メロンダウト

メロンについて考えるよ

amamako氏への返信

amamako氏から言及されていたので返信記事を書きたいと思います。

リンク先の内容は白饅頭氏の記事への批評が主なもので私への言及は少ないですが小さいながら齟齬があるのではないかと

amamako.hateblo.jp

 

以下の指摘なのですが

plagmaticjam氏は、自分や白饅頭のような人が、失われた30年を生きる厳しい状況の中で、社会適応の重要性を知った「狭間の世代」だと言います

 

私はむしろ社会適応にはけっこう懐疑的な立場です。白饅頭氏の記事では実社会をポジティブにとらえていますが、私の場合、社会はネガティブに肯定するしかないものだと考えています。

白饅頭氏の記事では、懇意にしている経営者がリベラルから保守に旋回していることを例に出し、リベラルは実社会を忘れた空想だという批判がなされています。しかしながら当然、実社会を知って左に旋回する人もいます。たとえば女性がハラスメントや性被害を受けてリベラルフェミニズムに傾倒したり、薄給労働者がその待遇を疑問視しマルクス主義や脱成長に傾倒したりと

したがって実社会を知っていれば保守寄りになるというのは論拠としては薄いと私も考えています。しかしながら、現在の日本のリベラル勢力が一部のアカデミズムやメディア関係者による空想に振り回されているのもまた事実であるように思います。連合も形骸化し、インターネット世論を現実の世論と取り違えた立憲民主党が選挙で敗北したのも記憶に新しいところです。リベラルに比すれば保守のほうが実社会よりだという白饅頭氏の指摘は、あくまでも現在の日本の状況を見渡した時には事実であるように思われます。

以上のようにそもそもの政治状況が捻じれているのが問題だというのが私の考えです。一般的には社会へ参加すればリベラルになる人が増えるのが理路としては正しいものでしょう。経営者はともかくとして多くの人は労働者であるため、労働環境改善のために投票する人がもっといてもいいはずです。しかし現在のリベラルは女性とマイノリティーのためのものに見えてしまっているので、「直接的な労働環境の改善はなくとも景気だけは維持してくれるかもしれない」という考えから経済政策を打ち出している維新や自民に票が集まることになっています。

そのような政治及び社会に適応することはネガティブなものだというのが私の考えです。

 

白饅頭氏がどう考えているのかわかりませんが、私は「社会には程度問題として適応せざるを得ないけれどそれは時にネガティブなものだ」と捉えています。適応することがポジティブな人もいればネガティブな人もいるわけで、ポジティブなものだけで説明できるほど簡単なものではないはずです。その適応の罠を指摘し、歴史的な経緯を踏まえ論証したのがあままこ氏の記事なのでしょう。私も浅学ながらオウムや宮台真司氏などの件は知っていますので同意する部分が多々ありました。

前回記事でも「適応した結果、差別などが生じることも当然ながらある」と同じようなことを書いています。実社会や適応はあらゆる側面を持つ性質のもので一概に賞賛されて良いものとは考えていません。適応した結果自身がどうなるかもわかりません。あままこ氏の言うようにそのような「現場感覚」がかつてのオウム真理教アイヒマンの源泉になってきたというのも事実であるわけですし。

 

以下弊ブログ過去記事にても、白饅頭氏には同じような危惧を持っていました。

政治的立場にグラデーションがあることを許せない人々 - メロンダウト

彼(白饅頭氏)の行っていることはすこし「危うい」とも同時に思っています。氏の書く文章はとてもエモーショナルな表現で溢れている点で、氏の思惑とは別にポピュリズムや感情的動員を誘発しかねない「可能性」もあると思っています。

と書いたことがあります。白饅頭氏のnoteはたぶんに牧歌的な側面があるのでこうした政治的動員をかける類のものではないと今では思っていますが、一年前はこのように考えてもいました。それはあままこ氏の危惧するところとまったく同じなのかもしれません。

 

一般に適応が危険なものだというのはその通りで、そうした適応や現場感覚の危険性と距離をとるために人文知やサブカルがあるというあままこ氏の言説には同意できます。

ただ私はそれでもなお人間には適応が必要なのだと考えています。「それでもなお」という「付帯条件ありの適応」がベターなのではというのが私の考えです。

その付帯条件がたとえばサブカルや人文知だったり、家族だったり、友人だったり、スナックのママだったり、Vtuberだったり、趣味諸々いろいろあると思うのですが

私にとっての付帯条件は狭間感覚にあるのではないかと愚考したのが前回記事でした。付帯条件というよりもブレーキといったほうが良いかもしれません。常にアクセルを踏んで走りなさいと言われる資本主義の世界に適応するにはブレーキもなければいけない、というよくある話なんですよね。

それこそ社会や政治状況が捻じれS字カーブがたくさんあるような隘路であれば、なおさらその重要性は増しているのではないか、ということを少々賢しらに、エモく書いてみたのが先日の記事だったわけです。

 

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※正直、前回記事で白饅頭氏への言及という形にしたのは間違っていたように思います。また、時代性として書いたのも悪手でした。そもそも白饅頭氏の記事への言及にはほとんどなっていなかったですしね。