メロンダウト

メロンについて考えるよ

兵庫県知事選についてのあれこれ

こんにちは

すこし書くタイミングを逸してしまった感があるが兵庫県知事選がすごいことになっていたので思うところを書いておきたい(すこし長いです)

 

兵庫県知事選は選挙前は斎藤元彦氏が再選するはずがないという下馬評だったが蓋をあけてみれば稲村和美氏に20万票の差をつける圧勝で幕を下ろした。
その衝撃が冷めやらぬ中、選挙後に斎藤氏の選挙公報を担当していたとされるPR会社merchuの代表取締役である折田楓氏がnoteに公選法違反とみられる内容の記事を掲載し目下炎上中となっている。
斎藤知事が公選法に違反していたとすればやりなおし選挙にもなりかねないと言われているが、そのへんの話はさておき個人的に気になったのはSNSの影響がどこまで選挙を左右したのかである。


・相殺しあった主張の数々
今回の選挙はパワハラ疑惑で失職した知事が再選したことも驚きだったがそれ以上にYoutubeやXによって選挙結果が劇的に変わった選挙だと言われる。

 

このSNS選挙に関しては様々な意見がある。
「大衆が陰謀論に操作された」「立花孝志の選挙ハック」「Youtubeの宣伝効果」「マスメディアの敗北」「草の根民主主義」が主なものだろうか。
逆に今回の選挙はSNS関係なく改革派である斎藤氏の政策が評価されて再選したと言う人もいる。

 

どれが正解なのかは正直よくわからない。どれもそれなりに正しいように見える。
「マスメディアの敗北」はあれだけ知事のパワハラ疑惑を報じていたにもかかわらず再選したとなれば国民への影響力は失われたと見て良いだろう。陰謀論も投票行動に影響を与えた。Youtubeの影響もあった。それらが相互に関係する形で草の根で支持が広がったのも間違いない。

 

選挙が終わった後でもこれらの要因に関してどれが「当たり」なのかはよくわかっていない。それどころか斎藤知事がパワハラを行っていたのかどうかも今のところよくわからない。
なにもかもわかっていないのが現状である。わからないことだけがわかっている状況なのだがだからこそ元の木阿弥に帰っていったように見える。

いろいろな分析がなされているがつまるところなにもわからないがゆえに既定路線である現職知事の再選になっただけなのではないかと。選挙期間中に紆余曲折あったため、現職知事の再選が衝撃的なものに見えるが、すべての主張が対抗する主張と相殺しあう形になった結果として既定路線しか残らなかったのではないだろうか。

パワハラがあったと言うマスコミの主張はネットメディアの「真実」によってかき消された。県民が陰謀論に踊らされたという分析は、斎藤氏の政策を評価したとする意見と衝突した。選挙中に斎藤氏の支持が拡大した要因についてもSNSによる草の根民主主義なのかPR会社や立花孝志に踊らされていたのか賛否別れているが「どちらとも言える」としか言えない。


・事実であっても陰謀は陰謀
ようするになにもわからないがためにいろいろな意見が錯綜しているのが現状であるのだが、よくわからないことだらけの選挙の中、ひとつ確かなのはどれが当たりなのかに「ベットしたやつら」がいたことである。

 

立花孝志氏がその筆頭だが、斎藤氏のパワハラが行われていたかどうかよくわかっていない状況のまま、百条委員会のことを批判し、委員会は知事と対立関係にあるといったストーリーを流布していた。
具体的に書くと、百条委員会で委員長を務める奥谷氏にたいして「奥谷氏は元県民局長が自殺された原因を隠蔽するようマスコミに働きかけている」といった真偽不明の情報を流していた。さらに奥谷氏の親族が経営する会社が倒産した話を持ち出し、倒産した原因は斎藤知事にあると吹聴し、その「恨み」によって奥谷氏は斎藤知事を追い落とそうとしているかのような話もしていた。
それらは百条委員会を否定して斎藤氏を信じたい人にとってみれば格好の材料であり、ネットで真実を求める人には立花孝志がさながら既得権益と闘うヒーローのように映っているのであろう。この「立花のストーリー」に乗っかる形でYoutubeに切り抜き動画があがりそれを見た視聴者がXで拡散して立花のストーリーが拡散していったことも斎藤氏が再選したひとつの要因となったのはおそらく間違いない。

 

ただ、上述したようにパワハラがあったかどうかもよくわかっていなければ、奥谷氏がマスコミに圧力をかけていた証拠もなく、親族の会社を持ち出すのも論理の飛躍というものだろう。そのため立花のストーリーは縫い目の荒いパッチワークに過ぎない。ハリボテである。
しかし不思議なものでこういう事実がよくわからない状況では「物語が先走ること」はよくある。
有名なもので言えば草津の件がそうだった。女性が権力者に虐げられている物語が先走り、事実関係が曖昧だったにも関わらず草津町長のことを性犯罪者かのように扱い、あまつさえ草津セカンドレイプの街と呼ぶ人もいた。それら「女性の物語」に同調していた人の中にはアカデミシャンがいたことからもわかるように、知性や理性があっても自分が信じたい物語があるとその物語をなぞるように現実を認識するのはなにか根源的な欲望として人間に備わっているように感じるのである。

 

今回の選挙のようになにもわからない状態だとそうした人々の欲望を利用し、物語を喧伝する人間が現れて人々がそこに引きずられていくことがある。
それを牽引していたのが今回は立花孝志氏だった。今後も同じようなことが起きるはずなので個人的な教訓として書いておくとこうした時に大事なことは物語が仮に事実を言い当てていたとしても「ベットしたやつ」を賞賛してはならないことであるように思う。仮に今回、パワハラがなかったとして立花のストーリーが当たっていたとしても僕達は「だからなんだ」と言わなければならない。わからないことをわかっていると言うことは正誤にかかわらず陰謀論なのだから。

