メロンダウト

メロンについて考えるよ

純粋多様性批判〜極彩色に振り切れた世界で〜

佐々木俊尚さんが「多様性とは挿入である」といったことを書かれていた。
社会を新たな価値観に染め上げるのではなく、新しい価値観を挿入するのだという。Aという価値観、Bという価値観があればそこにCという価値観を挿入するのが多様性のあるべき姿であると。理想論としてはその通りだと思う一方、疑問がある。ダウトだ。つまりCを挿入した結果AとBの距離が開くこと、その距離・格差こそが多様性の本当の問題であるように思う。
 
 
多様性に反論すると言えば弱者をないがしろにするのかという批判がくるため、即座に封殺されることになる。社会的立場がある人であればそのようなことを言うことすらできないだろう。なので匿名であるこのブログで書いていくことにしよう。
一般に多様性と言う時、僕達は弱者を包摂する価値観と捉えているけれど、実態を振り返ってみればむしろ「弱者をつくる」ことに寄与していることに注意すべきだと言える。
最もわかりやすい例で言えば男性が稼ぎ女性が専業主婦という旧来的な家族の形が消えた日本にあって世帯間格差はむしろ拡大している。男性が稼ぎ女性が専業主婦という家族の形では社会の格差を世帯内で解消していたけれど、多様性もとい個人主義が浸透すると強者男性+強者女性の婚姻が増え世帯間格差は広がった。一方の弱者女性及び弱者男性は婚姻そのものから離れ少子化が進行している。
そして僕達はこれに反論できないでいる。個人の多様性を認めるとはつまり弱者の弱者性を認めることだけでなく、強者の強者性をも認めることであるからだ。多様性の問題とはこれに尽きるのではないだろうか。この先、社会を改革しようとすれば多様性を脱構築する必要がある。多様性により「なんでも認める」と「認める側=強者」に権力が集中することになる。それを解体しなければ認める側と認められる側に社会が二分され、誰もが認める側になろうとする、と同時に認められる側になろうとする。
みな弱者と強者の両方を望む。ゆえに弱者であることを利用して強者であろうとするような今のリベラルが生まれる。弱者として承認され強者として権力を得る。それが今の政治闘争のあり方なのである。こうした言論及び価値観の構造がある限り、永遠に多様性は達成されず、強者と弱者の格差は温存されつづけることになるだろう。
多様性が誰にとって都合が良いかと言えば強者にとってであり、それを弱者の為の価値観だと言うのは倒錯してやしないだろうか。
世界中で最もリベラル的価値観が強いアメリカ西海岸にしても尋常ではない格差があり、現実にはホームレスが溢れかえっているのだから多様性を取り入れればむしろ格差を拡大することになるのはすぐにわかりそうなものである。しかし日本では敗戦国らしくアメリカ式リベラルを輸入し、格差を拡大している。多様性とは崇高な理念である一方、無視できない現実的弊害を生む。それには注意してしかるべきであろう。
 
先述した通り、多様性は強者の強者性を認めることにその本質がある。「ムラ」や「イエ」といった共同的な規律を軒並み解体し、個人が自由に振る舞って良い世界になれば自由を発揮できる個人=強者が社会のキャスティングボードを握ることになる。
弱者がその自由を発揮し、社会の構造を変革するゆえにリベラルは革新だと考えられているが、そうではない。多様性により弱者と強者がフラットに並べられればより権力側に近い強者が実権を握ることになる。そのため、自由主義ほどに権威主義的な政治思想はないのだ。コロナ禍にあってリベラルがロックダウンを主張するなど一見すると自由とは矛盾した統治的振る舞いをしていたのも、むしろそれがリベラルの本流ゆえであろう。多様性とは強者のものであるためリベラルとは元来権威的であるのだ。その果てに国民を啓蒙すべき畜群として扱う傲慢なリベラルが生まれる。弱者は弱者として傲慢であり、強者は強者として傲慢なのだ。それは現実を振り返ってもよくわかることではないだろうか。
たとえば交通社会にあっても傲慢なのは原付に乗っている弱者であると同時にベンツやBMWに乗っている強者である。原付は弱者として傲慢でありベンツは強者として傲慢である。それが多様性がつくりだす「現実の世界」であろう。さらに言えば多様性という価値基準は「原付に乗っている強者もいるし、ベンツに乗っている弱者もいる」という「理想論」をも構築することで現実を覆い隠す機能をも持っている。その結果、強者と弱者、そして現実と理想論の板挟みになり「何も語ることができない」まま現状を温存していく。その状態こそがまさに強者にとって都合が良い世界であるのだ。
多様性とは弱者と強者の両極に振れる価値観であり、その板挟みになっているのが僕達が置かれている状況、つまり今の社会だと言える。
当然ながら、こうした言説には「女性やLGBTを擁護するリベラルが権力側であるはずない」といった批判がくる。実際、強者と弱者とはそれほど簡単に分けられるものではない。それはそうであるが、しかし問題は「女性やLGBTが弱者として多様性を擁護することこそが強者にとって都合が良い」ことにある。
 
