メロンダウト

メロンについて考えるよ

日本で起きている最大の問題は信頼の不況化ではないか?

以前、個人は世間を信用しなくなったという記事を書きました。思えば僕が社会についてなんか書こうと思う理由はすべてがこの個人主義、または利己主義の残酷さについてでした。

最近、自分のブログや増田をはじめてまるまる読み返してみたのですが、てきとうに書いてきた文章も総体的に見れば自分が何を言わんとしているのか、自分でも気づけていなかった核のようなものがわかった気がいたします。それがおそらく日本の閉塞感の最たる原因である利己主義についてだったと思うのです。

長文(5000文字強)になりますが、読んでいただけたら幸いです(読んでくださいと書くのは何気に初めてです)

 

 

おそらく最も根本にある原因は資本主義による感情の無謬化と一様化ではないかと捉えることができます。

無謬化とは自己の無謬性、自分は善人であり庶民であり個人であり悪人ではないと考えるような、臆病で間違う可能性のある行動や発言をしない常識ある一般人のことです。

過去記事のリンクを張っておきます。

plagmaticjam.hatenablog.com

資本主義による生産性や世間からの需要によりみんなが総じて働く必要のある社会では強制的にその性格さえも社会に適応せざるを得なければいけなくなりました。

レストランでもコンビニでもホテルでも特異性のある業種以外の対人コミュニケーションの適応力はつまりどれだけあたりさわりのない人間でいられるかに集約されます。ホテルでもレストランでも接客のマニュアルはどこでもさして違いはない。(実際に今や高級ホテルでもパチンコ屋でも形式的にはほとんど変わらない顧客対応がなされます)

全業種でいかに無謬で機械的な対応ができるかと定型化していきます。

その無謬化は多くの人を相手にしている大企業になればなるほど強く表れるようになり接客のマニュアル化はいわく日常の個人のマニュアル化にまでさえ浸食しているのではないかと思うのです。というのも最近の若い人を見るにつけ異常なほどにジェネラリストが増えたなと感じます。特異性や色がない。以前の暴走族だとかもっと前だと赤旗事件や学生運動、二二六事件などがありましたがそういった特殊性が良くも悪くも消えているような印象を受けます。

 

最近はコンビニや牛丼チェーン、ユニクロなど衣食住の基本的な産業はほぼ大企業が占めるようになってきてその傾向がますます強くなってその人数も多くなっています。自営業者が激減し小売や飲食はフランチャイズ化しています。接客マニュアルに逆らうと本部にクレームが飛び経営危機となる。自営業者が行っていた売り手と書い手による対等な売買関係は消え裁量がなくなった結果、サービスも一様化していきます。

資本主義やグローバル化が進むと物は多様になるが現場の労働者は一様化していく。

 

国際化し多様化が表面上は叫ばれるようになりましたが資本主義の経済原理は上述したように「全顧客へ適応できる無謬のサービス」です。国際化し資本主義が発達すればするほどに大衆は無謬化を(消費者として)要求し(労働者として)要求されるようになり一様になっていく。多様性は言論としてしか存在せず現実の労働環境においてはこれ以上ないほど一様な社会になっていると結論づけることができます。

実際の例をあげると僕はコンビニの店員とドラゴンクエストの町にいるキャラクターとがダブって見える時があります。

「Tカードはお持ちですか?」のあの質問がドラゴンクエストの世界で武器や道具を買い終わった後に出る選択肢

「買う・売る・やめる」

の中からやめるを選択する時のようなわずらわしさ、めんどくささを感じるのです。人間は労働現場においてすでに機械化・ゲーム化しているのではとうすら寒い感覚になりコンビニの店員が感情を持った人間に見えないようなそんな種類の戦慄が走るのです。

人を人として認識しないでもいい(したほうがいいが対人関係のような強制力のない)コミュニケーションはコンビニをはじめインターネットの匿名性などもそう感じます。

 

ここまで資本主義が無謬化を生むと書いてきましたけどしかしそれはそんなに悪いことなのでしょうか?人間が無謬化してみんな幸福ならそれでいいじゃないかとそういう結論になりそうです。

