メロンダウト

メロンについて考えるよ

サンデルと白饅頭、権威主義への迎合、観念の分断、あるいはシッキーについて

以下記事を読んで書籍を購入したのですが、読む前に所感らしきものを書いておきたい。すこしだけ長いです(6000文字ぐらい)

www.hayakawabooks.com

 

前提として日本とアメリカの状況が違うことは留保しておくとしても、リベラル的価値観が能力主義、学歴偏重主義に依存しているのは共通するものなのでしょう。

資本主義社会において唯一残された「振り分け機能」が能力及び知性であることは疑いようがなく、知性や能力(に紐づく学歴や実績)によって或るポジションが与えられるのは適正だという正義によってこの社会は成り立っている。もちろんこれが正義なのか暴力なのかは慎重に考える必要があり、それを議論してるのがリベラルコミュニタリアン論争なのでしょうが、学術的なそれとは別にメリトクラシー能力主義)が現実的には「単に差別として機能しているよね」と言えなくもない。あるいは、仮にその振り分けが「資本主義社会において妥当」だという結論が人文学的な議論を経て出たとしても、それがすなわち現実を規定するとは限らない。平等という考えが独り歩きして「平等な競争の結果起きた格差は適正」という思想が蔓延してしまうこともある。そしてそれが差別を生むこともある。アメリカでは事実としてそのような事態になっている。サンデルの書いていることもこうした現実にたいする正義からの応答なのだと思う。つまり、能力や知性が評価されるのはこれだけ高度に資本化した世界では避けようがないけれど、その価値基準は逆説的に「そうではない人々」への差別として現前してくる。そのバックラッシュにたいする警鐘がおそらく、今回の著書なのでしょう。

平等やメリトクラシー能力主義)を社会から失くすべきかという議論ではなく、平等の傲慢さに光を当てることが「正義にかなう言論」であり、それを社会は知るべきだという論旨だと思われる。

なぜなら、サンデルに限らずとも社会正義や平等に関する議論はすでに行われており、機会の平等はいかにして達成されるべきかという議論はすでにされているからである。すこしだけ触れておくと、たとえば教育機会の平等を与えたとしても生まれた家庭の収入が違うため、生来のポテンシャルが同一だとしても環境によってその才能が開花するかに差がついてしまうことは広く議論されている。あるいは平等を達成しようとすれば政府による再分配によって教育への投資を平均化する必要が出てくるが、これは自由とは反する平等となる。さらに言えば「遺伝子の平等」を達成できない以上、メリトクラシー能力主義)は不平等に着地するしかないという批判もある。真の平等が達成できない以上、「不運を救う」機能が社会的に必要であったり、平等とは違う価値観である多様性を持ってして個人を認めるリベラリズムが必要になってくる。

おそらくサンデルが問題視しているのは「不運」の部分なのだと思っている。不運な個人は救われるべきだと考えられている一方で、「怠惰」な個人は顧みられない。カズオイシグロ氏も言っていたように怠惰な個人を掬わない点において、多様性は横にしか機能せず、縦には機能しない価値観なのであろう。

つまるところ機会の平等は怠惰を掬わない点にリベラルの思想的弱点がある。

そのような現実は以下の記事でもすでに書かれている通りとなっている。

バイデンでは癒せない米国の分断とハイパーバトルサイボーグ達|畠山勝太/サルタック|note

ハーバードやイエール大学の学生の保護者の平均年収が、日本ではちょっと考えられないほど高い事は有名ですが、そういう保護者達が、全ての子供が等しく良質な教育を受けられるように税金を支払うのではなく、大学への寄付を通じて、自分達の子供だけが良質な教育を受けられるようにしているわけですが、そんな大きな特権を受けられるわけですから、「勤勉であるから」といった洗脳なしには、特権を受けられる自分と受けられないその他大勢との差に疑問を持つのが普通の人間というものでしょう。しかし、この洗脳には致命的な副作用が伴います。なぜなら、勤勉ならば特権を受けるに値するの裏返しをざっくばらんに言えば…、

勤勉でない連中はクズだ

だからです。リベラルが反リベラルを見下していて鼻持ちならない正体はこれです

 

 この記事でwell deservedという価値観が示されているけれど、まさに怠惰な個人は努力不足であるとして切断するのがリベラルの傲慢さだと言える。リベラルが幻想する世界において、人間の機会は平等であり、結果としての格差は甘受すべきものとして扱われている。そのような価値基準がアメリカでは深刻な分断を生んでいる。実際にアメリカでは尋常ではない経済的格差や社会階層の断絶が存在する。この点において、リベラルの傲慢さ及びそれを下支えしているメリトクラシーアメリカにおいてかなり重大な論点だと言える。

しかしながらこれをそのまま日本に持ち込んで話して良いのだろうかという疑問は持つべきであろう。サンデルは決して日本のことを想定して著書を書いたわけではないはずである。ゆえに、日本の状況は我々が主体的に考えるしかない。サンデルを援用して日本も同一だとするのはそれこそが戦後敗北主義の悪習(宮台真司さん風に言えばアメリカのケツ舐め路線)でしかないのだから。

