メロンダウト

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市民感覚としての白饅頭、知性主義の限界、経験の抹殺

呉座氏の炎上の件で白饅頭氏が話題だけど、個人的に彼は市民感覚の人といった印象を持っている。市民感覚的リベラルとでも言えばいいのか、現代ビジネスの記事等を読んでいると市民の感覚を言語化することに長けている印象を受ける。政治的なことを市民感覚と織り交ぜながら書いているので、いわゆるリベラル知識人にとっては癪にさわるように見えるのかもしれない。知識人がポピュリズムを批判するのと同じで、市民感覚に沿ってポピュライズドされた氏の記事が知的なものだとは言いたくないのであろう。一部のリベラル知識人に見られるものだが、市民を啓蒙するのは我々リベラルだという特権意識が見え隠れする時がある。

そういった、知性主義とでも呼ぶべき態度はたとえば私のような泡沫ブロガーでも感じるもので、知は知として専門的であり体系的でなければならないといった空気は厳として存在する。たとえば、白饅頭氏がよく批判しているフェミニズムについてもそうであるが、フェミニズムの成立過程や論文を読んでいなければフェミニズムに言及することはご法度といった空気によって市民の声が圧殺されている。そのような感覚を覚えることがある。フェミニズムだけではなく政治一般についてもそうである。社会全体についてもその例に洩れない。社会学を履修してから社会を語れといった具合に、すべてのイシューが「知に閉じられていく」点において、それに反発する勢力が出てくるのは当然であろう。フェミニズムが正しいのはよくわかるけれど、それを知的特権階級がトップダウン式に啓蒙した瞬間に、フェミニズムは市民のものとしては扱われないのである。そこを白饅頭氏が掬っていく構図になっている。よくよく見ていると、彼はアンチフェミニズム及びアンチリベラルではない。アンチフェミニスト、アンチリベラリストの論客としてフォロワーを集めている。

こういった知性主義、啓蒙主義とでも呼ぶべきものは以前から自分も違和感を感じていた。以下記事でも書いたように、日本における政治は政治という専門性の中に閉じられている。生半可な知識で政治を語るとすぐに誹謗中傷が飛んできてみんな政治から離れていってしまう。

plagmaticjam.hatenablog.com

生半可な知識で政治や思想を語るとひどい批判が飛んできて考えること自体から離れてしまう。

考えること自体が不毛なことだと当該個人のなかで結論づけてしまう。そうやって政治が高尚な議論になり閉ざされれば閉ざされるほどに政治について考える人間は消えていく。そしていざ選挙になるとポピュリズム的な投票行動しか取れなくなる人が多いのでポピュリズムが勝つ。

その結果を受けてまた政治高弁者がなんたる愚民だと馬鹿にする。その愚民をつくったのは政治の議論から隔絶した「お前たち」であるにも関わらずである。

引用したような状態なので無党派層が増えていく。政治高弁者が議論や政治の場から市民を隔絶している現状がある以上、無党派層が政治に関心を持つことはない。「知」はそこを見ようとしない。そこを白饅頭氏がかっさらっていく。ようするに白饅頭氏は無党派層市民感覚をターゲットにしているのだろう。以上のように考えれば、彼が一定数の人間に支持されているのは当然だと言える。

 

私のような一市民レベルで見ると、この国における理念とは常に「上から降ってくる」ものであり、社会の中から出てきたものとは言い難い側面がある。フェミニズムやリベラルもアメリカや欧州から輸入したものとなっている。我々はその理念を装備することはあっても、血肉として体内に取り込むことは極めて稀だ。

どこかの誰かが「知」に基づく理念を構想したとして、仮にそれが完璧に正しいとしても我々市民がそれをインストールできるかどうかは別の問題である。知性主義でもって啓蒙するリベラルやフェミニストはそれがわかっていない。それでもなお、フェミニズムやリベラルは市民を無視して邁進していく。

そして、彼らは市民の存在を忘れ、「知に閉じてムラ化する」。そしてムラ以外の大衆を啓蒙すべき対象として扱う。啓蒙されてムラに入った人々はその知がなんたるかを考えないで迎合し、一方の知識人やインフルエンサーは「正しい人間が増えた」と喜んでいる。