しかし自分はこの無謬化が良いものだとは考えていません。

資本は便益を生みます。具体的にはコンビニという便益を一切使わないで生活するのは不可能です。無理やりコンビニを生活から切り離しグーグルも使わず車も乗らずテレビも見ずに生活する。すると金は相対的なものなので便益を利用して生活している人との隔絶が生まれ相対関係により貧窮していきます。また99%の人と話がかみ合わなかったり孤独感にもさいなまれることになり人間関係を構築するのも難しくなってしまうかもしれません。

つまり原理的に僕達は資本の運動には不可避に巻き込まれざるを得ない。そうした資本運動によってまた新たなサービスが生まれる。コンビニやアマゾンは便利です。古着屋やおしゃれな服屋で経験するような店員の売り込みや保険の営業なども回避してくれます。ありとあらゆるサービスは個人でも生活できるような環境を提供してくれる。

そうして個人主義が発達する。

しかし個人主義ほど人間の関係性を脅かす世界は存在しない。個人主義社会はいうまでもなくひどい社会です。結局、どんな便益が生まれても資本による便益は生存を容易にしてくれるものの範囲を脱しない。

 

誰が書いてたのか忘れてしまいましたが人間には生きるうえで2つの不安(経済的な貧窮と自己存在の不安)があるという文章を読んだことがあります。資本主義は経済的な貧窮を解決してくれますが上述した理由により個人主義になり自己存在の不安を増大させてしまう。こっちをたてればあちらがたたずと。トレードオフの関係性にある。明治、戦後、昭和と生存環境が幸福の前提として求められていたなかでは資本の運動に身を任せることは生存戦略としてそれでよかったのかもしれませんが、最近になりなにか分水嶺を越えてきたと感じるのです。

つまり本来は切り離されているべき自己存在の不安を埋めてくれる聖域にまで資本が流れ込んできたのではと。

聖域のなさ。特に近代、そして特に日本においてそれはとても顕著に出てきているのではないかと感じるのです。

 

 近代日本人は聖域を見つけるのが難しくなった。近代どころか全世界でも史上初めてといっていいほど聖域の少ない社会に日本だけが近づいていっているのではと怖くなることがあるのです。

ここで言う聖域とは家族のようなものを想像してもらえたらいいと思います。居場所とか帰る場所とか何も求められないし何も求めないでも人間関係が超自然的に在る場所を聖域とここでは呼びます。 

 

 全世界史的には宗教が確保してくれているものですが日本には特定の信仰と呼べるものがない。日本では明文化されていない愛や礼による人間関係の強固さによっておそらくは社会にたいして宗教を見ていた。お天道様が見ているわよなんて僕も子供のころに聞いたことがあるけど宗教がないぶんそれを担保する人間関係が日本人の存在を支えていたのでしょう。代表的な聖域は今でももちろん家族です。

 

 家族以外では日本人の聖域は江戸時代には武士道のような誇りと結びついたり、大東亜戦争第二次世界大戦中は日の丸や旭日旗によってナショナリズムが強力に日本人のアイデンティティーと結びついていたのかもしれません。

しかしこのような歪んだナショナリズムは当然、近代では忌避される価値観となりました。次に出てきたのが昭和期や高度経済成長時の就職だったのでしょう。就職というと能力により対価をもらうのが現在の一般的な考え方ですが、昭和の(多くの大企業では)終身雇用は労働力と金の交換ではなく企業という家に入るという形式だったと本を読んだり話を聞くかぎりそんな印象を持ちます。

だから会社の人間関係がセーフティーネットになっていたし東京周辺でも核家族の子供を同僚に預けることができたりと、家庭と仕事の両立が可能だった。端的に言えば融通が利いたのでしょう。(自分が小さいころに会った父の同僚は同僚というよりかは友人という属性が強かったと感じる)

 

しかし現在は終身雇用はほぼ存在しないし会社が家だという概念は消え去り、会社の中で存在した互助会は少なくなってしまった。形式的には産休や育休という制度が増えてきているが多くの企業は働くためだけの場所となり人間関係による互助や融通は少なくなっている。具体的な例をあげれば保育園の待機児童問題がある。あれは行政の問題ではない。人間関係やコミュニティーの問題なんだろうと捉えている。(現実的には社会保障として対応すべきだが問題の本質はそこではないという意味)

以前のムラ的共同体ではおじいちゃんやおばあちゃんが育児を助けてくれたり同僚が仕事の融通を利かせてくれたりしたが個人はバラバラになってしまった。

 

