メロンダウト

メロンについて考えるよ

LGBTの政治的配置と弱者男性論の関係、自由の原罪、恋愛の外部性

トイアンナさんの記事を読んだ。さすがにうまく整理されている。個人的に結論には同意できないけど概要としてはかなりわかりやすい。

gendai.ismedia.jp

この記事を読んで、現在話題になっているLGBT理解増進法に関して思い出していた。かなり関係が深いニュースであるように思う。

lgbtrikai.net

 

LGBT理解増進法に関しては自民党保守派の人々だけではなくLGBT当事者にも反対する人が少なくない。千葉雅也さんをはじめLGBTにたいして政治的な位置づけをおこなうこと自体に反対している人々がいる。ほっといてくれと。種の保存やら生産性やらいろいろ言われることがあるLGBTの方達だけれど、一部の当事者からすれば政治的な枠組みで性愛をとらえられること自体が嫌なのでしょう。LGBT当事者かつ哲学者である千葉雅也さんがそのように言っているのはことさら重く受け止めるべきではないだろうか。

性愛を政治的な枠組みで再配置することは哲学的な思考様式において悪徳なのであろう。それはとてもよく理解できる。僕はLGBTではなくヘテロ男性であるが、ヘテロ男性が資本主義的な価値基準で査定されるようになったこととまったく同じ様式であるからだ。ある物事(特に恋愛など政治や社会から遠い物事)を政治的及び資本的な枠組みにおいて配置していくことは原義的な意味での自由からは遠ざかることになる。資本と政治を恋愛に援用すれば必ず価値の優劣が発生してしまう。資本主義においても政治においても例外ではない。そして、いつしかその優劣における競争に恋愛が取り込まれていってしまう。

 

冒頭のトイアンナさんの記事に関して言えば結局のところ男性差別の何が最も大きな問題かと言えば資本主義に恋愛が飲み込まれているところにある。それは以前にも書いたけれど

ぜんぶ資本主義が悪い~『人新世の資本論』を読んでの所感~ - メロンダウト

男性は女性から求められる人材であるために資本主義的な競争に駆り立てられる。その競争の結果を持ってしてヘテロ男性は恋愛市場で再配置されいくという地獄のような社会になっている。男性にとっての恋愛は資本主義と切っても切り離せないものとなっている。資本主義的な価値を男性の価値と連動させた結果、原義的な恋愛から遠ざかっていることはおよそ間違いないであろう。

千葉さんがLGBTの政治的な配置に反対していることもそのような文脈での批判だと推測できる。LGBTに政治的な意味を与えれば「政治的に正しいLGBT」といった奇妙な価値観が生まれかねない。資本主義が個人の精神を侵食し、リベラルがリベラルを内面化するように、である。LGBTを社会の表舞台に晒せば本来の意味での恋愛とは別の政治的価値観が生まれ、その価値観が恋愛的価値観へとスライドしていくことは想像に難くないだろう。いずれにせよ原義的な恋愛からは遠ざかることになる。それはかつてヘテロ男性が通ってきた道である。男性の恋愛が資本主義的な価値基準と連動した結果として、男性は資本主義に適応せざるを得なくなり、原義的な意味での恋愛を行うことは難しくなった。資本主義的な競争の結果としての年収や適応度をマッチングアプリで開陳しあう。それが今の社会における恋愛の雛形となっている。さらに言えば資本主義に適応したうえで政治的に正しいプロセスを踏んで恋愛しなければいけないのが現在の男性である。お金もないおじさんは女性に告白することすらハラスメント扱いされ「正しくない恋愛」とされる。以上のように資本や政治を恋愛にまで適用すると政治的及び資本的価値基準が「べき論」として機能してしまい、「それ以外の人々」をスクリーニングして排除しかねない。それほど危険なものである。

同じようにLGBTの方に政治的な位置づけを与えれば政治的な正しさにおける競争が生まれることになるかもしれない。

ヘテロ男性が資本主義に飲み込まれたように、千葉さんは「LGBTがリベラル的価値観に則った在り方しか認められなくなる」ことを危惧しているのであろう。LGBT理解増進法に反対するのもそのような意味だと考えられる。

 

抽象的に言えば自由はそれを自由だと言った瞬間に自由ではなくなる側面がある。「資本主義的な価値基準で男性を査定するのも自由ですよ」と言った瞬間に女性がそのように欲望するようになり、そのような社会である以上、男性は資本主義に埋没していくしかなくなり「彼の自由」は失われることになった。なにをするにも自由な社会においては個人の欲望にしか主体が認められず動物的な判断しか残らなくなる。そのような動物的な社会において雄は雌を獲得するためにより過酷な競争を自由の名のもとに強いられることになった。それが男性の地獄であり、そのような競争原理のもとに弱者男性が生まれる。誰かが勝てば誰かが負ける。『動物化するポストモダン』とはよく言ったものだと、今でも思っている。

LGBTの自由もそのような帰結を辿る可能性はおおいにある。より政治的に正しいLGBTが愛される社会。そのような社会はLGBTの方達も望んではいないであろう。

 

僕がネオリベにたいして懐疑的なのも政治と自由は原理として相反するものだからである。自由とは動物のそれであり、動物のそれとは強者が勝つこと以上のものではない。弱肉強食かつ適者生存の世界において生まれるのは格差であり、その格差は資本主義の文脈において自明のものとして是認されてきた。それを解体しようとしたのが近代のリベラルであるが、今度はリベラルが正しさやメリトクラシーを持ってして人間の優劣を価値付ける事態になっている。つまるところ資本主義や政治とはこの社会が最低限回るための「内側の制度」に留めておくべきであってそれを人間的な恋愛や行動様式にまで援用して解釈するのは悪徳であるのだろう。この社会の外側にあるべき聖域としての恋愛を資本や政治で侵さないでほしい。政治的な議論や資本的な契約はそれとして大事ではあるが恋愛は原義的にそれらとは別領域に存在すべきものなのである。