メロンダウト

メロンについて考えるよ

恋なんていわばエゴとソサエティーのシーソーゲーム

前回書いた恋愛論が読まれてるみたいでで昔書いてボツにした恋愛の記事をすこし修正してあげてみます。

 

以下記事は弱者男性論について書かれた記事です。

すごく丁寧な文章。

note.com

 

選ばれる側の性と求める側の性に焦点をあて、その差別性を指摘している点でとても理知的であり、同時に文体からは情熱を感じる。この文章を読むと「男性の弱者性」にたいして思いを馳せるようになれると思うけれど、自分は全然違うことを考えていた。

というのもこういった理知的な文章でしか恋愛を語れないことが問題なのではないだろうか。

 

冒頭記事の文章は自分なんかから見れば傑物のそれであり、ここまで理知的な文章は自分には書けないと思うし、多くの人もそうなのだと思う。あるいはもっと一般にフェミニズムなどに関する知見を多くの人は持っていないので社会的恋愛論を書ける人となるとかなり限られてくる。恋愛に限ったことではないけれど、インターネットに社会的な言説を披露するとなると事前にコードを知っていないと大変なことになる。

しかし、多くの人は実際に恋愛をしている。社会的恋愛論とは無関係に恋愛をしている。恋愛は特殊だからこそ閉じられ、特殊だからこそ貴重な経験になり、そして、特殊だからこそ「差別」へと繋がる。愛憎という言葉が最もわかりやすいかもしれないけれど、恋愛は相手に友人以上の関係を求める行為であるため、裏切られた時にはひどく傷つくことになる。そしてその経験をもとに男性・女性にたいする呪詛をネット上に書くと差別だと非難される。

「男なんてみんなやりたいだけだろ」

「女なんて結局ATMを求めてるだけだろ」

というような発言は、社会的な文脈においては差別である。しかしそれが時に経験によって発せられる言葉であることもまた真実である。認知の歪みというと陳腐に過ぎるわけであるが、しかしこうした歪みを語れないことが様々な問題を生んでいる。あるいは「恋愛とは認知を歪める行為であるというコンセンサス」があまりにも考慮されていないように見える。

 

社会的な恋愛論に精通し、理知的な文章を書ける人は稀有である。そうした人々が書く理知的な文章によって恋愛の是非が暗黙的に決定する。その一方で我々は恋愛をすることで、理知とは離れた歪んだ認知を得る。

 

社会的な恋愛論を書くことや読むこと、そして恋愛という認知が歪む行為をすることは原理として矛盾する。書く、読むは理知的なものである一方で実際に恋愛を行うことは理知的なものとは言い難い。時に差別的で暴力的なものだ。にも関わらず我々は書く・読む・話すという行為を通してしか恋愛を語ることができない。しかしながら、恋愛について書いて読んで話すほどに恋愛が理知の側に吸収されていくことになる。

これは社会的な議論に限ったことではない。対話と呼ばれるものさえあるいはそうである。誰かに失恋した経験を話したりすることでその経験を宥めようと思うのは、自らの経験を第三者という理知のガワに吸収させようとするからであろう。「〇〇にとってあの人はあわなかったんだよ」といった対話者の理知的な話が慰めとなるのはこちら側、つまり恋愛している側が狂気であるという「対照」によって成立するものなのだろう。

 

もっと抽象的に言えば言葉には限界がある。言葉にしてしまうことで陳腐化してしまう領域が人間にはある。恋愛もそのひとつだと思う。

恋愛はノンバーバルコミュニケーションの側面が強い。最近の言葉で言えば「中動態」とも言えるかもしれない。にもかかわらず我々は常に言語化しようとする。あるいはインターネット上にあらわれるのは言語だけであるため、実際に恋愛を行った時の感覚とはズレていく。言語のみで恋愛を説明しようとすればするほど実際に恋愛を行うことは難しくなる。空気であったり雰囲気であったり眼差しであったり、ノンバーバルなものにこそ恋愛は「宿る」のであろうが、しかしそうした「感覚」は社会的な議論においてはあらわれてこない。言語という限界があるために。

とても青臭いことを書いているのは重々承知しているものの、しかしこういう青臭さをすべて排除して理知的な議論へと収斂させていくことで失われていくものがある。そう思っている。僕たちはスタンダールでもフロムでもない。「愛するということ」みたいに至上の恋愛観を言語化することはほとんど不可能に近い。しかしながら僕達はフロムやスタンダールの書いていることに感覚ベースで共感することができる。

 

社会的、論理的に恋愛を語るにはとんでもない技術が必要だというのが僕の私見であり、諦観でもある。スタンダールの『恋愛論』であったり、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』のように人間の心理に迫り、かつ論理的に書くことは凡人には不可能な所業だと思っている。こうして書いていても自分自身うすら寒いものを感じる。個人として恋愛することと、それを社会的なものとして書くことは無論繋がってはいるものの、2つを接続しうる「糸」はとても細い。その糸のかよわさを無視し、主体的にのみ書く恋愛論は差別的なものになり、分析としての恋愛論は理知に頼らざるを得ない。なればこそ多くの恋愛は詩や物語、音楽として語られてきた。それは今風に言えば中動態、つまり言語と非言語の境目に恋愛を配置することが適切だからなのであろう。

そのような恋愛の「位置」を意識することで始めて見えてくるものがある。

 

こうした「不明瞭な恋愛の位置」ゆえにみながそれぞれの恋愛観を持って恋愛を語っているのではないだろうか。恋愛を過度に言語としてとらえ社会的な文脈で語ったり、恋愛を非言語としてとらえ自らの経験を社会的な文脈へと変えたりする。恋愛という差別、そしてジェンダー論という反差別どちらにも恣意性が許されているためにみなが手を変え品を変え語り、それを読んだ我々は迷子になっているのであろう。

 

あるいは言語と非言語の両者を結合しようとすれば女性強権主義やミソジニーのような社会的かつ主体的という「恋愛の両義性とは矛盾する思想」に着地することになる。

恋愛を語ることは本来矛盾する。あるいは差別的なものである。にもかかわらず差別的に語ってはいけない。それほど危ういものを我々はとてもカジュアルに語っている。それがややこしくなるのはほとんど自明ではないだろうか。

我々は誰かを差別する存在であると同時に差別を嫌う存在でもある。それでもなお差別、選別することを強いられる。その意味で恋愛に暴力が求められるというのは十分に理解可能な言説でもあるだろう。あるいはその暴力が批判されるべきだという感覚も差別を嫌う我々にとって見れば当然のものである。動物的にのみ生きていければそうした悩みを持つことはない。もしくは環境によってパートナーが決定するのであればそうした悩みを持つことはない。

 

言語と非言語が矛盾し、差別心と反差別心を同居させるゆえに我々は苦しむ。過度に理性的な人間は恋愛の差別性に苦しみ、時に回避離脱しようとする。一方で過度に感情的な人間は反差別という社会的恋愛論に違和感を抱き、時に無視してしまう。

そのような相克のうちにありながらそれでもなお回避できない欲望を僕達は抱えながら生きている。

恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲーム、と歌われていたのが記憶に新しいけれど現代においては「恋なんていわばエゴとソサエティーのシーソーゲーム」になりつつあるのかもしれない。

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