メロンダウト

メロンについて考えるよ

純粋方法論批判①(②があるかはわからない)~僕達は考えないようにデザインされている~

正義というとずいぶん陳腐な言葉になった。正義なんて口に出すのも憚れる。僕達は正義を持っていない。いまや正義は委託するだけである。
 
以前、日本で起きているのは「信頼の不況化」ではないかという記事を書いたことがある。
 
資本主義が高度化し、労働者としてサービスに従事するようになれば人格がかたどられていき、人間をべき論として判断する圧力が強まるといった論旨である。
お客様相手に間違った対応をしないことをコミュニケーションサービスの根幹に据えた結果、無謬性が敷衍していった。間違いや齟齬が起きないように人格の粗を削ぎ落して理性的に生きることと言い換えてもかまわないが、こうした無謬性が日本にあって支配的な価値観だと言える。理性や適応、あるいは大人しいといったほうがわかりやすいかもしれない。いずれにせよ大人になるということは無謬性に適応するということであり、経験を積んでTPOにあわせた振る舞いを行えるようになることに近しい。
 
こうした無謬のコミュニケーションにあって人は所与の環境にあわせた振る舞いをするようになり、そして同時に、というかそれ以上にそうした振る舞いを他者にたいして欲望するようになる。自分に期待されていることを相手にも期待する。それは心理的には妥当なものである。しかしそうした妥当性をあらゆる現場でマッチポンプ式に強化していったことによって雁字搦めになっているのが僕達の社会だとも言える。いまやあらゆる価値観はその権威を奪われ多様性や個人主義のもとに思想の差異を計ることは事実上できなくなっている。自由な考え、自由な生き方を敷衍した結果社会生活上残るのは他者に侵犯しないこと=無謬性だけとなった。
 
実際に飲食店などのサービスを振り返って見ても僕達は従業員にたいして従業員として振る舞うことを期待し、従業員らしからぬ振る舞いをすれば奇異の目で見ることになる。その従業員を非難するかしないかは別にして「その振る舞いがおかしい」という認識を否応もなく持ってしまう程度には誰もが無謬性を内面化している。無謬なサービスの現場にあっては事前に決定された関係性のうえでほとんどロールプレイのように人間関係が行われているのが後期資本主義社会であるのだ。
 
こうした無謬性が支配的になればなるほど人は人にたいしてパターナリスティックな判断を下すようになる。それはサービスの現場だけではなくインターネット上でもそうであるし、あるいは恋人関係でも例外ではなくなっている。日常生活における労働でパターナルに振る舞い、パターナルに振る舞われるという反復を繰り返していけばいくほどその形式は自明性として自身に刻まれていくことになる。そうして獲得した自明のパターン化によって人にたいする視座はよりいっそう単純化したものになる。パターナルに判断した時にあの人は不貞を働いたからアイドルには「ふさわしくない」、あの会社はコンプライアンスに抵触したので法人格として「ふさわしくない」という具合にすべてをパターナリスティックの餌食にすることが可能な社会なのだ。もちろんそれが正しいという意味ではない。ただ昨今取り沙汰されているキャンセルカルチャーなどの問題を考えるにそれは実際の生活の延長上で起きているのではないかと愚考しているのだ。ネットに先鋭化した人は「生活を忘れた人」というのが一般的な認識である。現実の複雑さを忘れネットの価値観に染まりきった結果インターネット上で人を傷つけるようになるという。しかしながらもはやそうした認識は過去のものになりつつあるように思う。というのもサービスが細分化され労働者としてそこで期待される役割が専門的、一元的になればなるほど実際の生活がパターンによって連続化されていく。その反復によってパターン化という嗜癖が自身に刻まれていくからだ。もちろん総合職やマルチワーカーにクリエイターなどはその限りではない。しかしそうしたアッパーミドル以上の職種の意見ばかりがインフルエンサーとして取り沙汰された結果、根本から社会を見誤っているのではないかという疑念があるのだ。この社会の多くは労働者であり、そこで形成されるパターナルな反復行為は無視できないものとして横たわっていると、僕は思っている。
 
 
以上のような無謬性、パターナリスティックの現場にあっては人が人を信頼することが難しくなった。人は人を欲望し、人に欲望されるという形式の内に埋もれてしまった。宮台真司風に言えば「法外」の消滅とも言えるけれど。
ここでの信頼を定義するのであれば法の外にあっても関係できる他者のことを言う。すべてが法に慣らされ法によって正義が決定するというパターンのうちにはまった人を信頼することは難しい。無謬であるとはつまり可謬でいてはならないという逆説をも含むからだ。もっとわかりやすく言えば「それでもいなくならないと期待できる人」を人は信頼するものである。目的外や法外で関係できる人が信頼できる人であるが、いまやそうした関係性をつくるのは非常に難しくなっている。サービスは無謬性の内にあり、趣味や友人関係すらも目的の内にある。そうして他者を人材として判断するような人が増えて信頼の不況化が始まったのだ。このブログがそうであるように下手なことを書けば読者は離れていく。どこもかしこも同じである。ツイッターのフォローを外すようにいまや社会はそうした身も蓋もない無謬評価社会になりつつある。あたりさわりのないコミュニケーション、あたりさわりのない投票行動、あたりさわりのない価値観という具合に無謬性を気にするがあまり消極的な人が増え、その結果出世したいという人も劇的に減りつつある。
 
