メロンダウト

メロンについて考えるよ

ルッキズムの再興について

ちょっと生活環境が変わってなかなか孤独に没する(ブログを書く)時間がないのだけど、環境が変わったせいか新しく出来た知り合いなどもいて、そのうちの一人が「最近の若者はルッキズムがすごい」みたいな話をしていたので確かにそうかもしれないと思い、そのあたりのことを書いていきたいと思います。

 

 

ルッキズムってもうずいぶん前から問題になっていて、とりわけ日本人女性は世界的に見ても痩せすぎだと言われてきた。摂食障害になる人や美容整形に少なくない金額を使う人は今でも少なくない。女性にとって美醜は人生を左右する大きなファクターであろうことは男性から見ても想像に難くない。

しかしながら最近ではルッキズムやモデルのような体型は逆に批判の対象にもなっている。

 

Transgender model wins local 'Miss America' pageant for the first time ever | WPDE

 

アメリカでは旧来の美的価値観から見れば入賞するとは考えられないトランスジェンダー男性がミスコンで優勝するなどしている。こうした傾向は2019年あたりから顕著で、これまでとは違い多くのミスコンで黒人女性が優勝するようにもなっている。

女性の美を競う世界大会5大会すべてで黒人女性が優勝する時代に | ワールド | for WOMAN|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 

こうした「美の変遷」は多様性の尊重と言われる一方でポリコレウォッシュとも揶揄されているが、いずれにせよ美にたいする価値観を変化させようといった動きがある。日本でもミスコンを廃止する動きがあるなど、通念的には美醜自体がもはや旧時代の価値観と見なされるようになってきているのは間違いないだろう。そうした多様性を尊重する価値観は市民社会の中にも根付いてきており、体形などに言及することはもはや御法度だと言って良い。

ミスコンの件はともかく、誰もが生まれ持った身体を愛して生きていくことを尊重するのは決して間違っておらず、それ自体は奨励されるべき価値観である。

 

しかしながら他方では冒頭に書いたようにルッキズムが再興してきているような側面がある。

原因はおそらくインスタグラムやtiktokなどの動画・画像共有SNSにある。建前上では美醜で判断するのは社会通念に背くことだとされているし皆がそれに同意しているが、インスタを覗くと美人には多くのいいねがつき持てはやされる現実の承認構造がそのまま残っていることを否が応にも突きつけられることになる。恋愛の場面でも変わらず、相変わらず女性は年齢・体重などによって足切りされる。女性にとって性的関係を築くのに美醜が重要なファクターであることはこれまでとなんら変わることはないのだろう。

 

つまり政治的・通念的には美醜は解体された価値観であるが、社会環境的にはむしろ以前より美醜にたいする要求水準が上がっているという二重構造がある。これまでであればクラスや社内など限られた範囲の中で判断されていた美醜がSNSの中ではクラスで一番可愛くても埋もれてしまったりと、より美しくより綺麗にといった渇望を「持たされやすい」ことは外部から見ていてもよくわかる。これまでは井の中の蛙で良かったのが大海の中で比較される。その構造によってルッキズムが「他方では」加速する。

政治的には美は解体され、現実的には美が加速する。綱引きのような形となり、お互いがお互いを引っ張ることで何も変わらずに拮抗しているというのが美の現状ではないかと愚考するのである。

 

 

もうすこし書くと、僕は女性ではないので感覚としてはわからないが、日本において美しさというのは女性にとってある種の前提条件になっているのではないか、といった危惧を持つことがある。政治的言説をとってみてもアメリカのように美を解体しようとするようなラディカルな動きは今のところ日本にはなく、なんとなくのレベル、つまりびまん的にルッキズムは駄目だというような通念に留まっているのが日本の現状である。女性を擁護しようというフェミニズムも女性の被害を取り上げその弱者性を救済しようとするものの、美的価値観そのものを顛倒させようとするような動きは今のところ見られない。男性であれば、弱者男性や労働者階級を擁護するような言説があり、マルクス主義などがそれにあたるけれどそのような社会構造そのものにたいするアンチテーゼは弱者女性にとって現状、無いのではないだろうか。

 

 

思い出すのが三島由紀夫の女性評だ

構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義、これらはみな女性的欠陥であり、芸術において女性的様式は問題なく「悪い」様式である

 

この弁全体が当たっているのかは自分なんかにはよくわからないものの、女性が現実主義的であるのはなんとなくわかる。一般に女性は男性よりも成熟するのが早いと言われ、男性はいつまでも子供だと言われる。自分の観測範囲でもそのような傾向は確かにあるように感じる。しかしながら成熟とは言い換えれば適応のことであり、それは三島が批判するところの現実主義がそれにあたる。

現実主義的であることは一般には良いことだと考えられているが、言い換えれば適応に没して社会構造全体を俯瞰する抽象性を持ちにくいとも言える。敷衍すれば、現実主義的である以上、ルッキズムのような社会構造への批判性を持ちにくい。結果、現実主義的女性は今ここの「美の二重性」にたいし政治的にも現実的にも適応しようと試みてしまうことになる。

 

そもそもだが、結婚するには・男性から求められるには・SNSで承認されるには美しくなければいけない・痩せなければいけないなどの具体的な条件を多くの女性は課せられているが、痩せている女性が好まれるというのも現代の嗜好でしかなく、歴史を振り返れば母体として太っているほうが好まれる価値観もあった。昔だけでなく、今でも出産環境が整っていないアフリカの部族では豊満な女性のほうが好まれるという現実がある。

太るために薬まで飲むアフリカ人女性の不思議 | ニューズウィーク日本版 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

つまり現実とは変更可能なパラメーターであってそれに適応するだけとなると結局のところ何も変わらず現実に受動されるだけとなるため、現実をかえるにはまずその前提条件を抽象的に考える必要があるというのが、おそらくは三島が指摘した「女性的悪」の論旨なのであろう。

 

こうした意味でアメリカにおけるミスコンがポリコレウォッシュと批判されてもいるが、機能的に見ればそれほど簡単に批判して良いものでもないように思う。というのもSNSによってこれだけ美が先鋭化するとそれを巻き戻す必要がやはりあるように思うからだ。

別に美しくなくても良い、なんて無責任なことは言えないし具体的には僕も美しい女性がいれば目を奪われることがあるくだらない男性だけれど、SNSが喧伝する美しくなければいけないという価値観は時に暴力的であり、どれだけいいねがついたとしてもその美しさとは裏腹にグロテスクなものだと、抽象的には思う。