 

SNSという釣り堀について
今回、SNSが選挙を変えたと言われているが、実際は疑惑によって右往左往し、対立する意見が相殺しただけであり、結果だけで見れば何も変わっていない。そんな選挙だった。

ただし何も変わっていない結果に驚くぐらい「人々がめちゃくちゃ右往左往した」。
どう捉えて良いかわからない事態に直面した際、真実を求める人はSNSの中でめちゃくちゃ右往左往する。その現象だけは確かである。

それは草の根民主主義なのか戦略的に引き起こされたものなのかはよくわからないものの、なにか巨大な「議論が深まっ太郎」を見せられている気分になる選挙だった。

 

兵庫県知事選は結果だけで見れば何も起きなかった。起きたのは「SNSに情報を流し攪拌すれば人々がめちゃくちゃ右往左往する」ということ、ただその一点に尽きる。


SNSを使うと世の中が動く。それは今までもまことしやかに言われてきた。しかしながらSNSで社会が変わると言われてもそこまで影響は大きくなかった。ゆえんノイジーマイノリティーの声でしかない。そんな認識だった人が多いように思う。選挙でも街頭で演説し地場固めをするほうが効果的とすこし前までは言われていた。

それどころかSNSの声を聞き過ぎると失敗する。それがすこし前までの主流意見であり、先の都知事選や参議院選挙で立憲民主党に寄せられていた批判であった。

 

それが今回の選挙を皮切りに良くも悪くもSNSの捉え方が変わることになるのではないだろうか。なぜなら今回の選挙で人々がめちゃくちゃ右往左往したからである。
SNSをひっかきまわすと社会は動く。選挙結果やマスメディアの世論誘導すら変えることができる。それが証明されたことにより、これからはその力をどう使うかというフェーズに入っていく。
良く言えば「真の民主主義の実現」である。個人個人がSNSを駆使して情報にアクセスし、マスメディアに踊らされることなく主体的に考えるというもので、随分昔に民主主義の理想として囁かされていたものである。そのため今回の選挙はいかにも民主主義らしい結果となったので喜ばしいことであるように思える。
ただ、こうしたインターネット民主主義の理想は今となっては楽観的に過ぎるようにも見えてしまう。
今回の選挙はSNSをかきまわせば社会が変わるその脆弱性が露呈したようにも映る。

 

そもそもだが、政治に限らずだいたいのことはよくわからない。僕はいまこの文章をノートパソコンで書いているのだがどのような原理で動いているのかよくわかっていない。マザーボードにCPUが乗っかっていてうんたらみたいな仕組みや構造はなんとなくわかっていてもどうやって動いているのかはよくわからない。

同じように大抵のことはわからないことが普通だ。そんなわからない人々にたいしてSNSは答えを提供してくれるような、そんな気分にさせられるのである。
男女論なんかもそうだが、政治にまつわる議論も同じでなにか「我が意を得たり」みたいな文字列がそこかしこに転がっていたりするが、結局のところよくわからないものである。それこそPCの構造より見方によっては複雑なのが人が絡み合う政治なのだが
SNSを見ると誰かが放言した「真実めいた文字列」を真実だと錯覚し、錯覚した人が別の言葉で拡散することによりそれとは知らずに合意形成が為されている、かのような感覚になる。

それを草の根民主主義と呼べば聞こえは良いがことはそれほど牧歌的なものではない。

 

SNSで起きていることは特段新しいものではなく古いネット用語で言えばそれは「釣られている」のに近いのではないかと最近は思ってきた。
いにしえのインターネットでは匿名の無法地帯を良いことにあることないこと様々なことが書かれていた。その中で嘘を書いて人を釣る行為が一部で行われていた。嘘だけでなく無知を装ったり煽るような書き込みをしてレスポンスを集めることが釣りと呼ばれていた。今だったらデマの拡散として批判されそうな振る舞いである。ただ、不思議なもので当時は釣るほうを批判するのではなく「釣りは釣られるほうが愚か」という謎の了解があった。また、釣りはネタであり悪ふざけであって実効的な力として行使する人はいなかった。あくまでもレスポンスを引き出すためのお遊びの内に閉じていた。そこに最低限の線引きがなされていたように記憶している。
つまるところ釣りははネタだったのだが、しかしSNSで行われている釣りはその様相がまったく違うものになっている。
SNSではいかにして釣るかが大真面目に語られる。Youtubeのサムネイル、わかりやすいタイトルが筆頭であるがそれらの手法は釣る側のマーケティングとして賞賛されている。また、釣られるほうも釣られていることに無自覚であるように見える。
ようするにネタで釣っていたインターネットは終わりSNSはガチで釣りをするようになったのだが、かつてのようにスレッドやサイトごとの区別がないSNSではネタとガチの区別がつかない状態になっている。
SNSを使っていると釣りと釣られの自覚症状がなくなり、ガチとネタの境目が消滅する。それによる混乱が顕著に見られたのが今回の選挙だったようにも見えるのだ。

今回の選挙のようになにもわからない状況だとネタなのかガチなのか誰も判別がつかないため、SNSは格好の釣り堀となり、混乱が起きる。その中で僕達はめちゃくちゃ右往左往した。
その現象が今後どう利用、あるいは活用されていくのか、すこしの期待を持ちながら充分に警戒したいと個人的には感じる選挙だった。