たとえば先の選挙で立憲民主党が見当違いなキャンペーンを展開し選挙で惨敗したのがそうだ。女性やLGBTの権利、選択的夫婦別姓といった弱者とマイノリティーに振りきれた政治主張を展開した結果、現実の格差=経済政策での論争にはならず自民党という強者に都合が良い選挙戦となった。弱者を保護することが大事だということを言い過ぎると、弱者と強者の対立戦争に政治が回収されてしまうわけだ。実際、「自民党を支持しているわけではないが自民に入れた」という有権者はかなり多い。消極的自民支持で「野党よりも比較的ましであるため自民党に入れた」という投票心理はかなり一般的なものだ。こうした投票しかできない政治をつくっている価値観こそが「弱者を強者にとって有用な仮想敵とする、しても良いとする多様性」であるのだ。
多様性により「過度な属性化・物語化」が進行すると弱者と強者に分断されるため政治にあっても「弱者の物語に振りきれた立憲民主党」と「族議員既得権益で固めた強者の物語を持つ自民党」に政治が二分された。多様性のような言説ばかりが言われるようになれば弱者と強者しか政治性を持ちえないのが今の政治風景なのである。多様性が支配的になればなるほど「多様性に適う弱者」に政治的視点が集中し、普通の市民が不可視化されていってしまう。
「人間関係や物語を過度に政治に持ちこまず能力がある人間が立候補してほしいという普通の意見」は「多様性社会」にとってプライオリティーが低い。プライオリティーが低いとは誰も共感しないということであり、ゆえに政治的なイシューにはならないが、しかし政治において本当に大切なことはまさに普通のことのはずだ。
普通に統計を処理する、普通に病床を拡大する、普通に政治責任を取る、普通に裁判に応じる、普通に再分配する、普通に外国と交渉するなど。
強者の強者性にあぐらをかいてきた自民党にあって対立軸となるのは本来この「普通の政治」であろう。しかしながらそうはならない。強者の物語=自民党世襲議員などに対抗するためにこちら側も弱者の物語を武器に政治を行うのが多様性により分断された世界であるからだ。
多様性が敷衍した世界にあっては「まず弱者を救う」ことが優先される。しかし弱者を救うという理念こそがまさに強者にとって都合が良い。リベラルの限界とも言えるけれど、昨今の政治風景は「多様性という袋小路」に陥っている。弱者のための政治というのも結構なことだけれど、真に弱者を救うのは「普通の政治」「能力のある政治」ではないだろうか。
 