日本においてもリベラルが暴力性を持ちつつあることはこのブログにも何度か書いたけれど、アメリカのような社会階層の致命的な断絶や経済格差は日本においてはそれほど見られない。あるいは思想的枠組み、価値観の対立というやつも日本ではそれほど致命的な差ではない。もちろん経済的格差は日本でも広がってきており、社会階層の断絶もゾーニングを筆頭に推進されてきている。あるいはもっとベタに個人主義として人をバラバラにするリベラリズムのそれはアメリカよりもひどい可能性がある。しかしながら政治的対立という側面で見るにそれほど深刻な差は出ていない。

以下三浦瑠璃さんが日本人の価値観を調査したものを例に出すと

日本人価値観調査2019

https://yamaneko.co.jp/web/wp-content/uploads/e561d6435c82302b9ccc475bb42eb36f.pdf

こちらのPDF28ページに支持政党ごとの市民の価値観を示したグラフがあるけれど、それによると日本では支持政党ごとの価値観の対立はほとんど無いことがわかる。アメリカで同様の調査をすると共和党民主党で明らかな差が確認できることから分断が見て取れるけれど、日本における分断は「現実には」それほど存在しない。この意味で日本においてサンデルのようなある意味過激な資本主義批判によって社会の分断を回復しようとすれば、それ自体が分断を生む原因となる可能性もある点で注意したほうが良いと思っている。

もちろん上記PDFは価値観の分断はそれほど起きていないことを示している一方で、我々は現実に分断を感じている。それはいったいなんなのだろうかということを見通す必要はあるだろう。

日本における分断の議論はかなり複雑なもので、様々な論点があるけれど、能力主義と関係して言えることは「観念による分断」及び「権威主義への迎合」ではないか、と思っている。

はじめに権威主義への迎合について書いていくと、日本においてのメリトクラシーはかなりの部分で権威主義と連動している部分がある。ひとつ例を出すとネット論客として知られる白饅頭氏がサンデルの能力主義批判とほとんど同じことを書いていることが挙げられる。彼の場合にはインテリ・リベラル・ポリコレエリートにたいする反論を主として展開しているけれど、その骨子に能力主義批判が内在していることはおよそ間違いない。

マガジン限定記事「EVIL文筆家が100万回言ってもダメだが、サンデルが1回言えばきっと意味がある」|白饅頭|note

差別反対と喧伝する、ポリティカルにコレクトなリベラル・インテリ・エリートも、差別とは無縁でいられるわけではない。なぜなら、いま彼らの立場を与えてくれたのは、能力差別・学力差別にほかならないからだ。しかし彼らは、自分たちに有利な差別構造に対しても、一貫性を持って反対を表明するすることはないどころか、むしろその差別を別の肯定的なワード(自由競争、機会の平等など)に置き換えて正当化する」

 「中国人差別発言」の火消しに追われた東京大学が掲げる「差別のない社会」の矛盾 (1/2)

「あらゆる差別のないことを目指す社会」においても、結局のところ無能には容赦のない差別が待っている。もっとも、これらもまた「差別」ではなく「経済活動の自由」とか「機会の平等」という別の名称があたえられるのだが。かりに将来的に、すべての人間の人権感覚があまねく完璧にアップデートされ「あらゆる差別のない社会」が実現したとしても、その社会には「(学習能力・事務処理能力など)能力による序列化」だけは歴然として残ることになるのではないだろうか。

 

 

サンデルとイデオロギー的に重なる部分がある。というかこれだけ読むとほとんど同じである。サンデル自身の主張の内容については著書を読んでみないとわからないが著書のレビューなどを見るに、重なっていることはおよそ間違いないであろう。

しかしながら白饅頭氏の言説はリベラル陣営からは一顧だにされていない。アンチリベラルとしての論陣で言えば白饅頭氏はサンデルのそれと同じ論旨でその言論を展開しているが、彼は「権威ではない」ためにリベラル知識人からはまともな議論として相手にされない。読み手側も同じ反応を示している。はてなブックマークの反応などは典型的なものであるが。

この現象そのものがすでに白饅頭氏が批判するところの能力主義と、それに連関する権威主義で世の中が回っていることを示している点で白饅頭氏の論を裏付ける形なのは、リベラルからすると度し難いものなのではないだろうか。

以上のような、誰の言葉であれば聞くべきか、誰の書く文章であれば読むべきかといったこちら側(読み手側)の含意そのものが能力主義に連動した権威主義となって能力主義をより強固なものとしていく。サンデルの言うことであればとこちら側が勝手に裏読みを開始して傾聴するが、白饅頭氏の書いたものであれば読むに値しないと考えている人は数多くいる。こういった「事前の値踏み」が権威への迎合そのものであり、それこそが我々の世界を能力主義たらしめている土壌ですらある。

その意味では政治哲学の権威そのものであるサンデルは自らの頭に手斧が刺さっている状態だと言える。ちょうどこのように。

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画像はしっきーさん( id:skky17 )のアイコンをお借りしました。最近はボカロ作曲してるみたいです。

しっきーのブログ

 

