メロンダウト

メロンについて考えるよ

政治的立場にグラデーションがあることを許せない人々

前々回の記事が広く読まれたみたいで、ツイッターのフォロワーも100人ぐらい増えたのですが、それとは別に左翼であろう人からDMで白饅頭氏の肩を持つなという長文DMが寄せられてきてかなり困惑しました。晒したりはしないですけど。

こんな泡沫ブロガーにDMするほどの布教活動なんてやってるから左翼は支持されないっていう記事をまさに書いたわけだけど、なぜそこまでして自分達の政治的立場の正しさを喧伝しようと思うのか、そこからしてわからないんですよね。

当たり前すぎる話ですが、政治的立場といっても個々の人間にはグラデーションがあり、ある側面では極端に保守的な考え方をする人もいればその逆もいます。それぞれの人間が考えていることは全然違うし、一人の人間の考えにさえ矛盾や捻じれがあって当たり前なのがまず前提として共有されていなければ「話にならない」だろうというわけですよ。

こういう風に書くと無謬性に依った冷笑系だと言われるのが昨今の風潮なわけなので、私の立場を書いておくと、私は政策レベルではリベラル、理念的には保守の共同体主義者です。もちろんこれにもグラデーションがあり、「是々非々的な思考回路は持ちつつも」というエクスキューズは言っておかなければならないですが。

今はこういう思考そのものが許されていないように見えるんですよね。白饅頭氏と「対話」したからと言って私が彼の政治思想に賛同しているかのように考えられるのは心外です(もちろん賛同している部分もあります。そんなもんでしょう)

彼の行っていることはすこし「危うい」とも同時に思っています。氏の書く文章はとてもエモーショナルな表現で溢れている点で、氏の思惑とは別にポピュリズムや感情的動員を誘発しかねない「可能性」もあると思っています。そういった言説の危険性に関してはこのブログにも散々書いてきたので昔からの読者さんであれば理解していただけると思いますが。

しかしながらそれとは全然別の問題として、それをポピュリズムだと言った瞬間に対話の可能性が消滅している現在の状況のほうがさらに異常だと言ってるのです。

 

あいつはあいつと仲良くしているからあいつと同じ考え方をしているに違いないというのは小学生の発想でしかないのに、そのような考えでDMまで送ってくる人までいるのが驚きなんですよ。当たり前ですが「別人」ですからね。

そのような門切り型の画一性を政治的な思想と絡めて陣営闘争のようにしているからいつまでも対話できず、横にも縦にも分断されているのだという構造的問題を先に解決しなければ何も変わらないだろうということです。

こういった問題を見据えるには別の考え方をしている人の話を聞きに行く必要があって、その過程で耳が痛くなるような考えにも出会う。けれど、それ自体を否定してしまったら右と左、上と下に分断され、あげくの果てには政治が政治という専門性に閉じられてしまう。それが今起きていることだというのは前回の記事で書いた通りです。

政治がムラと化した瞬間に、知的エリートが啓蒙した理念に迎合するお仲間が集うだけのものに政治が「成り下がってしまう」んですよ。

実際の選挙では動員をかけたりすることが政局の問題としては不可分であり、必要になるけれど、政局と政治は違います。いわゆる政治思想という側面において、政治は市民全員のものと考えるべきでしょう。市民がそれぞれに政治を考えてこそ民主主義が民主主義たりえます。であるにも関わらず、考えるという観点及び考えさせるという観点がごっそり抜け落ちているのが今の左翼(だけでなくネトウヨなどもそうですが)に見えてしまうんですよ。

この問題は左翼のムラ化と完全に地続きだと思っています。思考とは一般に「別の可能性」について思いを馳せる行為だと思っていますが、そうするには自分の考えとはまったく別の考えに触れる必要が出てくる。そして、別の考えに触れるためにはムラを出なければいけないうえ、ムラの掟に縛られてもならない。ムラを出て、自分本来の思考とはまったく別の他者の考えをミックスさせ、相対化させることで自らの思考の粗や矛盾を発見でき、そこから思考はスタートするものでしょう。

