メロンダウト

メロンについて考えるよ

弱者男性合コンを見たのだが

弱者男性合コンなるものをすこし見た。たぬかな氏主催。弱者男性を集めて合コンしそれを配信するというものだ。

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けっこう話題になっていて「参加者は真の弱者ではない」みたいな話も出てるけれどそれは差し当たりどうでも良く、内容はともかくとして、たぬかな氏が参加者(弱者男性)を呼んでインタビューする様子が配信されていたのだが、目の前の人間を「弱者」と呼んでいるシーンがあり、それにすこし面喰らってしまった。参加者は弱者を自称しているのでその人のことを弱者と呼ぶのは当然ではあるのだが、日常生活で人のことを弱者と呼ぶ場面に遭遇することはほとんどというかまったくない(ネタとしてならあるが)ため、カルチャーショックのような感覚を覚えた。弱者男性というと現実を指す言葉でありながら同時に総体的なイメージを持つ言葉だったのだが、それを個別の人間にたいして使うのを見るのはどこか目を背けたくなってしまうものがあった。言葉が現実的な輪郭を持ち始めるのはこういうことなのだろうなと。


いやしかし、おそらくはインターネットの影響だと思うのだが、弱者という言葉がそうであるように現実をストレートに伝える言葉が多くなったように思う。ネットでは端的な表現が好まれる傾向があり、そのほうが流通しやすいのは確かだが、言葉には含みがあってしかるべきで、弱者だったり、あるいは孤独というのもある種の含みを伴ったほうがいくらか健康的な気がするのだ。しかしそうした含みや表現を削ぎ落す方向に向かっているような気がしてならない。

個別の人間を弱者であり孤独であると言うことは憚られるので「あの人は孤独な目をしている」とか「弱さを知っている人」みたいな形、つまり言葉ではなく表現で形容するほうが棘が少なくて済む。日常的にはそうした表現を使う人のほうが多いと思う。しかしながら現実的にはそんなことはなく、孤独な人は無敵の人である可能性があるし、貧困は犯罪を誘発する。弱さを知っているから優しくなれるというのもはっきり言うと詭弁だと個人的には思っている。弱者と呼ばれる人が厳として存在することも事実だと思う。ただ実際に誰かのことを弱者であると言う場合にはそうした詭弁を使うほうが穏当であるし、それがコミュニケーションの作法ではあるのだろう。そうした詭弁を排除し、直接的に誰々は弱者であると規定する場所はけっこう特殊な空間であることは間違いない。


弱者男性合コンを見るとそうした形容の仕方、いや、形容の貧困こそが弱者男性の問題なのではないかという気がしてくる。というよりも、もっと直接的に言えば言葉(単語)はすべからくレッテルなのではないかと感じた。

たとえば日常的に使われる「男性」や「女性」も形容されていないまま単体で使えばレッテルとなる。なにもLGBTのことを配慮していないという意味ではない。男性の中にも女性性があり、女性の中にも男性性があるのが多くの人の「性格」であるため、誰々が男性・女性であるというのは使わなければ日常生活に支障が出るため便宜的に使用しているに過ぎないものだと言える。成長過程で異性からの影響をまったく受けない人はいないため、厳密に言えば男性は女性でもあるし女性は男性でもある。

しかし言葉が流通し過ぎてその言葉の意味が当たり前のものになっていくと言葉が人を定義し始める。男性が「自分は男性であり女性でもある」と言えばわけのわからない顔をされるかバイセクシャルなのかと思われるのが通常であり、女性性ないし男性性を持っているという意味で通用することはない。男性や女性という言葉の意味が強すぎて矛盾するため認知的にバグを起こす。意味が通らない。けれど本来は男性も女性も混ざっている。それが本当のところであるが、男性や女性のように日常的に使われるものとして言葉が定義されるとその定義が人間を規定し、さらには言葉の定義を薄めることが難しくなる。
そしてこれは「弱者」にも当てはまりかねないものであるように思う。弱者男性はいまや一般に使われる言葉となっているが、すこし前まではそうではなく、いわゆるネット論壇で主に使用されていたものだった。それがだんだん広がり始めいまや普通に使われるものとなっているが、この一般化は弱者男性という言葉が定義されかねない危険性があるように思う。男性は男性であり女性は女性である、であればまだ良いが弱者は弱者であると言うのはかなり危うい。男性や女性がそうであるように、普通、弱者と一口に言っても実態は様々だ。グラデーションがある。恋愛弱者、精神的弱者、身体的弱者、経済的弱者、社会的弱者、人種的弱者、等々。これらの弱者性にひとつも当てはまらない人のほうが珍しいはずだ。みななにがしかの弱者性、問題を抱えている。両義性ないし多義性を持ち、長所で短所をやりくりしているのが普通だと思う。弱者が同時にある側面では強者であったりする。そうしたわけのわからない状態が通常であり、誰々が弱者であると言うことは本来的にはできない。仮に、身体的なハンデを抱え、精神的に病んでいて、社会的なセーフティーネットにもかからず、支えてくれるパートナーもいなく、人種的に差別されている人がいたとして、そんな環境で人は生きていけないだろう。もちろん金銭の多寡や恋愛経験など個別の指標を持ち出して弱者と言うことはできるし、議論などする場面では定義付けをし指標を元に比較するべきではあるのだが、それはリソースを振り分けるための政治ないしはアカデミズムの言葉でしかなく、「人間はそれだけではない」ことを忘れ、弱者という言葉の政治性を忘れ一般化するとけっこうおかしなことになると思う。しばしば言語化は手放しで称賛されることが多い。しかし「どこまで」言語化して良いのかという戦慄があってしかるべきだと思う。特に弱者という強烈な言葉に関しては。弱者という言葉をフランクに使われるものとし現実の個人に向けることは、個人的には違和感を覚える。

時にその言葉が人を規定し始めるからだ。

 

そうならないためにはその定義を混ぜっ返す表現だったり形容が必要だったりするのだろう。学問的に言えばそれが文学の役割だったりするのだと思う。実際、弱者と言ったところで人間の認知なんて物語ひとつでひっくり返る程度のものでしかないのだ。映画や小説、アニメの登場人物に簡単に感情移入したり、ネットの向こうの知らない人に少なくないお金を投げたり、暴力をふるう彼氏から離れられなかったり、安倍元総理を殺害した山上徹也の背景が報道されればテロリストに同情してしまうのが人間というやつで、それはある意味では愚かで危ないことではあるのだが、逆に言えばそうした物語ひとつで揺蕩う心が弱者だなんだというレッテルを吹き飛ばす礎でもある。一見するとセキュリティーホールである人間の愚かさが別の側面では政治性に縛られない自由を守るためのセキュリティーとして機能する。悪いことを支えている前提が同時に善きことを支えている。そういうものなのだと思う。

 

長くなってしまった。結論としては、弱者、強者、男性、女性という指標は非情な現実性を持っているのも確かだが、それほど確固たるものだと「思う」べきではないというのがおよそここで書きたかったことです。政治の言葉は政治の言葉であり、僕達はそれを形容し混ぜっ返す自由を持っている。そう考えたほうがいくらか柔軟でいられる。そんな気がしている。