話を戻すと、大学においてもそのような権威主義能力主義は連関している。良い大学に入れば面接官がその大学の権威を勝手に信用し、学生にその権威を紐づけることで能力と連動させて考えてくれる。そのために大学に入る必要が出てくる。

人に何かを伝えるためには相応のポジションを確保する必要がある。それが能力主義で動く世界のルールとなっている。そのような成果を持ってして傾聴されるという事態は人々が無意識のうちに権威に阿(おもね)っているその前提条件が背景にあると言えるだろう。

このような事態は何も政治上の言論に限った話ではない。

芸能人の炎上ひとつとっても「テレビに出るのはふさわしくない」と言われ当該芸能人は降板させられるが、これは換言するに「権威の座にいるのはおかしい」から降板させられる建付けとなっている。これもまた権威は高潔であるべきだという権威主義ゆえの事態だと言えるであろう。さらにベタな例を出せば有名Youtuberがその収益で高級外車を購入したりする動画にもwell deservedの価値観、権威主義が見え隠れする。

サンデルは能力主義がリベラルエリートの傲慢さを醸成する点で批判しているが、日本の場合には権威主義に「迎合」することが問題の本質ではないだろうか。能力主義が経済的な分断を生んでいる側面は日本においても多分にあるけれど、それ以上に能力を権威と見なしている「こちら側の敗北史観」のほうが深刻のように見える。

 

権威主義への迎合は様々なところで見られるが、社会の分断を代表するものにいまのリベラルがある。リベラルは権威が好きである。「世界はこのようなことになっている、女性差別は国際的な枠組みで見るべきだ」といった具合に、事あるごとにその言論を権威と紐づけようとする。世界基準での価値観を援用して日本は遅れている。ジェンダーギャップ指数云々と様々言っているけれど、それはつまるところ「世界の趨勢という権威」にひもづけた比較論でしか物を言っていない点で甚だ権威主義的なのである。

しかしながら、権威に依存した言論を展開すれば理念の暴走を招くことになる。メリトクラティックな回路を持ってして権威を絶対視すれば個別ケースを瞬時に理念化し、脊髄反射的に発火することになる。最近のリベラルは常にそれである。ベタに言って話ができない。日本における分断とはつまりそれだけのことである。話をしないので権威だけが宙を舞っていてそれを選択的に崇め、奉っており、その権威に恭順を示すのが思想であるというめちゃくちゃな論理で物を言っている人を多々確認できる。

女性蔑視発言でもなんでもかまわないが、個別具体的なケースにたいして思考を放棄して理念的に発火するその権威主義がどうして分断を生まないと考えられたのであろう。

つまり、日本における政治的分断とは能力主義と連関した権威主義が暴走することによって生み出されていると言ってさしつかえないであろう。権威の絶対性をもってして政治的主張を開始すれば対話が不可能になる。その対話の不可能性が日本で分断が起きていると「感じる」理由だと考えている。実際には価値観の対立は起こっていないにもかかわらず権威主義によって対話が不可能になることによって分断されているかのように感じさせられているのである。

その権威主義をやめるために、その土壌となっているメリトクラシー能力主義は日本においても批判されるべきなのであろう。

 

こういった構造と繋げて考えるに、今の日本で起きていることは「観念による分断」だと言っておよそ間違いないと考えている。

権威を振りかざして対話を拒否する言論空間がある以上、「彼の象」を知ることができなくなり、みながみなを観念でしか捉えられなくなっている。それをもってして観念的分断が発生する。フェミニズムも男性を観念的にとらえ、その逆もまた観念的にフェミニズムに反論する。僕だってその例外ではない。ようするにどこからか持ってきた権威を振りかざす限りにおいて、何がその人の理念なのか不明なのである。「知」という権威を持ってきたり、世界という権威を持ってきたりすることによってみんな論証したりするが、そんなものは図書館に行けばいい話であって、ほんとうのところこの社会の何がどうなっているのかよくわからない。何がどうなっているのかわからないから、みながみな既存のイメージ=観念でしか物事をとらえられなくなってしまっているのであろう。

政治に限らずとも、たとえば昼間に公園を散歩している男性が通報されるといったニュースをたまに見るけれど、あれも「昼間にうろうろしている男性は危険」だという観念によって判断されている。対話をする前に観念的に判断されてしまう。

すべてが観念で集団を規定している以上、観念の外に開く想像力は必要とされない。そのような現況下において人々は孤立し、弱体化し、そうすることでなおさら権威に飲み込まれ、その権威がまた対話を不可能にしていき、さらにバラバラになり、観念による分断をいっそう強固なものとしていく。

以上のような状態なのでみなが分断を感じているが、しかし一方では政治的価値観の差異は現実にそこまでないといったアンビバレントな状態となっている。

 

結論として

日本における能力主義権威主義の土壌となっている点において問題だと言える。しかしながらそれはアメリカの分断とは違う意味の問題を孕んでいる。権威主義による政治の観念化、それによる「イメージの奔流」が僕達をバラバラにし、議論すらできない状態にさせている。これを解消するためには権威を持ち出すのをやめてまず対話することから始めないと「そこにありうべき分断」を確認することすらできないと言えるのではないだろうか。