 
 
こうした社会にあって何が起きるかと言えば「自己の世界化」である。
自己存在が無謬性のうちに押し込められた時に人は無謬の境界線を決定することで居場所を確保しようと試みる。どこまで間違って良いのか、どこまで踏み込んで良いのかという内外を暗黙的に決められるコミュニティーの中だけでは自由に振る舞えるからだ。それ以外の場所にいけば永遠の無謬性に晒されることになり孤独に耐え「完全適応」を余儀なくされる。そうではないコミュニティーを形成することで自由の裾野を決定し、そのコミュニティーと自身を同化することがつまり自己の世界化である。
社会と対峙するには僕達はバラバラになりすぎたし、個人の特殊性を容認してくれるような社会にもなっていない。多様性と叫ばれているがそこで承認される多様性はほとんど厳密に定義されつつある。あるいはゾーニングされるべきと言われている。線引きはあるが法外はない。完全に自己を統御し無謬な世界の論理に適応できる個人であればまだしもそうでない人々は徒党を組んで社会の外に逃げる必要がある。社会が目的化していき信頼できる他者を探せる場所でなくなればなるほど外のコミュニティーにしか居場所を求めることができず、そこに絶対の価値を見出してしまうためにエコーチェンバー化し、自己が世界化するのである。
 
そうした需要を満たしているのがSNSである。目的を同じくするコミュニティーの中にいれば無謬性を回避することができる。単にムラであるとも言えるけれど僕達はリベラルな社会にあってムラを捨て個人になったと思っていた。しかしながらリベラル社会に適応できる個人は稀である。そのためムラを再建する必要が出てきた。そのムラの再建を助けてくれるのがツイッターであるのだ。しかし当然ながらムラの内で先鋭化していった価値観はムラの外とは衝突することになる。それが炎上という形で出てきたりキャンセルカルチャーと呼ばれたりする。
しかしながらこうしたムラ同士の衝突は価値観の差異が並列化された社会にあってはなんの果実も生み出さず燃え尽きて終わってしまう。最近も某声優が不貞行為で炎上したりしているが、スラットシェイミングは何年も前から問題になっているにもかかわらず何も改善されてはいない。無謬性の境界を踏み越えた個人をムラの外に追い出してまたのっぺりとムラが続いていくだけである。あるいは政権与党も同様に問題を起こした個人を排除していくことによって政権を維持しているし、国民もそれを事実上良しとしている。
 
 
そしてこうした価値並列個人主義社会にあって唯一残ったものが「方法論」である。
点在するすべてのムラが並列に並べられた社会にあって議論を戦わせてもなんの意味もないので第三者にその勝敗を委ねるという方法論だけが唯一正義を行使できる手段なのだ。国民投票をするようにプロセスの重大さだけが喧伝され議論してもほとんど無意味になりつつある。アイドルが炎上してもその構造自体を変えようとは思わないし、あるいはそうしたムラの価値観に異議を唱えてもそれは「ムラの外の意見」だというふうに判断され、無化される。思想の自由とはつまり永劫に個人の欲望やムラの理念を温存するということであり、それを修正しようとするには裁判で訴えるなりの方法論しかないのだ。
しかしこうした方法論を行使すればするほど個人やムラは自浄能力を失くしていき、困ったら方法論に頼るというパターンを強化していくことになるのだ。某声優の不貞を有名Youtuberという無謬の第三者にリークしてその可謬性を判断してもらうという具合に正義を行使していけばムラの掟を破った人間は方法論によってキャンセルすれば良いという他力主義に陥ることになる。
それを行えば行うほどに個々人が主体的に判断する動機はなくなるうえムラの圧力は強くなり、先鋭化していくのである。また、主体性がなくなれば自分の発言が影響力を持つという責任感も消え、より過激な誹謗中傷を行うことになり、最終的には全体主義へと至る。それはアイヒマンが陥ったものとまったくの相似形であり、「方法論としての虐殺」がものすごくソフトな形で行われているのが今の社会であるとも言えてしまうのだ。
 
社会を良くするというのは原理的に個々人の主体性、あるいは感受性に依存する。それを方法論に委ねてしまうというのは特殊意志を手放してしまっているのと同義であるものの、現実の生活からネット上のインターフェイスまであらゆるところで僕達は考えないようにデザインされている。
「個人は考えないでパターンに依存し、サービスの現場にあっては無謬なサービスを提供し、衝突があればゾーニングし、正義は第三者に委ねるべき」
という構造上の問題が僕達の前に立ち塞がっている。それをまず認識することから始めるのはどうだろうかと、僕なんかは思うのだ