 ここまでまとめます。

資本主義によるサービスの最大効率は全顧客に対応できる無謬のサービスである。→無謬のサービスはマニュアル通りの接客を要求され機械化される。→日常の対人コミュニケーションにも浸食する→みなジェネラリストになる

資本の運動から逃げたら貧困になるので逃げる術は存在しない→資本は便益を生む→個人でも生きていける社会を作る。→人間関係のわずらわしさから解放してくれる。→個人主義社会になる。→個人主義社会は自己存在の不安を増大させる。→聖域が必要→日本人には宗教がないうえに平成になって企業内の互助会も捨てた。

 

 

しかしなぜここまで個人主義社会になって東京を筆頭に聖域が少なくなってしまったのかは資本や経済の問題だけではないと思うのです。

20年来、ずっと経済的には不況だと言われてきましたがものすごく感覚的な話をすれば同時に信頼の不況化も進行していたのではないかと思う。つまり他人を信頼するというのがどんどん難しくなってきているように感じる。

一般に他者への信頼は治安が悪くなって悪人ばかりになれば当然、失われていきますが日本の犯罪率はどんどん減少しています。むしろ善人ばかりになって良い社会になってきているようにも統計的には見えます。しかしそれと反比例して感覚的には他人を信じるという行為が難しくなってきているのは(子供を預けることができる他人がいないという)保育園の問題からも明らかです。

 

これは経済的な問題以上に問題なのですが数値化できないものなので問題としては一般的に認識されていません。

信頼できる他者を考える時、子供を預けられるかどうかというのはとてもわかりやすい指標ですが、もっと広義な言い方を試みるならば信頼できる他者は目的がなく繋がれる人間だと経験上は言えます。

インターネットが出てきて人とつながることが簡単になったとたびたび耳にしますがインターネットは目的のある繋がりをつくるのには非常に有用なツールですが目的のない繋がりを見つけるのは難しい。

僕がはてなで読んでいるブログやブックマークのお気に入りも誰それが書く文章という目的があって繋がっています。あるいはインスタグラムでも綺麗な写真を挙げているからフォローしたりツイッターもウィットが利いた短文が面白いからとフォローします。のちに目的のない繋がりに昇華することはあっても入口はすべて目的があり評価がある。これがインターネットの繋がりが表面上だと言われる一番の理由ではないかと感じます。そしてこの目的のある繋がりで何万人とつながろうとも(断言しますが)絶対に上述した聖域にはなりえないと確信しています。

そして問題は評価されなきゃ、頑張らなきゃ繋がってくれないと認識することは目的のない繋がりをつくるのに障害となることもある。価値のある繋がりは頑張らなくても自然にいられる関係なので無理して自分を取り繕おうとするのは時として害になってしまう。

そうしてみんな合目的の領域内で頑張るけれどもそういった承認されうるポーズをとればとるほど目的のある繋がりは増えても目的のない繋がりは不況化していく。頑張らなきゃ頑張らなきゃと他人に踏み込めなくなり表面上はネットで莫大な人数と繋がっていても根底では個人のままと。

 インターネットは繋がりを生むけれども人にとって本当に大事な目的のない繋がりを形成するのはけっこう難しい。不可能とは言わないが相手もこちらもある個人の属性を求めあう点ですべての出会いは就職活動のように面接化してしまう。

 

これは端的に言えばとてもめんどくさくまたもっと言えばある人にとっては不毛なものに 違いない。

 

 この話は上述した聖域の話と直接リンクする。つまり昭和期の国民国家によって与えられた人間像(ナショナリズム)はグローバリズムという不可避の事態によって解体し、企業の家族性も経済効率によって解体し、日本人には宗教も一般的ではなく、さらに最後に残った目的のない人間関係もインターネットによって解体し始めている。

 

その全てをもって人の自己存在の不安は増大し「なにも大切ではない社会」 になって社会がどんどん即物的な消費にはしり動物化していっているような印象を強く受ける。

冒頭に戻ればつまり個人主義は人の聖域を解体しつくして利己主義を生み利己主義者を信頼することは難しいので信頼の不況化を生む。それが近年になって問題とされている日本の閉塞感の最も重要だが解決不能な問題となっているように思う。

 

 

この文章は一部、感覚的な話を無理やり論理に落とし込んでいるのは自分でも了解している。しかし確かになにか人が人を信頼するとか人を人として認識するだとかそんな対他者へ向ける視線の温かさのようなものが失われていっているような・・・そんな気がするのだ。