メロンダウト

メロンについて考えるよ

知の不可侵条約、相互補完的批判関係、ウィシュマさん

またなんかすごい記事を読んでしまった。

 

jbpress.ismedia.jp

 

 

Daigo氏は批判されてしかるべきではあるものの、ここで書かれてるような知的マウントみたいな話にも同意できない。中退したから科学の徒ではないと言うのは単なるマウンティングに過ぎないだろう。

上記記事はようするに「Daigo氏は科学を何も知らず、科学風にふるまっているだけのペテン師」と書かれている。しかし大学院中退やコロナの知識を論拠にして無知だと断定するのは根拠が弱すぎる。差別は差別としてとらえれば良い話であり、無知を指摘する必要はまったくない。というか今回の件に限って言えば科学は関係ないであろう。

むしろ上記記事で永遠と述べられている知の高潔さみたいなものをことさら主張した結果、Daigo氏が台頭してきたと見たほうが正確ではないだろうか。大学人や知識人の没落、と言っていいと思うけれど、知識人が内に閉じこもり現実世界と交差することをやめた結果様々な問題が起きているのだと思う。

 

以前にも書いたけれど知は知としてゾーニングされている。

plagmaticjam.hatenablog.com

半端な知識で科学を語ることができないため、一般人は科学を専門分野と見なしている。科学に限ったことではない。人文系の学問についても同様である。

知識人はそうした状況にあぐらをかき、自らが特権的な立場にあり、知を行使するのは我々だと思い込み現実世界を問題にしなくなる。一方の僕達大衆は知を権威として崇めることで知の不可侵条約とでも呼ぶべき状態を作っている。知識人は知に先鋭化し、一般人は啓蒙されるだけの大衆として転がっている。そうした状況において大衆がDaigo氏に啓蒙されるのは至極当然の帰結であろう。知識人は知を知として現実世界に落とし込む作業を、言ってしまえばさぼってきたのではないだろうか。

 

知識人や大学人の没落は各所で指摘されていたことではあるものの、自分のような学部卒の一般人が批判できるようなものではないと考えていた。しかし冒頭記事のような不誠実な論調を見ているといよいよもって書かずにはいられない。

 

大衆が啓蒙されるだけの存在となって畜群化しているとはいえ、日本人は知への欲望を持っている人々だ。日常的に本を読む人は100万人と言われてるけれど、インターネットでそれこそDaigo氏の動画を見る人々は潜在的には知の顧客だったとも言える。Daigo氏の動画を見る人々を馬鹿にする論調のほうが強いけれど、あれほど熱狂的に知に渇望している人は捨てたものではないはずだ。正しい導線があれば知的な人になる可能性を充分持つ人々であろう。もちろんある種の人心誘導術によって動画再生回数を伸ばしている側面は無視できないものの、それだけを理由に「あいつらは馬鹿だ」と言い、彼ら彼女らを切断するのは単眼的に過ぎるのだ。彼らがそこに吸い込まれるのには理由がある。その理由こそが「知の不可侵条約」である。知識人と大衆が分断したことで、「知の需要」を満たす役割をインフルエンサーが担っている。

そうした状況をつくってきたひとつに知識人の怠慢があることはほとんど自明であろう。知への正しい導線がないために正しくない知へと人々が誘導されている。したがって、正しくない導線をつくっている人々(インフルエンサー等)を批判したところで実効的な意味はほとんどない。

 

冒頭記事のように知的マウントを取っても、現実的にはDaigo氏のほうが影響力を持っている。それを閉じた大学世界から眺め我々のほうが知的だと言うことにどれほどの意味があるのだろうか。むしろそうやって切断処理してきたツケが回ってきたと見るほうが自然であろう。知が知として閉じられている限り無知が跋扈する世界をつくることになる。それでかまわないという状況にあぐらをかいてきた人々に無知を批判する資格など、本来ないのではないか。

知の構造全体から見れば、指摘されているようなDaigo氏の問題は氷山の一角に過ぎない。「知の不可侵条約」が温存されつづける限り、こうした状況が変わることはないであろう。

 

付随して言えば知識人の怠慢、大衆の畜群化といった構造はコロナ禍においても大きな影を落としている。

 

