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いかにして恋愛は理性的なものへ落ちたか~弱者男性論とフェミニズムのマッチポンプ~

デビットライス( id:DavitRice )さんの記事を読んで思ったのだけど、こういう社会的文脈での弱者男性女性論ってそもそも論として違和感がある。

gendai.ismedia.jp

実際問題として統計上、恋愛しない人が増えているうえに少子高齢化も喫緊の問題なので恋愛が社会的な文脈で語られるのはわかる。しかし恋愛を社会的に語れば語るほど「語るに落ちる」ことになっている。

大前提として人間は社会の駒である側面と、そうでない側面を持っている。仕事などは前者の側面のほうが強いが、恋愛は後者の領域なので社会的駒としての文脈で語るとおかしなことになる。

恋愛を過度に社会的なものとして語ると恋愛が社会に飲み込まれてしまう。実際にマッチングアプリなどではそういう「社会的駒としての恋愛」が日常になっているのを見るにつけ、すでに恋愛が恋愛ではなくなり、取引になっている側面があることはみなが感じていることだろう。女性のステータス志向もそうであるし、男性が若い女性を好むのもそうであるが、そういった取引の末にのみ恋愛が成立する今の状況はかなり歪んでいるように見えてしまうのだ。所与の条件が与えられた現実に適応して振る舞うことを個人の責任に転嫁すべきでないことは明らかであるが、そもそもこういう「市場」になったのはなぜなのだろうか。それが不思議でならないのだ。

そのような問題意識は女性と男性の両方に共通しているはずである。

よくよく見ていると、取引でのみ恋愛が動いている現状にたいしてみなが形を変えて批判している状態になっている。

フェミニズムと弱者男性論はその意味で批判の源泉が同一であり、その源泉が何かと言えば「取引によって規定される恋愛市場の在り方」に他ならない。男性側から見ればフェミニズムのような考え方は男性の実存を置き去りにしているように見える。また、女性が強者男性を選ぶのは取引としての恋愛に終始しているように見えるであろう。

一方のフェミニスト側から見れば社会的立場が弱い女性は恋愛において正当な取引ができる環境にないと考え、女性のエンパワメントを主軸として意見を展開している。アファーマティブ・アクションなどによって女性の権力や言説そのものを擁護するラディフェミなども出てきている。フェミニストから見れば弱者男性論者はホモソーシャルの再生産をしている旧態然としたボーイズクラブに見えているのだろう。

フェミニストと弱者男性論者は主張の内容こそ違えど、総じて見るに「どちらがより正当な取引であるか」という主張をしている。両者の違いはその立場のみとなっている。どちらの主張にどれだけの統計的根拠、論理的整合性があるかという議論になっている。そのような議論に関してのみ言えばどちらにも同意できる部分がある。フェミニズムでたびたび取り上げられる女性の政治家や管理職比率に関してもそれらが低いのは事実である。弱者男性論で取り上げられているかわいそうランキングにも同意できる部分はある。

しかしながら両陣営ともに取引という卓上で話をしていることがそもそもの問題である。それが忘却されていやしないであろうか。

取引という卓上で自らのカードを披露し闘争している限り、恋愛が取引の外で語られることはなくなり、お互いがお互いをマッチポンプとしながら、恋愛と取引のつながりをさらに強固なものとしていく。そしていつからか恋愛が恋愛であることをやめてしまった。それはもうずいぶん前からであろう。そしてすでにもう取り返しがつかないところまできてしまっている。

実際に弱者男性論の中には取引に過度に適応した言説も言われるようになっている。「慈悲深い性差別主義者」のほうがモテるといったエビデンスが支持されており、「そのような現実」がある以上、「そのような取引のあり方」に乗ってやろうではないかといった言説が言われるようになっている。恋愛工学などが支持されていたりと、いかに現実の市場における取引で優位に立ち回るかということがすでに言われている。

 

いずれにせよ男性は金とコミュ力、女性は容姿にそのリソースを全振りして「求められる人材」であらねばならなくなった。就職活動をするのと同じように、恋愛においても取引される人材としての役目を市場が個人に課しているのである。恋愛市場そのものから降りるでもない限り、人間ではなく人材として恋愛をすることが求められる。そのように世界が見えてしまっている。もちろん現実の恋愛ではもっと複雑な要素が絡むので取引だけで成立しているわけではないことは留保しておくにせよ、すでに多くの恋愛関係において取引としての側面が支配的になっているのは否定しえないだろう。

 

このような恋愛市場の構造及びそれを取り巻く議論のありようを見ているとミシェル・フーコーを思い出す。

何がどうなってこんなことになっているのかを考えるヒントになるはずだ。

フーコーはおよそ次のようなことを書いている。

それを狂気だと認める理性側の眼差しによって狂気は我々の世界に現前する

と、このように書いている。

SNS社会とミシェル・フーコーと理性の逆流 - メロンダウト

理性によって眼差されることで狂気は狂気として「現れる」のであって、それを狂気だと認めない限り、狂気が狂気となることはない。たとえばクリスチャンのことを我々は狂人だとは思わないが、狂気だと眼差されればキリスト教は狂気だと見なされる。そして、それを信奉するクリスチャンは狂人として扱われるようになる。普通に考えて神はいない。そう考えることもできる。それでもなおこちら側が宗教の多様性を認めている限りにおいて宗教は狂気ではないまま在り続けられる。フーコーは理性と狂気の関係をそのように喝破した。