経済においても多様性の弊害は存在する。SDGsなどを念頭に脱成長論が話題で資本主義は限界と言われることが多い昨今ではあるが、妥当な経済政策を行い、最低賃金をひきあげ、労働者から搾取するような企業には退場していただくなど「普通の資本主義」で救える人々はまだ数多くいるはずである。しかし多様性≒新自由主義により「自由な強者」が経済を動かすようになると「普通の経済」すらまともにできなくなる。喫緊の例で言えば、最低賃金をひきあげることができないので外国人労働者技能実習生という名目で雇い低賃金で働かせるというのがそうだ。人に働かせるというこれまでの産業構造を温存することにより機械化やシステム化が遅れる。機械化やシステム化が遅れれば企業の生産性は向上せず、グローバル市場において後塵をはいすることになりマクロ経済はダメージを受ける。そのダメージは国民生活にそのまま直結することになる。経済学的には「底辺への競争」と呼ばれるものであるがグローバルな労働市場にあって先進国の労働者は後進国の労働者と競争させられることになり、最低賃金後進国に均されていく。それをせき止め自国民の経済、つまり財産を守るのが憲法に書かれている本来の政治の役割であるはずだが、政治が守っているのは株価だけなのだからほとんど冗談のようにしか思えない始末だ。
弱い企業を守るという「多様性的救済」が実質的には労働者に底辺への競争をうながし普通の個人の生活をも困窮させ新しい弱者をつくる。そうした構造(強者の専断的な振る舞い)をつくっているのが弱者と強者を分断する多様性という価値観である。
佐々木さんの言説を援用すれば「Cという価値観を挿入した結果A(強者)とB(弱者)の心理的距離が離れ、D(外国人労働者)とB(自国民の弱者)を同一視する」状況を生み出してきた。それがゆえん多様性の経済的な側面であり、グローバリズムと呼ばれるものの正体であろう。
全員多様な同じ人間であるという言説は現実的には後進国の労働者と同じ待遇で自国民を働かせることを正当化する。それが新自由主義経済なのだ。自由な競争社会にあって強者が勝つのは自明であり、自由な労働力の調達という点で自国民も外国人もフラットに評価するのが多様性の「現実的帰結」なのである。
こうした状況にあっても弱者が弱者としてふるまっている限り社会の権力構造が変わることはない。多様性を絶対の価値基準だと認め続ける限り、現実にはA(強者)がB、C、Dを並列に弱者として扱う専断的振る舞いを許し続けることになる。強者にとってはそれでもかまわないのだ。今のままの生活を続けられればそれで良い。それが強者がキャスティングボードを握る今の日本経済であり、僕達は20年間ずっと「強者が今のままの経済を続けていくこと」を目的に経済を動かしてきた・・・いや、動かさないできた。B(適正な労働者)が駄目ならC(派遣労働者)を、Cが駄目ならD(外国人労働者)を、といった具合に今の経済をそのまま維持させる。経済も雇用も最低賃金も物価もなにもかも動かさない。その証拠が20年間変わることがない実質賃金なのである。
 
 
 
また、多様性による弊害は恋愛にも影響している。多様性は弱者と強者に社会を二分する価値観であり過度な属性化と物語化を引き起こす、ということは先ほど書いた通りであるが、こうした構造は昨今しきりに言われている恋愛格差の問題にも影を落としている。
自由恋愛は強者男性と強者女性のマッチングを促し、弱者は弱者として分断される。冒頭で書いた通り、婚姻が担っていた家庭内の格差解消といった社会的役割は消え、自由恋愛の現場にあっては強者同士がマッチングするようになった。一方、弱者は強者と結婚することを望む。しかしながら強者は強者同士でマッチングするため、弱者が強者と結婚するには職場など限られた場所で射止めるしかない。それ以外の「普通の男女」は多様な生き方という名目に慰められ、現実的孤独を抱え、生きている。それが今起きていることなのだろう。男性だって弱者女性を養いたくはないし、女性だって弱者男性を養いたくない。自由に恋愛して良いとなればそうなるのは自明であり、結果として強者+強者のパートナーが増え格差は広がっていく。
昔は女性が専業主婦という社会的なモデルがあったため、自由な欲望に制限がかかっていたのだろう。男性だって性よりも愛よりも婚姻といった「責任の内」にあり、結婚して一人前みたいな差別的発言を言われたと耳にする。その不自由を批判するのは簡単であるが、しかしその不自由さこそが全体の最適化を生み出し一億総中流社会を生み出してきたという「功の側面」もあったのではないだろうか。翻るに現在、多様性によりあらゆる価値観が並列化された結果「普通さ、スタンダード」は消滅し、誰もが「ベタベタの自由恋愛」に晒されざるを得なくなった。多様な恋愛の現場にあって恋愛のスタンダードは存在できなくなったのだ。
 