このような考え方は前回の記事に書いたことにも繋がっています。前回の記事では、男女の軸を自らの中で均衡させてこそジェンダーの問題を昇華させることができると書きました。これは思考のプロセスにも同じことが言えます。男性は男性であり、女性は女性であるといった対立に終始せず、自らの性とは別の性を持つ人がどのような考えを持っているのかを聞き、それをもとに自らの思考を矛盾させることで政治的な考えに至る。そのような矛盾には相応の痛みを伴うこともありますが、そうでなければ自らの思考は個人の欲望の域を出ない点で、政治とはまったく別のものとなってしまいます。そうやって誰かの考えに触れて思考を矛盾させ、相対化させて、「それでも譲れない何か」を持ってして政治的な発言をすべきでしょう。

その先にどこに投票するのがベターかという決断が生じるわけなのですが、そういった個人が思考に至る「プロセスを啓蒙は相手にしない」んですよね。とにかくこれが良いから良いんだ。

男女平等は間違いないんだ、今はこういう時代なんだ、適応しろ、大人になれ。そういった言葉ばかりが言われ、疑義を呈することすら不可能である以上、そこに思考が介入する余地は消え失せてしまいます。

ポピュリズムは敵だ、弱者男性論者はフェミニズムの敵だといった具合にすべてを切り分け、陣営闘争に帰着させるかぎりにおいて、そこに「考えるべき市民」は存在していない。そのような言論の在り方にたいしては「根底からしておかしい」と言うべきでしょう。つまり、ポピュリズムが正しいと言っているわけではなく、ポピュリストと対話できない政治はおかしいというわけです。右と左、および上と下とを架橋する言葉を模索しないかぎり、個人が政治について考えることは不可能になり、政治が政治として成立しなくなってしまう。そのような状況を憂うことは政治に携わる市民としては当然だというまでです。

 

DMをもらってそんなことを考え、対話しようと、一瞬返信しようとしましたが、面倒くさくなってやめました。こんなこと書いている僕自身そんなもんです。実際問題として政治はめんどくさいんですよね。ただ面倒くさいことも考えなきゃとは、一応思っているというだけのことです。仕事して、美味しいごはん食べて、たまにお酒飲んで、できれば愛する人でもいて、たまに羽目を外して遊んで何も考えずに生きていきたいと切に願っているから政権も市民もちゃんと政治を政治として考えてほしいというだけの話なんですよ。

 

 

※以下蛇足です

こういった問題に関して、まっさきに思い浮かぶのがジョン・ロックの「自然権」です。ロックは「人間が自然状態で持つ権利を仮想しない限り、社会を語ることはできない」と考え、人間が生来持っている権利を以下の4つに数えました。

「自由」「生命」「財産」「健康」

これらの自然権を侵害する行為を犯罪だとするものが現在に至るまで法体系の基礎となっていますが、政治にも同様の考えを見ることができます。それがリベラリズムの考え方でもある自由主義なのは広く知られているところでしょう。自由は人間が生来持っている権利なので侵害してはならないというのは今でも強く言われています。

それ自体は問題ないのですが、問題はその自由が自然であるという視座が失われてしまっているところにあるように見えるんですよね。つまり、人間は自由であるべきだという権利に着目するあまり、人間が自然的な存在として居ることを許さないのが今の左翼の問題に見えてしまいます。

すこしわかりにくいので補足すると、今のリベラルは人間は自然であるという前提にたたずに、自由主義を不完全な人間に啓蒙するという点にたっている点で、ロックの言う自由とは違うものとなっている。人間は「生まれつき自由」であることが自然権の考え方ですが、今のリベラルのそれとはズレがあるんですよね。

「人間は自由な『存在』である」と考えるのと「人間は自由であるべきだ」というのはそのニュアンスが違います。

おそらくこういった微妙なズレが本質的には今のリベラルの啓蒙主義、対話の不可能性につながっているのだと思いますが、いかんせん私には手のあまる問題です。

ありていに言ってしまえば、人間が平等に自然である限り、人間の自然性を認めない自由は本来の自由とは言い難いものとなります。

人間を自然的存在として認める。なればこそ、右左を超えた対話の可能性も出てくるのではないかと、そんなことを考えているんですよね。