メロンダウト

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政治的問題に矮小化するということ~無敵の人について~

ひろゆき氏がめずらしく神妙な面持ちで話をしていた。

 

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先日、安倍元総理大臣が銃撃に遭い亡くなられたことで様々な意見が言われている。個人的にも様々なメディアを見ていたのだけどひろゆき氏の意見には深く考えさせられるものがある。

今回の事件は犯人が動機を供述しているため、いわゆる無敵の人による無差別殺傷事件とは異なるものだと言われているが、無敵の人と重なる部分も大きい。

 

はじめに事件の経緯を確認すると、犯人は派遣社員として勤務していたが仕事を辞め、マンションで一人銃火器を製造し犯行に及んだのが今わかっている経緯である。マンションの最上階に住んでいたという暮らし向きからするといわゆる「弱者」とは言い難いかもしれないが、しかし孤独であったことは間違いないだろう。

 

家庭を壊した宗教団体を恨み、その団体と関係していた安部元総理を狙うという事件の経緯を見ていると、その恨みをどこかで清算できなかったのだろうかということを強く思うのだ。

カルトや宗教団体に限らずとも、生きていれば殺したいと思う人間のひとりやふたりぐらいは出てくるものだと思う。明確な殺意とまではいかなくとも「死ねば良いのに」ぐらいのことは誰しもが考えたことがあるだろう。個人的にもそのような経験はある。しかし多くの人はその殺意をどこかで清算することで人生を続けていっている。どんなつらい過去でも気が合う友人だったりと出会うことで「過去のことはどうでもよくなれる」のが人間ではあるのだろう。

いずれにせよ自らに降りかかった問題をそのままの熱量で恨み続けるというのは並大抵のことではない。それは宗教やカルト云々という話ではなく、ごく一般的にそうだと思う。映画や漫画などでは過去の恨みが「生のまま」物語として展開されるけれど、現実にはそんなことはなく、過去の恨みはいつしか物語もへったくれもなくなり、なあなあになって人生は続いていくものである。

しかしながら、現実においても映画のように恨みを持ち続けてしまう条件をあげるとすれば、それは「孤独」ではないかと思うのだ。

 

人生がうまくいかなくなったり、家庭が崩壊しても、孤独でなければ過去の恨みを未来にたいして留保することができる。つらい過去にたいして同情してくれる人だったり、相談できる人がいれば恨みが希釈されるということもある。そこが映画と現実が違うところであって、たとえ多くの人が死んでほしい人間を妄想していても、僕たちは誰かと関係している限り、そんなに強く誰かを恨み続けることなど本来できないし、ましてや実際に復讐することなど極めて稀である。

しかし孤独になった人々にとってはそうではない。過去と今がストレートにつながり、かつ未来がない状況であれば恨みや殺意がそのままの状態で保存されてしまっているのだろう。また、孤独になれば自らの妄想と現実の境目がなくなり、犯行に至ってしまうケースもあるかもしれない。

いわゆる無敵の人について何が最大の問題かと言えばこの時間軸の直列性を引き起こす「孤独」なのではないかと思う。弱者や強者という枠組みは、弱者のほうが孤独になりやすいという周縁の条件であって問題の本丸ではない。

ゆえん孤独だけが問題ではないだろうか。そんなふうに思うのだ。

 

この意味で今回の事件の犯人は無敵の人と地続きなものだと考えている。

おそらく、僕たちは弱者という言葉を使うことで問題を見誤ってきた。貧困であったり、マイノリティーであったり、社会から疎外されているという見方でもって、誰が弱者で、そしてその弱者にたいしていかにフォローアップするかという形で弱者のことを考えてきた。しかしながら弱者や強者という結果だけを見ることで問題を見誤ってきたのだろう。問題は孤独だ。

弱者であろうが強者であろうが人は孤独になれば、「彼が抱える問題」がむきだしになる。そして過去の恨みや現実が、映画のようにフィルム化し前景化することで社会を恨んだり、過去を恨んだり、あるいは自らを殺してしまったりする。

なぜ弱者になることがつらいのかということ、その実存や不安にこそ照準を合わせたほうが良いように思う。弱者という一見わかりやすい政治性よりも、誰も手を差し伸べてくれなくなるような境遇、つまりは孤独という実存のほうがより深刻な問題ではないだろうかと思うのだ。

 

平和と呼ばれる日本でも、近年ではそのようなむきだしの孤独を抱えた人による事件が後を絶たない。京アニ、相模原、京王線小田急線、古くは秋葉原の無差別殺傷事件はホームグロウンテロリズム、ロンリーウルフ、無敵の人などいろいろな呼び方で呼ばれている。

それらは常に無敵の人が引き起こす社会不安という文脈で語られがちであるが、しかし人間が不安になるには条件があり、その筆頭が孤独であることはおよそ間違いないだろう。

今回の事件に関しても、「犯人は無敵の人ではない」「弱者の犯行ではない」と言われるのだろうけれど、犯行動機を細分化して捉えてもたぶん何も解決しない。ゆえんテロのような凶行を萌芽させるのは、誇大妄想を膨らます境遇、孤独であるからだ。

そして重要なのが孤独という問題は政治によって救われる類のものではないということだ。政治や行政にできることはせいぜい福祉を用意したり生活を再建する程度のものだ。そのような痛み止めでは孤独が解決することはない。延命措置を施しても過去と今が繋がれてしまっている状態ではあまり意味を為さないからだ。

したがって、孤独の問題を弱者の問題として取り扱うことは、その問題を政治的問題へと矮小化しているに過ぎないと言える。あるいは、僕たちが孤独の問題を弱者の問題へとすりかえることで政治へとその問題を押し付けているとすら言えるだろう。

 

結論を言えば、誰もが孤独な人を見つけたら、それがいかに目を背けたくなるような重く暗い話でも、話を聞いて関係するような寛容さを獲得すべきなのだろう。それはとてつもなく難しいことではあるし、僕自身が出来ているかと言えばまったくそんなことはないのだけれど、しかし今のような状態が続けば、これから貧しくなっていく日本では同様の事件が起きてしまうことはほとんど明らかではある。

孤独な人を取りこぼさない社会を築いていく。難しいことではあるが、政治ではなく社会として目指すべき理想なのは間違いないように思う。

 

 

※今回の件に関してはカルト団体の問題も付随して考える必要があるように思う。知人友人を引き離し洗脳するというカルト団体の手法が人を孤独にしテロルの温床になるという側面も無視できない。