もちろん自由恋愛も女性の社会進出も良い事ではある。しかしながら昔の人がそんな単純な事にすら気づかないほど愚かだったのだろうか、ということは考えるべきだろう。自由や多様性という理念により一点突破してきたのが現代であるが、昔の人だって自由が至上の価値観であることはわかっていたはずだ。それでもなお守るべき社会のサステナビリティ―、国力というものがあるからこそ標準世帯という「普遍的価値観」を軸に社会をつくっていたと見ることもできる。その普遍的価値観が差別を生み、女性を虐げてきたという側面は事実であり、批判されてしかるべきであるものの、普遍性から逸脱する自由は昔だってあったはずだ。それは今僕達が信じている自由とは質や重みが違うものかもしれないが、それでも自由はあったのだと言うこともできる。
「自由にやりたい人はそうすればいい、しかし社会はある種の普遍性のもとに運営していく」というダブルスタンダードこそがむしろ社会を持続させる価値観だったのではないだろうか。もちろんそんなダブルスタンダードなど必要ないと言うのであればそれでもかまわない。しかしいまやその是非について「論じることさえできなくなっている」。それだけはおかしなことだと断言できる。
 
「自由に一元化された世界」になるとこうしたダブルスタンダードは許されなくなりみなが自由に生きていかなければならなくなった。僕達は自由に生きていける、のではない。自由に生きて「いかなければならない」のだ。子供のころからそう教えられた。やりたいことをやりなさい。自由に生きなさいなどなど。そうした自由の濁流の中で多様でバラバラになった僕達に何が起きたかと言えば「属性化」である。多様な個人を包摂するという社会からのアナウンスメントに応じる形で僕達は自らの属性を開陳する。男性は男性、女性は女性、トランスジェンダートランスジェンダーであると。社会的強者である、社会的弱者であるなど余計なことまで求められたりする。
しかし長年思っていることだが、属性と言っても男性と女性はそこまで明確に切り取ることができるのだろうかと思うことがある。もちろん男性と女性では生物学的には明らかに違いがあり、染色体から体の構造まで違ったりするわけだが、しかし社会的な側面から言えば「重なっている」というのが実感である。僕は男性であるが同時に女性でもある、というと奇妙に響くかもしれないが多くの人もそうなのではないだろうか。
その混在にこそ本来、差別を脱する鍵があるように思う。しかしながら多様性により属性化された世界になると女性が言うことは女性の意見として取り上げられ、女性の権利を守るということまで堂々と言われたりする。そこになんとも言えない気持ち悪さがある。「あなたは女性であるけど男性でもありますよねという批判」がもはや機能しないのだ。
佐々木さんの言説を再度援用すればAとBとCはそれぞれグラデーションによりお互いがお互いに干渉する存在で、同居する存在であったはずだが、いまや女性の発言・権利といった具合にすべてが属性化されていく傾向にある。
これも多様性の仕業であるように思う。つまりこうだ。多様性は挿入の概念であり、男性と女性の間にLGBTという属性を入れると男性と女性の距離が離れ「重ならなくなる」。LGBTだけでなく、ポリアモリーでもペドフィリアでもなんでもかまわないが、性が多様になるとはつまるところ男性も女性もひとつの性に過ぎなくなるということだ。
ありとあらゆる性を挿入すれば社会はそれこそLGBTを意味する虹色に見えるかもしれない。しかし虹色が綺麗だと思えば思うほど僕達はそれを「混ぜたくなくなる」のである。それが女性は女性として発言し、男性は男性として発言するような「混ざらない言論」をも生み出しているような、そんな感覚があるのだ。
もちろんこのような言説は言葉遊びに過ぎないかもしれない。しかし昨今の「多様に属性化された言説」を見ていると意外と的を外していないのではないかとも思っている。
 
いろいろな属性が混ざり合った灰色より多様に属性分けされた虹色のほうが綺麗。実のところ単にそれだけだったりするのではないだろうか。
クリスマスイブに飾られるイルミネーションの鮮やかさと同じように、極彩色に振りきれた「多様性という幻想」が現実に蓋をしている。そんな身も蓋もない価値観に僕達は囚われていたりはしないだろうか。
「色を好む」というのもけだし人間的ではあるのだけれど・・・でも、本当にそれで良かったのだろうか