それを外側から見ると、どこか滑稽に見えてしまう。「それ何なの?」と。フェミニズムに関してもリベラルに関してもそうであるが、そういった知性主義、インテレクチュアリズムにたいして反発する市民はいる。たとえば僕のように。人間の身体感覚としておかしなことをおかしいと感じるのは「知」とはほど遠いかもしれないが

どこから降ってきたかわからない「知」よりも、内的な感覚を優先するほうが人間としては自然であるというだけの話である。

 

そういった層が白饅頭氏のフォロワーには多いように見受けられる。白饅頭氏がどういった人物であるかは別にして、ネット論客である彼がアンチフェミニズムやアンチリベラルを謳い、「知へのカウンターとしての市民の声」を集めることに成功しているのは事実であろう。難しい話ではない。アンチにはアンチの道理がある。「正しい社会」にたいする違和感は多くの人が市民感覚として持っている。それを集積しているのが白饅頭氏なのであろう。

そういう意味で、僕は彼と親和性があると思っている。呉座氏の件における立ち回りに関して置いておくとしても、氏の記事に書かれている内容に関しては市民感覚として同意する部分が多々ある。最近のイシグロカズオ氏に言及していた記事もそうであった。

 

フェミニズムもリベラルも正しさの議論としては賛同するが、市民としては違和感を持ってしまう僕のようなリベラルかつ保守、もとい本来の意味でのポピュリストは思いの外多いだろう。白饅頭氏はそこを射程にして論陣を張っている。その論陣はリベラルやフェミニズムにたいするカウンターとして、あって然るべきだと思っている。良いか悪いかではない。現象として自然そうなるだろうと。

 

 

類似する問題として

知識人が知識人としての啓蒙しか行わない以上、我々の個別性が完全に失われてしまっている問題がある。フェミニズムにしても、個別の人間が持つ経験として女性を恨んでいる人もいる。あるいはその逆も然り。過去の恋愛経験から複数の女性に裏切られたり、女性からモラハラを受けたり、学生時代にきもちわるいと言われたり個別具体的な経験がそれぞれにある。

しかし、今は経験によってつくられた価値観は矯正されるべきものとして扱われる。フェミニズムに限ったことではないけれど、正しさとは常に矯正を求める点において暴力性を孕んでいる。であるにもかかわらず、それが暴力だとは言えない社会に私達は生きている。抽象的な正しさには個別の経験を超えて従わなければならない。それがSNS社会のルールとなっている。当然ながら、こういったルールに反発する層が出てくる。具体的な経験によって醸成された価値観は簡単に変えられるものではないので、正しさに従えない人もいる。よくよく考えてみれば当たり前の話でしかないのだ。個人が経験によって培った思想には濃淡があり、啓蒙されない人達もいる。

ある個人の個別具体的な経験は抽象的な正しさよりも上位にくる。それはなにもおかしなことではない。そして僕はそれでいいと思っている。個別の人間への想像力すらなくしたらその正しさは終わりなのだから。多様性とはそういうものであろう。縦の多様性とはつまるところ人間の不完全性に依拠した愚行にたいし、人間としての自然性を認めることにあると思っている。

 

女性を差別することも暴力であれば正しさの啓蒙もまた暴力である。個別具体的な経験はそれほど単純に消せはしない。いかにそれが間違った考えであっても、である。

白饅頭氏の書いていることもそこに尽きてくる。個別の経験に基づく市民感覚をリベラルは忘れている。それを掬うのは本来は保守の役割であったはずだが、保守の側も「思い出ムラ」となっている。どこにも居場所がない市民は数多くいる。

彼ら彼女らは「知」から隔絶され、右にも左にもなれず、経験を語ることすらできないでいる。まず、彼らの存在を認めることから始めるべきであろう。インセルでもミソジニーでもかまわないが、個別の人間がそういった愚かさを持ってしまうのはなんら不思議なことではない。

そういった「愚かな市民」にたいして「白饅頭氏なんかフォローしてないで、馬鹿なんだから勉強してリベラル社会の一員となれ」と言うのは簡単であるが、そんな啓蒙は届きやしないし、届くべきでもないのである。