何を狂気とするかはこちら側、つまり我々理性の側による眼差しによって決定するのであって、狂気はそれ自体が狂っているわけではないということである。むしろ狂気を狂気だと認定するのは理性側のさじ加減ひとつであるので、理性こそを注視し、それを振り回す時には相応の覚悟をしなければならない。

これがフーコーから学ぶ最大の教訓であると思っている。いわゆる恋愛市場における議論についても理性的な話をするあまり、感情そのものを総じて狂気として認定した結果、みな「恋愛に狂えなくなっている」のではないだろうか。

たとえばフェミニズムはハラスメント批判をすることでハラスメント的なものを狂気として認定し、それを行う人々を狂人として我々の世界に現前した。告白ハラスメントという言葉をつくり、告白を狂気だと認定したりと、例をあげれば枚挙に暇がない。一方の弱者男性論者は負の性欲という言葉を使い、女性の感情的な性衝動を狂気として認定し、批判した。

恋愛に係るすべての議論において「どちらが理性的か」に終始している限り、あらゆる狂気を滅殺していくことになることはおよそ間違いないであろう。フェミニズムも弱者男性論もそのような点で同一だと言える。そして、恋愛に係るすべてを狂気として認定することで、最終的には取引しか残らなくなってしまったのである。さらに言えば、その取引すらも「取引の正当性」という観点から批判する。お互いがお互いを批判することでありとあらゆる狂気を現前し、その結果残ったものにたいしてどちらが理性的なのか議論しているのが今の状態なのであろう。ようするに永遠のマッチポンプに陥っているのである。理性によって狂気を現前し、それでも残った理性的な感情にたいしてどちらが理性的かということを議論する。お互いの狂気を狂気として発見する限りにおいて、この手の議論が収束することはない。つまるところ「それ」を発見する理性こそが「狂行」なのである。

 

こういった問題の解決策としてはいったんそのような理性や取引を解除するしかないのであるが、それもなかなか難しい。 理性や取引はこの世界のルールであり、善性でもあるので我々はそれを内面化してしまっているし、良いことだとすら思っている。

しかし恋愛とは原理的に狂気の沙汰なので理性や取引に侵食されるとかなりおかしなことになる。冒頭に戻れば、社会の駒として理性を要求される場面では理性的に考えるべきであるが、社会の駒ではなく人間としてあるべき恋愛などの場面においてはいったんそれを(程度問題として)忘れてしまったほうが良いであろう。もちろん理性を忘れると言ってもDVなどをしてはならないのは言うまでもないが、「他者の理性によって眼差され現前した狂気」に関してはそれほど深く考えないほうが良い。さもなければ恋愛をすること自体難しくなる。

それでも恋愛しようとすれば極端に市場に適応した方法を取るようになってしまう。

男性を例にとって見れば、理性に飲み込まれ狂気(純愛等)を忘れた瞬間に性欲を解消するための「メソッドが正しい」という結論に至ってしまうのだ。

恋愛市場がどうしようもなく取引で成立しているならば「よろしい、そのゲームに乗ろうではないか」といった具合に市場が個人を規定しはじめる。そしてそのゲームに乗る個人がたくさん出てくる。恋愛工学にしてもあれは市場が捻出したものなのであろう。もはや狂気を持ってして恋愛することは不可能になった。非モテコミットなどしても何の成果も得られないのであれば、恋愛工学などのメソッドに乗ることはそれほどおかしなことではない。そういう心理は男性の身からすればよくわかる。よくわかるし、同時にそれが間違っていることもわかる。性欲だけを解消すれば幸福だとは決して思わないと同時に性欲は男性の実存に係る問題でもあるので、それを解消するメソッドがあれば使う人はいるであろう。

ようするにこのような市場そのものがすでにしておかしいのである。

冒頭で「語るに落ちる」と書いたのは以上のような理由である。恋愛を理性的に語れば語るほど狂気が狂気としていることは不可能になり、恋愛が理性的なものへと「落ちていく」のである。

 

あまりにも恋愛が取引として考えられてしまっている。適切な契約のもと、理性的な判断を持ってしてのみ恋愛関係が成立すると。よくよく考えてみれば「それ自体がおかしい」のは誰もが同様に感じていることであるはずだ。それでもこのゲームに乗らなければいけない。そのような「理性という虚無」が支配している限り、一定数の人は恋愛などしないであろうし、ましてや少子化など解決するはずがないのである。

 

 ※蛇足

現実的に言えばお金の話などがあるので一概に「人は恋愛に狂うべき。恋愛として恋愛すべき」なんて言えたものではないです。理性こそがその人の欲望であったりもするので。フェミニズムと弱者男性論のどちらがより正当かという議論も現実の再分配の話に関して言えば必要だったりします。ただ、そういう理性的な議論は個人の心中をも侵食しかねないという点においてだけは注意したほうが良い。それだけは間違いない。