 知を持たぬ大衆、あるいは政府が無垢であるため専門家のアドバイスが影響力を持ちすぎている。様々なところで言われているように本来、感染症は医学的な側面のみならず社会全体を横断する問題と考えられるべきである。社会・経済・国交など様々な分野に影を落とす感染症であるが、これらにたいする横断的な知のありかたを考えられず、専門家の意見ばかりが影響力を持って報道されるのは、上述したような知のありかたに原因があるのではないだろうか。

感染症の専門家と言われる人々は、感染がどのように広がるか、どのくらい人流を抑えれば良いのか、どの程度の感染力を持っているのかを指摘する立場にある。専門家がコロナに関して医学的な意見を言うことは正しい。それをもとに対策を打つことも正しいのであるが、問題はこうした専門家の意見にたいするこちら側の批判精神がなくなっていることであろう。現在のところ日本の専門家は(一部を除き)間違ったことを言っているわけではないと思うけれど、仮に専門家が間違った時、僕たちはどこまで専門家の専制に耐えることができるのであろうか。今ですら専門家にたいして批判することは難しく、医学的な観点をチェックする社会的機能はほとんどない。それは今のところ表立って問題となっていないけれど、こちら側の批判精神がない限り、いつどのような場面で「知や医療の暴走」が起きても不思議ではないのだ。

それは感染症に限ったことではない。知が知として限定的に共有され、アカデミックなものとして閉じ、こちら側がチェックできない体制をつくれば、有事になった際に我々はそれに従うしか術がなくなることになる。検察や入管なども同様の問題を抱えている。閉鎖的な空間で制度や知識を専断的に使用できるようになれば時に暴走し、犠牲になる人が出てくる。それがウィシュマさんであったりする。

いずれにせよ、どんなに素晴らしい科学であろうとも閉鎖的にそれを行使した場合には暴走する危険性が常にある。知は常に批判に晒されなければならない。そのためには我々がそれを(判断できなくとも)おかしいと感じるだけのリテラシーを持つことが必要になる。

ウィシュマさんの件に関して言えば我々の人権意識がなければ問題にされることすらなかったであろう。人権という知識は当たり前のものではない。人権という知識を我々が所有しているからこそ入管のありかたを批判できる。人権という知識が閉じられていれば我々は入管の横暴を発見することすらできずになってしまうであろう。それがいかに危険な社会であるかは想像するに難くない。

 

入管に限らず、あらゆる場面でこちら側がそれを適正に判断できるだけのリテラシーを持つことが重要である。そうした態勢をつくるためには、知が閉じられていてはならない。知識人が物事の考え方を大衆に伝えることで、大衆が批判精神を養い、その批判精神でもって知識人が暴走した時の歯止めとなる。最終的にはそうした相互関係こそが民主主義を支えるとすら言っても良いであろう。

にも関わらず、知識人は冒頭記事のような知的マウントアカデミニズムに閉じこもっている。そして我々や我々が選んだ政治家も知識人を批判することには及び腰になっている。本来、相互補完的な関係にある「人間」は専門性に閉じられ、誰もが自分の専門分野の中でのみ意見することが正しい態度だとされている。間違ったことを言えば冒頭記事のような知的マウントによって潰されてしまう。

「批判なき政治」という言葉が政治家から出てきたのもこうした問題と無関係ではないであろう。知の不可侵条約において、批判とは不可侵条約を破ることに他ならない。不可侵条約を破ってはいけないとされる今の知のありかたにおいて、批判なき政治という言葉はとても重いのである。

批判が消えれば知が暴走する。にもかかわらず批判することができない社会になりつつある。そうした知のありかた、批判なき知を知的だともてはやすのはいい加減やめるべきではないだろうか。知識人や政治家は完璧ではない。我々がそうであるように。

なればこそ知識人は批判されるべきであるし、我々大衆もまた批判に耐えるべきだと言える。そうでなければ第二のウィシュマさんが出てくることになるであろう。誰もが知の閉鎖性の犠牲者になりうる。入管で衰弱死するくらいであれば日常的に批判に晒されるほうが、はるかにましなのである。