルタナティブを我々は探している。そのオルタナティブマルクスかどうかは自分なんかにはわからないものの、風穴をあける可能性は充分にあると思っている。

脱成長論は「終わった思想」だと見なされる向きが強い。しかし我々はそれを復活させようとしている。共産主義とまではいかなくてもコミュニズムという社会のありかたは、現代の資本主義マチズモよりも幾分マシなのではと考えている。個人的にもネットリベラルと呼ばれる人々の正義には与しないものの、脱成長論自体には希望に近いものを感じている。だからと言って資本主義にコミットしないわけにはいかないわけであるが、しかしコミュニズムには「別軸としての希望」を持ってもいるのだ。

 

関連して言えば脱成長論は女性の上方婚志向を解決する希望としても考えられる。

個人主義化した我々は常に生存戦略を探している。女性も例外ではない。フェミニズムが台頭してきたのも個人主義が関係しているのだろう。女性が地方共同体や家族の中で守られていた前近代とは違い、現代では女性もまた個人としての生存戦略を求められるようになった。その中で出てきたのが上方婚志向及び女性の社会的地位向上を目指すフェミニズムなのであろう。「個人としての女性」は様々なリスクに晒されるのは自明であるが、皮肉にもそうした状況をつくってきたのが今フェミニズムと結託しているリベラリズムなのである。ベタに言えば前近代的な共同体の中で守られていた女性は働く必要がほとんどなかったのではないだろうか。専業主婦が多かったのも生活の条件が先にあった。人間は働きたくない。女性も男性もそうなのだろう。しかし女性が働かなくてもかまわない共同体が解体された結果、個人としての女性を守るためにフェミニズムが要請されるようになった。フェミニズムはあとづけのものでしかない。女性を自由にするためにフェミニズムがあるのではなく女性が自由になったからフェミニズムとして女性の自由を守る必要が出てきた。

今、多くの人が資本主義に苦しめられマルクスを召喚しようとしているように、女性もまた時代の蓋然の中を生きているに過ぎない。そうした時代の条件の中で出てきたのが上方婚志向である。女性が共同体から解放されて個人になると、女性も資本主義に晒され、金を求めるようになる。その結果女性は資本を持つ男性に集まることになる。男女に限らず生活のリアリティーが先にある。

そうした構造をも解体しうるのが脱成長論なのかもしれない。

脱成長論、コミュニズムが提言しているコモンズは国富・私富とは別に公富をを要請する理念であり、不動産や食料などを公富として資本から切り離して考えようとするものであるが、恋愛もまた公共財として資本から切り離せば女性の上方婚志向も逓減するようになるかもしれない。

 

いずれにせよ資本主義が僕達の実存を侵食し、生活のあらゆる場面に影響しているのは厳然たる事実であるが、しかしそれに代わるものを僕達はもてずにいた。

極論すれば僕達は資本主義などいつの時代もやりたくはなかったのであろう。生活のためだったり、家族を守るためであったり、会社を守るためであったりしただけで、いつの時代も手段として資本主義があっただけだ。

いわゆる牧歌的な社会主義国家みたいな「理想」をいまだに見ているのだと思う。それが自由によって成しえなかったのは近代を見るに明らかであるけれど、自由を捨てることなどもはやできない。なればこそ僕達は自由の代償を埋めてくれる何かを欲している。それが脱成長論なのかはわからないものの、自由の限界に直面していることは、多くの人がすでに感じていることではないだろうか。